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3 嵐を呼ぶ竜

 次の日の朝、アルは当然のようにまたやって来た。その手には、朝露に濡れた川魚が数匹、エラを柳の枝に通されてぶら下がっている。森の境界線を流れる、底の小石まではっきりと見えるほど澄んだせせらぎで、夜明け前から格闘の末に捕ってきたものだ。


「やあ、リナ! 今日の朝ごはんだよ! 川で捕ってきたんだ! すごく元気で、捕まえるのが大変だったんだよ!」


 太陽をそのまま映したような屈託のない笑顔でそれを差し出すアルに、リナは眉間に深い皺を刻んだまま、何も言わずにそれを受け取った。そして、まるでそれが当然の義務であるかのように、くるりと背を向けてぶっきらぼうに小屋の中へと消えていった。

 追い返されなかった。その事実だけで、アルは満面の笑みを浮かべる。彼にとって、それは大きな前進だった。


 やがて、小屋の扉がほんの少しだけ開き、香ばしい匂いと共に、焼かれた魚が乗った木皿が二つ、地面に置かれた。アルが嬉々として駆け寄ると、扉はすぐにピシャリと、まるで彼の喜びを拒絶するかのように閉ざされる。


「ありがとう、リナ! じゃあ、ここでいただくね!」


 アルは扉に背中をもたせかけるように座り込むと、まだ湯気の立つ魚を大きな口で頬張り始めた。


「うん、おいしい! 塩加減がちょうどいいや。リナは本当に料理が上手だなあ。そういえばね、今日ここに来る途中で、金色に光る毛をしたリスを見たんだ。すばしっこくて、あっという間に見えなくなっちゃったけど、尻尾が太陽みたいにキラキラ輝いててさ! きっと幸運の印だよ!」


 扉の向こうから、返事はない。しん、と静まり返っている。それでもアルは、まるでリナが目の前にいるかのように、村での出来事や森で見つけた小さな発見を、楽しそうに一方的に話し続けた。彼の声は、拒絶の扉を透かして、静寂に満ちた小屋の中へと染み込んでいく。


 小屋の中、リナは壁に背を預け、自分の分の魚を黙々と口に運んでいた。

(…馬鹿みたい。独り言を言って、楽しいのかしら、この男は)

 そう心の中で毒づきながらも、彼女の耳は、扉一枚を隔てて聞こえてくる彼の声を、一言一句聞き漏らすまいと澄ませていた。

 何十年もの間、風の音と、時折聞こえる獣の声、そして自分の呼吸の音だけが満たしていた空間に響く、穏やかで、少し間の抜けた、温かい声。それは、彼女が頑なに守り続けてきた心の壁を、ほんの少しずつ、しかし確実に溶かしていく、春の陽光のようだった。彼女自身、その変化にまだ気づいてはいなかったが。


 そんな奇妙な習慣が、それから数日間続いた。

 アルが森で採ってきた食材を差し入れ、リナがそれを無言で調理し、扉を隔てて別々に食べる。ある日は木の洞から見つけた蜜が滴るほどの蜂の巣の一部を、またある日は葉っぱで作った即席の籠に山盛りの木苺を。

 リナは木苺を煮詰め、「保存がきくから」とだけ走り書きしたメモを添えて、小さな瓶詰めのジャムを皿と一緒に外へ出した。

 アルがそれを村で分けてもらった堅パンに塗り、「今まで食べたジャムで一番おいしいよ! ありがとう、リナ!」と空に向かって叫ぶのを、扉の向こうで聞きながら、リナは自分でも気づかないほど微かに口元を綻ばせた。そしてすぐに、そんな自分に気づいてはっとし、自己嫌悪に眉をひそめるのだった。


 その間、アルが毎晩、何事もなく村の酒場の宿舎へ帰ってくることに、村人たちの感情は複雑に変化していた。

 最初は「森の魔女の生贄になりに行った馬鹿な若者」と侮蔑と憐れみの目で見ていた彼らだったが、その認識は少しずつ揺らぎ始めていた。以前は彼を避けていた子供たちが、今では物陰から興味深そうに彼のことを見つめている。


