2 森の魔女と勘違いの勇者
酒場の扉が背後で閉まると、重く淀んだ空気は断ち切られ、アルはひんやりとした夕暮れの空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
村の通りには人影もまばらで、家路を急ぐ数人の村人が、森へ向かうアルの姿に気づくと、まるで幽霊でも見たかのように足早に家の中へと駆け込んでいく。固く閉ざされた窓の隙間から漏れる灯りが、まるで彼を拒絶しているかのようだった。
村人たちの恐怖は、アルの耳には全く違う意味で届いていた。
あれほどまでに人を怖がらせることができるのは、それだけすごい魔法が使える証拠に他ならない。きっと、本当は優しい人なのに、何か誤解されているだけなのだ。
自分が仲間になってもらって、村人たちに彼女の本当の姿を教えてあげなくては。
そんな使命感にも似た思いを胸に、アルの足取りは軽やかだった。彼の頭の中は、これから出会うであろう仲間候補のことでいっぱいだった。
どんな魔法を使うのだろう。どんな話をする人だろう。リュックサックに入っているお菓子は、気に入ってくれるだろうか。
恐怖や不安といった感情が入り込む隙間は、彼の心には一欠片もなかった。
やがて村のはずれ、巨大な影が口を開けて待ち構える森の入り口にたどり着く。夕闇が、巨大な獣の顎のように、じわりと森を飲み込んでいく。
アルが背にした村の家々からは、温かい灯りがぽつり、ぽつりと灯り始めていた。それはまるで、此岸と彼岸を分かつ境界線のようで、アルが今から踏み込もうとしている世界の異質さを際立たせていた。
一歩、森に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
生暖かく、湿り気を帯びた空気が、苔と腐葉土の匂いを乗せて、彼の肺を満たす。ついさっきまで背後に感じていた村の喧騒は嘘のように遠ざかり、代わりに、不気味なほどの静寂が支配していた。
木々は、どれも異様な形にねじくれていた。天を目指すことを諦めたかのように横に這う幹、苦悶に喘ぐ人の腕のように絡み合う枝。葉擦れの音すら、まるでひそやかな囁き声のように聞こえる。道と呼べる道はなく、獣たちが踏み固めただけの、か細い痕跡が続いているだけだった。
父親が言っていた、魔物が出そうな森とはこういう感じなのだろうか、とアルは少しだけ思った。しかし、不思議と怖くはなかった。自分は勇者なのだから、きっと大丈夫。そして、これから会う人も、決して悪い人ではないはずだ。
村の老鉱夫が言っていた、「森の木々がこっちを見て笑う」という言葉が、ふと頭をよぎる。確かに、木の幹に浮き出た節穴が、こちらを嘲笑う巨大な顔のように見えなくもない。
だが、アルはそれを不気味だとは思わなかった。冒険者だった父は、彼に剣の稽古をつけるたび、口癖のように言っていた。
「いいか、アル。世界はお前が見ているよりもずっと広くて、ずっと深い。人知の及ばない力や、目には見えない理がそこら中にある。森には森の、山には山の主がいる。だから、どんな場所にだって敬意を払うんだ。決して、自分たち人間が一番偉いなどと思うなよ」と。
その教えは、アルの中に深く根付いていた。だから彼は、目の前の森をただの不気味な場所ではなく、意思を持つ一つの大きな存在として捉えていた。彼は背筋を伸ばし、森に向かってまっすぐに告げた。
「お邪魔します。僕はただ通りたいだけだから、よろしくね」
もちろん、返事はない。ただ、彼の声が吸い込まれた後、森の静寂が、より一層深くなったように感じられた。
陽が落ちるにつれて、森はその表情をさらに険しいものへと変えていく。足元はぬかるみ、木の根が至る所で罠のように盛り上がっている。
普通の人なら、方向感覚を失い、同じ場所をぐるぐると回り続けてしまうだろう。まるで、侵入者を拒むかのように、森全体が不可視の力を持つ巨大な迷宮と化しているかのようだった。
しかし、アルはその森が持つ不可思議な力に全く気づいていなかった。同じような景色が続くことに、彼は少しだけ首を傾げる。
「この森は、似たような木が多いんだな。これじゃあ、目的地を決めてないと迷子になっちゃうかも」
と、彼は呑気に考えた。初めて来た人は迷ってしまうかもしれないが、自分の目的地は一つしかないのだから、まっすぐ進めばいつかは着くに違いない。
彼の単純な思考は、迷いの森の法則性をいとも簡単に無視した。目的地しか見ていないその純粋さが、あるいは彼の持つ天性の強運が、結界の緻密な魔法法則に僅かな歪みを生じさせていた。まるで、複雑な数式で構成された壁に、理屈の通じない一点の穴が空いてしまったかのように。
どれくらい歩いただろうか。足は泥にまみれ、額には汗が滲んでいた。さすがのアルも、少しばかり心細さを感じ始めていた、その時だった。
不意に、目の前を覆っていた鬱蒼とした木々が途切れ、視界がぱっと開けた。
そこに、一軒の小さな小屋が、まるでおとぎ話の挿絵のように、ひっそりと佇んでいた。
壁は古びた石と木で組まれ、屋根にはびっしりと苔が生えている。煙突からは、細く白い煙が頼りなげに立ち上っていた。小屋の周りには、手入れの行き届いた小さな畑があり、様々な薬草や野菜が整然と植えられている。軒先には、乾燥させた薬草の束がいくつも吊るされ、独特の香りを漂わせていた。
村人たちが語った「魔女の棲家」というおどろおどろしいイメージとはかけ離れた、静かで、どこか生活感のある佇まい。アルは感心して、ほう、と息を漏らした。
「わあ、素敵な家だ。こんな森の奥に、一人で建てたのかな」
彼が感心しながら一歩、小屋に近づいた、その瞬間だった。
バタン!と乱暴な音を立てて、小屋の扉が内側から開け放たれた。中から飛び出してきたのは、一人の少女だった。
歳は、アルと同じくらいだろうか。しかし、その淡い紫色の瞳は、同年代の誰もが持ち得ない、深い湖の底のような静けさと、底知れない孤独の色をたたえていた。夜の闇を溶かして作ったような艶やかな黒髪は、少女の瑞々しさを持ちながら、その佇まいはまるで、長い時を生きる古木のように落ち着いている。
彼女こそ、村で「森の魔女」と噂される天才魔導士、リナその人だった。
「あなた…っ! どうやってここまで来たの!?」
リナは、予期せぬ侵入者の姿に、完全に動揺していた。自分の張った結界は完璧なはずだった。この何十年、誰一人としてこの小屋にたどり着いた者はいなかった。それなのに、目の前の青年は、まるで散歩でもしているかのような、呑気な顔でそこに立っている。
自分の聖域が、いとも容易く土足で踏み荒らされたような感覚に、彼女は恐怖と屈辱で身を震わせた。
彼女はそれを押し殺し、杖をアルに向け、精一杯の虚勢を張って叫んだ。声が僅かに震えていることには、気づかないふりをして。
「ここは私の領域よ! すぐに立ち去りなさい! さもないと…!」
杖の先端の光が、パチパチと威嚇するように火花を散らす。しかし、アルは威嚇されていることに全く気づいていないのか、あるいは全く意に介していないのか、満面の笑みを彼女に向けた。
「こんにちは! 僕はアル。勇者なんだ。すごいね、君がこの家のあるじかい? こんな森の奥に、こんなに素敵な家があるなんて、びっくりしたよ!」
勇者、と名乗る男を、リナは値踏みするように観察した。身に着けているのは、旅慣れているとは言い難い、簡素な革鎧。そしてリュックの脇に括り付けられた剣は、刃こぼれだらけの、お世辞にも手入れされているとは言えないナマクラだった。
(どこが勇者よ…ただの世間知らずの若造じゃない…)
リナは内心で毒づいた。脅威度は限りなく低い。だが、だからこそ不気味だった。
そこでアルは、村で聞いた話を思い出し、純粋な好奇心から尋ねた。
「もしかして、君が村で噂の『森の魔女』かい?」
その言葉を聞いた瞬間、リナの肩がぴくりと震えた。「魔女」という響きに含まれた、長年の侮蔑と恐怖を、彼女は敏感に感じ取る。
しかし、目の前の男の瞳には、村人たちが見せたような、忌避や憎悪の色は全く浮かんでいなかった。ただ、子供のような、まっすぐな好奇心があるだけだ。
そのあまりにも屈託のない態度に、リナは完全にペースを乱された。用意していた威嚇の言葉が、喉の奥で氷のように凍り付く。
「わ、私は…リナ」
かろうじて、彼女は自分の名前を絞り出した。そして、投げつけられたばかりの呼称を、棘を含んだ声で強く否定した。
「…『魔女』なんかじゃない。魔導士よ」
「魔導士のリナ! やっぱりすごい魔法が使えるんだね! 僕、君に会いに来たんだ!」
やっぱり、彼女は魔導士だったんだ。アルの確信は喜びに変わった。村の人たちは怖がっていたけれど、話せばきっとわかってくれるはずだ。
「私に…? 何のために」
「仲間になってほしいんだ!」
アルは、単刀直入に、そしてあまりにも真っ直ぐな瞳で告げた。
「僕は魔王を倒すために旅をしている。君のような素晴らしい魔導士の力が、どうしても必要なんだ!」
リナは、呆気に取られて言葉を失った。仲間? 魔王を倒す? 目の前の青年が、何を言っているのか全く理解できなかった。
何十年も、たった一人で生きてきた。人を避け、世界を拒絶し、この静かな森の奥で、誰にも知られず、誰の記憶にも残らず、朽ちていくのだと決めていた。それなのに。