「ねえ、本当に魔女と友達なの?」


 ある日、一番年下の少年が、勇気を出してアルに話しかけた。アルはしゃがみこんで目線を合わせると、にっこりと笑った。


「友達っていうか、まだ僕が一方的に会いに行ってるだけかな。でも、リナはすごい魔導士なんだ。ちょっと人見知りなだけだよ」


「リナ…? 魔女に名前があるの?」


「もちろんさ! それに、すごく料理が上手なんだ」


 アルが語る「森の魔女」像は、村人たちが抱いていた邪悪で恐ろしいイメージとはあまりにもかけ離れていた。彼の言葉は、恐怖という名の分厚い霧に、小さな風穴を開け始めていた。


 変化が訪れたのは、最初のスープの日から数えて五日目の朝だった。

 アルが宿を出ようとすると、酒場の主人に呼び止められた。彼の妻だという、恰幅のいい女性が、藁の籠を手に仏頂面で立っている。


「あんた、また森に行くのかい?」


「はい! リナに朝ごはんを届けに!」


 女性は呆れたように大きなため息をつくと、籠をアルに突き出した。


「あんたみたいな馬鹿は、どうせすぐに死ぬと思ってたよ。…でも、うちの亭主がね、『あいつは本物の勇者様かもしれん』なんて寝言を言い出してさ」


 その言葉とは裏腹に、彼女の声には微かな温かみが滲んでいた。籠の中には、まだ温かい卵がいくつか、丁寧に藁に包まれて入っている。


「うちの鶏が生んだ、とっておきの卵だよ。どうせなら、栄養のあるもんを持っていきな。…その、森の『友人』にも、よろしく言っとくれ」


 彼女の言葉はぶっきらぼうだったが、その目には、アルの無事を祈るような、そして自分たちの抱いてきた恐怖の正体を見極めたいというような、複雑な色が浮かんでいた。


「ありがとうございます! きっとリナも喜びます!」


 アルは卵の入った籠を宝物のように大事に抱え、いつもより少しだけ弾んだ足取りで森へと向かった。


 リナの小屋に着くと、アルは早速、籠を誇らしげに掲げた。


「リナ! 見てくれよ! 村の人に、卵をもらったんだ! 君にもよろしくって!」


 その言葉に、扉の向こうのリナが初めて、かすかに息をのむ気配がした。

 村の人から。その一言が、彼女の心に小さな波紋を広げた。何十年も、村は自分を呪い、憎んでいる場所だと思っていた。それなのに。

 数秒の沈黙の後、ぎぃ、と錆びた蝶番が悲鳴を上げるような音を立てて、扉がゆっくりと開かれた。リナは初めて、彼を小屋の中へと招き入れた。


「…いつまでも扉の外でがさごそされるのは集中できないわ。中に入りなさい」


 リナはそっぽを向いたまま、小さな声で言った。


「…言っておくけど、あなたのためじゃない。私の研究のためよ。外が騒がしいと、術式の計算に誤差が生じるから」


 言い訳がましい彼女の言葉に、アルは「ありがとう、リナ!」と心の底から嬉しそうに笑った。


 初めて足を踏み入れた小屋の中は、アルの想像を遥かに超えていた。

 壁という壁は天井まで届く本棚で埋め尽くされ、古びた革の背表紙には、アルには読めない古代ルーン文字が金色に輝いている。乾燥させた薬草の独特な香りが鼻腔をくすぐり、部屋の中央に広がる巨大な術式からは、ごく微かな魔力が陽炎のように揺らめいて見えた。それはまるで、星々の運行図を床に描き写したかのようだった。


「わあ…! やっぱりすごいな。この前は怒られちゃったけど、こうして近くで見ると、もっと綺麗だ! まるで夜空みたいだ!」


 その無邪気な言葉を聞いた瞬間、リナの体がこわばった。しかし、アルの瞳に何の悪意もなく、ただ純粋な感嘆だけが浮かんでいることを悟ると、彼女は諦めたように深いため息をついた。


「…あれは術式よ。魔法を発動させるための設計図。訓練されていない者がただ見るだけでも、精神に干渉してくるの。だから、軽々しく覗き込んだりしないで」


「この設計図が完成したら、どんな魔法が使えるんだい?」


 アルの純粋な問いに、リナは一瞬だけ遠い目をした。その瞳に、アルには見えない過去の炎が揺らめく。彼女は冗談めかして、しかし心の底では本気で、呟いた。


「…都市を、終わらせることもできるわ」


 彼女はぶっきらぼうにそう言うと、アルから視線を逸らし、手際よく卵を割り、小さな鍋で火にかけ始めた。その様子を横目に、アルは興味深そうに本棚を眺め回し、ひときわ分厚い本を指差した。


「じゃあ、こっちのキラキラした文字が書いてある本は?」


「先人たちが挑み、そして失敗してきた、数多の禁術の記録。魔法の歴史なんて、その九割九分が失敗の歴史なのよ。希望はいつも、絶望の瓦礫の中から生まれる」


「じゃあ、リナはその失敗から何か新しい魔法を見つけようとしてるのかい?」


 そのあまりにも真っ直ぐで、核心を突いた言葉に、リナは思わず手を止め、アルの方を振り返った。図らずも、彼は自分の研究の本質に触れていた。

 彼女の淡い紫色の瞳が、驚きに見開かれている。この男は、馬鹿なのか、それとも全てを見通しているのか。

 やがて、ふいと顔をそむけると、「…おしゃべりはそこまで。できたわよ」と、小さな声で呟いた。皿の上には、ふわふわの炒り卵が湯気を立てていた。その香ばしい匂いが、緊張した空気を少しだけ和らげた。


     ◇


 そんな奇妙で穏やかな時間が流れ始めた、ある日の夕暮れ。

 突然、空が不自然な速さで茜色から深い藍色へと暗転し、生暖かい風が森の木々をざわめかせ始めた。鳥たちが一斉に鳴き声を止め、森全体が息を殺したかのような、不気味な静寂が訪れる。


「すごいなあ、自然の力って! 嵐が来るのかな?」


 窓の外の異様な光景に、アルは少しワクワクしながら呟いた。一方、リナは弾かれたように立ち上がり、その顔から血の気を失っていた。


「ただの嵐じゃない…」


 彼女の肌は、大気に満ち始めた「魔気」が放つ、飢餓と憎悪の質感をビリビリと感じ取っていた。それは自然現象がもたらすものではない。明確な意志を持った、禍々しい力の奔流だった。


「何か、とてつもなく強大なものが来る…! こっちを目指して…!」


 その言葉を裏付けるかのように、地鳴りのような雷鳴が遠くで轟き、大粒の雨が屋根を叩き始めた。


「わわっ、すごい雨だ! これじゃあ村には帰れないな」


「今日はここに泊まりなさい。一歩でも外に出たら、死ぬわよ」


 リナは小屋の扉や窓を魔法で固く閉ざし、暖炉に薪をくべた。暴風が小屋を揺さぶり、風圧で暖炉の炎が激しく揺れる。雨が屋根を激しく叩く音が、二人のいる空間の閉鎖性を際立たせていた。


 重苦しい沈黙の中、アルがぽつり、と口を開いた。


「僕、勇者になった時、自分でもすごく驚いたんだ」


 リナは暖炉の前の小さな木椅子に腰掛け、両膝を抱えるようにして座っていた。炎の光が彼女の横顔を照らし、その瞳に不安の色を落とす。アルの言葉を聞きながら、彼女は無意識に自らの長い髪の毛先を指でいじっていた。それは、彼女が不安な時に無意識に出てしまう癖だった。


「里の近くの森の奥に、本物の勇者の剣が眠ってたんだ。それを抜いたのが僕だった。でもね、ゴブリンと戦った時、本当はすごく怖くて、足が震えてたんだ。お父さんに教わった型でなんとか勝てたけど、もし相手がもっと強かったらって思うと…。勇者だって言っても、僕の力はまだまだなんだ。だから、本当は僕、全然すごくないんだ。でもね」


 アルは、暖炉の炎を見つめながら、きっぱりと言った。


「それでも、僕は魔王を倒したい。勇者の剣に選ばれたのが、たまたま僕だったんだ。だったら、誰かがやらなきゃいけないなら、僕がやるんだって決めたんだ」


 そのあまりにも馬鹿正直な告白に、リナの唇から、思わず乾いた笑いが漏れた。

 彼女が書物で読んだ古の勇者とは、神々に祝福され、竜の炎で鍛えられた聖剣を手に、一人で軍勢を薙ぎ払うような、まさしく伝説の存在だった。それなのに、目の前の男が語るのはどうだ。

(勇者の剣…? ゴブリン相手にかろうじて勝った…? 私の知る『勇者』とは、何もかもが違いすぎる。まさかこの男、本気で自分を伝説の英雄だと…?)

 あまりにも突拍子もない話に、リナは一瞬、目の前の男が正気なのか疑った。しかし、彼の瞳はどこまでも真剣で、嘘をついているようには到底見えない。その純粋さが、リナには眩しく、そして恐ろしかった。


「…ふん。馬鹿じゃないの。勇者なんて、ただの綺麗事よ。あなた一人が何かしたところで、世界は何も変わらないわ」


「うん、僕一人じゃ、何も変えられないかも。ゴブリン一匹にだって、やっとだったんだから」


 アルは、リナの冷たい言葉を、あっさりと肯定した。その素直な反応に、リナは少しだけ意表を突かれる。


「だから、僕はリナに会いに来たんだ。君みたいなすごい魔導士が仲間になってくれたらって。それに、旅を続ければ、きっと他にも仲間が見つかると思うんだ。僕と、リナと、未来の仲間たち。みんなが一緒なら、何かを変えられるかもしれないだろ?」


 そのあまりにも真っ直ぐな瞳に、リナは言葉を失った。彼女の脳裏に、過去の光景がフラッシュバックする。燃え盛る街、人々の悲鳴、そして自分に向けられる憎悪の瞳。

(仲間…? この私が…?)

 良かれと思って振るった力が、守りたかったものまで焼き尽くしたあの日から、彼女の世界に仲間という言葉は存在しなかった。それなのに、目の前の男は、何の疑いもなくその手を差し伸べてくる。


 リナが何かを言い返そうと口を開きかけた、その時だった。


 空から叩きつけられていた強大な魔気が、さらに密度を増した。ビリビリと空気が震え、絹を引き裂くような甲高い音と共に、小屋を守っていた幾重にも張られた防御結界が、外側からガラスのように粉々に砕け散った。


 咆哮。


 それは、空気をビリビリと震わせる、絶対的な存在の雄叫びだった。


「来た…!」


 リナは弾かれたように立ち上がり、杖を掴む。

 魔法で補強した扉が、内側から弾け飛んだ。吹き荒れる暴風雨と共に、巨大な影が姿を現す。

 それは、竜だった。神話やおとぎ話で語られる「厄災級」の、嵐を呼ぶ黒竜。濡れた黒曜石のようにぬらぬらと光る鱗は、降りしきる雨粒を弾き、時折光る稲妻を反射して不気味な光を放つ。溶岩のように赤く輝く双眸(そうぼう)が、小屋の中の二つの小さな命を、冷酷に見据えていた。その翼が巻き起こす風圧が、小屋の中のものをめちゃくちゃに吹き飛ばした。

 そして、その周囲には、数十匹はいるであろう、狼ほどの大きさの小竜たちが、主を守るように、あるいは獲物を前にした猟犬のように、低空を飛び交っている。


「厄災の黒竜⋯それに小竜?」


 リナは即座に状況を判断し、アルに向かって叫んだ。


「絶対にここから動くな!」


 彼女は一瞬で迎撃の術式を構築し、嵐の中へと躍り出た。


「風よ、刃となりて敵を穿て!――千刃乱舞(サウザンドエッジ)!」


 リナの詠唱と共に、大気中の風が収束し、無数の不可視の刃となって小竜の群れを切り裂く。数匹が甲高い悲鳴を上げて墜落するが、数が多すぎる。


「土よ、我が盾となれ!――岩砦(ロックフォートレス)!」


 地面から巨大な岩の壁が隆起し、間一髪で黒竜本体から放たれた灼熱のブレスを防ぐ。岩の壁は一瞬で溶解し、蒸気を上げて崩れ落ちた。

 小屋の中からその光景を見ていたアルは、息をのんだ。


「すごい…リナはやっぱり、本物の魔導士なんだ…!」


 恐怖よりも先に、感嘆が口をついて出る。

 しかし、本体である黒竜は、小竜の全滅など意にも介さず、その巨大な顎を再び開いた。今度は凝縮された雷の魔力が、眩い光と共に迸る。


「させるか!――三重防御壁(トリプルウォール)!」


 リナの前に、三枚の半透明の光の壁が出現する。竜の雷撃サンダーブレスは一枚目、二枚目の壁を紙のように容易く粉砕し、最後の壁に激突して激しい火花を散らした。

 防ぎきった、と思った瞬間、黒竜の巨大な尻尾が、音速を超えて鞭のようにしなり、リナの体を横薙ぎに打ち据えた。


「ぐっ…!」


 小さな悲鳴と共に、リナの体は木の葉のように吹き飛ばされ、泥濘に叩きつけられる。

 黒竜は追撃の手を緩めない。再び放たれたブレスが、リナがいた場所の背後にあった森の木々を薙ぎ倒し、大地を焦がしていく。

 そして、その余波が小屋の壁を抉った。

 ガシャァァン!という轟音と共に、壁際の本棚が倒れ、リナが何十年もかけて集めた貴重な古書が炎に包まれていく。薬草の瓶が砕け散り、様々な色の液体が混じり合って異臭を放つ。そして、床に描かれた術式の一部が、熱で黒く焦げ、その緻密な文様を失い、意味をなさなくなった。


 その光景が、リナの脳裏に、決して忘れることのない地獄の記憶を鮮明に蘇らせた。

(私の…研究が…私の、全てが…!)

 耳鳴りのように響く、かつての隣人の罵声。「人殺し!」「悪魔!」焦げ付く匂い。肌を焼く熱。助けを求めて伸ばされた、師の手。


「あ…ぁ…う…」


 リナの動きが、ぴたりと止まった。杖を握る手が、カタカタと震え始める。頭の中で術式を構築しようとしても、恐怖がそれを濃い霧のように掻き消していく。

(だめだ…全力を出したら…また、暴走する…)

 恐怖が、彼女の思考と魔力の流れを、内側から凍てつかせていく。


 動けなくなったリナを見て、黒竜は勝利を確信したかのように、とどめを刺さんと巨大な爪を振り上げた。その爪の先には、凝縮された闇の魔力が渦を巻いている。

 その、絶望的な瞬間。


「リナァァァッ!」


 アルが、半壊した小屋から飛び出した。彼の目に映っていたのは、絶望に凍り付くリナの姿だった。

(違う…! リナは弱くない!)

 脳裏に、先ほどの光景が焼き付いている。風を刃に変え、大地を盾となし、雷のブレスさえも防ぎきった、圧倒的な魔導士の姿。あの力が、彼女の本当の姿だ。

(今、リナは何かに怯えて、動けないだけなんだ。)

 彼はリナを庇うように、その小さな背中で竜の前に立ちはだかった。その手には、お守りのように握りしめた、錆びた剣。


 黒竜は、振り上げた爪をぴたりと止めた。眼下の、あまりにも矮小な存在を、値踏みするように見下ろしている。その巨大な顎から、嘲笑うかのような低い唸り声が漏れた。

 その、一瞬の静寂を切り裂いて、アルは叫んだ。


「リナ! 聞いて!」


 その声は、一点の迷いもない、魂からの叫びだった。


「僕も、初めてゴブリンと戦った時はすごく怖かった! 三年稽古したけど、やっぱり実戦経験が足りないから、僕の実力はまだまだだって痛感したんだ!」

「でも、そんな僕でも、やってきた稽古を信じたら、ちゃんと戦えた! 稽古は、僕を裏切らなかったんだ!」


 それは、彼が自分を冷静にそして少し勘違いして分析し、それでもなお、積み重ねてきた努力の価値を信じているからこその言葉だった。彼は、リナも同じなのだと、心の底から思っていた。


「リナだって同じだよ! こんな森の奥で、ずっと一人で魔法の研究をしてたんだろ? いきなりこんなのと戦うことになって、戸惑うのは当たり前だ!」

「だから信じて! 君が自分で、ずっと積み上げてきたその魔法を! 大丈夫、君ならできるさ」


 その言葉が、リナの凍てついた心の奥底に、熱い楔のように打ち込まれた。

 黒竜は、矮小な存在への興味が完全に尽きたとばかりに、再びその爪を振り下ろす。


 ガギィィン!という、耳を裂くような金属音が響き渡った。

 アルが突き出した剣に、黒竜の爪が激突する。あまりにもあっけなく錆びた刀身はへし折れ、凄まじい衝撃がアルの体を枯れ葉のように吹き飛ばした。


「ぐっ…ぁっ!」

「アル!」


 絶望が、リナの心を完全に覆い尽くそうとした、その刹那。

 アルの、あまりにも真っ直ぐな言葉が、彼女の世界の中で何度も、何度もこだました。


『大丈夫、君ならできるさ』


 なぜ。

 なぜ、この男は、信じられるの。


 アルは知らない。リナが積み重ねてきた時間が、希望ではなく絶望の歴史であることを。彼女の研鑽が、街を焼き、人々を不幸にした「罪」そのものであることを。

 アルは、リナの躊躇いを、ただの「ブランク」からくる戸惑いだと、一点の曇りもなく信じている。

 その致命的なまでの善意の勘違いが、リナの心を揺さぶった。


(違う…あなたは何も知らない…)

 私の力は、呪われた力なのに。私の努力は、誰かを幸せにするためのものじゃなかった。

(でも…この人は…)


 この男は、私の罪も、私の絶望も、何も知らない。

 ただ、私がこの森で、たった一人で、ひたすらに魔法と向き合ってきた時間を――私が自らに課した、果てしない罰の時間を――何の疑いもなく、尊い「努力」だと信じてくれている。


 アルの純粋すぎる肯定が、彼女が自らに課した「罰」という名の檻を、外側から破壊していく。

 彼女の力が、罪の対価なのではない。ただ、ひたむきだった少女の、努力の結晶なのだと。そう、言われている気がした。


(ああ、そうか…)

 彼女は、思い出した。ただ魔法が好きで、その世界の理を解き明かしたくて、無我夢中で研究に没頭していた、あの頃の自分を。


(私は、逃げていただけなんだ。自分の努力の結晶である、この力から…)


 カチリ、と。心の中で、何かの歯車が噛み合う音がした。

 恐怖の霧が、晴れていく。


(見ていて、アル)


 リナが顔を上げた時、黒竜は追撃のために、再びその爪を振り上げていた。


(あなたが「努力」だと信じてくれた、私の全てを!)


「――させない…!」


 リナの声は、もはや震えていなかった。それは、絶対的な女王が発するような、凛とした響きを持っていた。

 彼女が杖を掲げた瞬間、世界が光に満たされた。

 それは、彼女が長年、自らを罰するために封印し続けてきた、彼女の天才性の本質。世界の理そのものに干渉し、因果律を書き換える、創造の魔法。


「時よ、止まれ――クロノ・スタシス!」


 リナを中心に、淡い金色の光の波紋が広がり、世界を飲み込んでいく。振り下ろされた黒竜の爪が、アルのすぐそばの地面を抉る、その寸前でぴたりと静止した。暴風雨の雨粒が、空中に停止する。燃え盛る炎の揺らめきが、絵画のように固まる。

 時が、止まったのだ。

 時が止まった世界で、リナは荒い息を繰り返しながら、吹き飛ばされたアルのそばに駆け寄った。


「…馬鹿。本当に、死ぬかと思ったわ」


 その声は掠れていたが、そこには確かな温かみが宿っていた。地面に倒れたままのアルは、しかし、驚きと尊敬に満ちた瞳でリナを見上げていた。


「すごいよリナ! これが君の本当の力なんだね!」


「立てる? アル」


「うん、大丈夫!」


 アルは痛む体を叱咤するように、ゆっくりと立ち上がった。その姿を見届け、リナは静止した黒竜に向き直り、再び杖を構えた。彼女の瞳には、もはや恐怖の色はない。あるのは、守るべきものを見つけた者の、強い決意だけだった。


「私の聖域を荒らしたこと、そして…私の仲間を傷つけようとしたこと」


 リナは静かに杖を下ろし、時の停止を解除した。世界が、再び色と音を取り戻す。


「後悔させてあげる…!」


 動き出した黒竜と小竜たちが一斉に二人めがけて殺到する。だが、それよりも早く、リナは杖を地面に突き立てた。


「風よ、天へ続く螺旋となれ!――天衝の風渦ヘリックス・テンペスト!」


 彼女を中心に、凄まじい上昇気流が巻き起こり、巨大な竜巻となって天を衝く。竜たちは抗う術もなくその暴風に巻き込まれ、断末魔の叫びと共に、渦の中心を吸い上げられていく。

 遥か上空、暗雲の渦の中へと打ち上げられた竜たちが、なす術もなくもがいている。それを見据え、リナは天に杖を掲げた。彼女の全身から放たれる魔力が、杖の先端に収束していく。


「星よ、我が裁きとなりて闇を滅せよ!――極小新星(マイクロ・ノヴァ)!」


 リナの杖先に、夜空を凝縮したかのような漆黒の球体が出現した。それは一瞬、膨張するかのように見えたが、次の瞬間には凄まじい速度で収縮を始める。周囲の光も音も、全てがその一点へと吸い込まれていくかのような、絶対的な静寂。

 そして、極限まで収縮した球体が、音もなく弾けた。


 純白の破壊の光が空中で爆発的に膨張し、上空の竜たちをその存在ごと、塵一つ残さず消し去っていく。


 やがて光が闇に溶けて消えると、後には死闘があったとは思えないほどの静寂だけが残された。吹き飛ばされた暗雲の隙間から差し込む月明かりが、まるで舞台のスポットライトのように、嵐の爪痕を――半壊した小屋と、焦げ付いた大地、そしてその中心に立つ二人だけを、静かに照らし出していた。


 すべてが終わったのだと、その静けさが告げていた。


 瞬間、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、今まで意識の外に追いやっていた凄まじい消耗感がリナを襲う。彼女は、その場に膝から崩れ落ちた。


 それは単なる魔力の枯渇による疲労ではなく、もっと深い、魂そのものの消耗だった。


「……ごめんなさい」


 絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。

 俯いた彼女の瞳には、アルの姿は映らない。ただ、自分の力が引き起こした破壊の光景だけが、過去の悪夢と重なって焼き付いていた。


「あなたを巻き込んで……怪我までさせてしまった……」


 守ろうとしたものを、結局は自分のせいで失ってしまう。アルを失う恐怖は、リナの心に深く刻まれた『焦土の魔女』の罪を、鮮明に蘇らせていた。


「こんなの、かすり傷だよ」


 アルは彼女の前にそっとしゃがみ込み、その視線を合わせようとした。彼の声には、一片の咎める響きもなかった。


「僕の方こそ、リナに助けてもらったんだ。だから、ありがとう。本当に、無事でよかった」


 あまりにも真っ直ぐな、汚れのない感謝の言葉だった。

その純粋さが、罪悪感に苛まれるリナの心には、鋭い刃のように突き刺さる。彼女はますます顔を上げることができなくなった。


 沈黙の後、俯いたまま、彼女は小さな声で言った。


「……あなたの仲間になってほしいという話、まだ有効かしら」


「え?……うん、もちろん!」


 アルの言葉に、リナはゆっくりと顔を上げた。その瞳には、諦めと、少しの意地と、そして隠しきれない安堵の色が浮かんでいた。


「そう。なら、なってあげるわ。見ての通り、家は壊れて研究も続けられない。行く当てがなくなったから、仕方なく、よ」


 それは、彼女なりの、感謝と本心を隠すための、不器用な宣言だった。


 アルは一瞬きょとんとした後、すべてを理解して、「うん!」と力強く頷いた。

その一点の曇りもない笑顔を見ながら、リナは心の中で一人、呟く。


(この人は、まだ何も知らない。私が、かつて『焦土の魔女』と呼ばれたことも、この力がどれだけの人を不幸にしたのかも)


 彼女は、アルの温かさに安堵すると同時に、氷のような新たな恐怖に支配されていた。



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