「…馬鹿なことを言わないで」
リナは、心の動揺を隠すように、冷たく言い放った。
「私は誰とも馴れ合うつもりはない。それに、あなたの旅に付き合う義理もないわ。…二度とここへは来ないで」
そう言うと、彼女は一方的に話を打ち切り、アルに背を向けて小屋の中へ消えてしまった。再び、バタン、と扉が閉まる音が、森の静寂に響き渡る。
残されたアルは、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて「そっかあ」と少し残念そうに呟くと、踵を返した。
少し急すぎたのかもしれない。きっと彼女をびっくりさせてしまったのだろう。でも、ここで諦めるわけにはいかない。父親がよく言っていた。本当に大事なことは、一度で諦めず、何度もお願いするのが肝心なのだと。
アルは固く決意を新たにした。
◇
次の日の昼下がり。
リナが畑で薬草の手入れをしていると、森の木々の間から、ひょっこりと見慣れない人影が現れた。昨日追い返したはずの、あの勇者を名乗る青年だった。
「やあ、リナ! また来たよ!」
アルは、昨日と全く同じ、屈託のない笑顔で手を振っている。その手には、森で採ってきたという、鮮やかな赤色をしたキノコが数本握られていた。
(馬鹿じゃないの…? あれは、触るだけでかぶれる毒キノコよ…)
リナは内心で悪態をつきながら、信じられないという思いで、持っていた鍬を取り落としそうになった。
「どうして…? 二度と来るなと言ったのに!」
呆れ果て、怒りがこみ上げてくる。彼女は杖を手に取ると、今度こそ本気で追い返そうと、小さな竜巻を巻き起こす魔法を放った。アルの足元で、枯れ葉や小石が渦を巻いて舞い上がる。
「わっ! すごい! これが風の魔法かい? 涼しくて気持ちいいね!」
アルは、目を輝かせて喜んでいる。全く効いていなかった。
脅しや威嚇の類は、彼には通用しないのだと、リナは悟らざるを得なかった。彼女はそれ以上相手にするのをやめ、徹底的に無視を決め込むことにした。
さらに次の日も、アルはやって来た。
「やあ、リナ! おはよう!」
リナは返事もせず、小屋の壁に立てかけてあった薪を、斧で黙々と割り始めた。トスン、トスン、と乾いた音が響く。それは彼女にとって、心を無にするための儀式のようなものだった。
アルは、薪割りをしているリナのそばにしゃがみ込むと、ポケットをごそごそと探り始めた。
「そうだ、これあげるよ。森を歩いてたら、綺麗なのがあったから」
彼が差し出したのは、川底で磨かれたのか、卵のように丸い白い石と、奇妙な螺旋状にねじくれた木の実だった。リナは一瞥もくれず、薪割りを続ける。
「……」
アルは少し困ったように眉を下げたが、気を取り直して、その石と木の実を、近くの切り株の上にちょこんと置いた。
「薪割り、大変そうだね。僕も手伝おうか?」
彼は、リナが割った薪を、下手くそながらも積み上げ始めた。大きさがバラバラで、すぐにガシャガシャと崩れてしまう。その度に、リナの眉間の皺が深くなる。
その日は、結局アルが一方的に喋り、薪積みを崩し続け、リナがそれを完全に無視するという形で終わった。
アルが森に帰っていくのを気配で感じ取ると、リナはふう、と大きなため息をついた。そして、なぜか視線が切り株の上の「ガラクタ」に引き寄せられる。
「……何の役にも立たないものばかり」
そう吐き捨て、一度は背を向けたものの、数秒後には戻ってきて、乱暴にそれを掴むと小屋の中へと入っていった。
そして、まるで何かの衝動に駆られたかのように、それを窓辺の、薬草の瓶が並ぶ端に置いた。実用的なものしかない殺風景な室内に、その二つの「無意味なもの」は、ひどく場違いに見えた。
◇
リナが徹底的な無視を決め込んでから数日後。彼女は研究に没頭することで、外の騒音を意識から締め出そうとしていた。
小屋の中は、彼女の精神を体現したかのように、整然としていた。壁一面を埋め尽くす、膨大な蔵書。そして床には、来るべき戦いに備え、古代の文献から解読した複雑な魔法陣が描きかけのまま広がっている。
しかし、その静寂は、今日も扉の外から聞こえる能天気な声によって破られた。
「リナー! いるんだろー? 今日こそは仲良くなるために、すごいものを持ってきたんだ!」
リナは聞かなかったことにして、魔法陣の線を一本、慎重に引き足した。
「じゃーん! 『四大精霊のカード合わせ』さ! 前の人が出したカードと同じ色か、同じ精霊の絵のカードを出していくんだ。特別な魔法のカードもあって、次の人の番を飛ばしたり、順番を逆にしたりもできるんだよ! やってみないかい?」
反応がない。
「あれ? じゃあこっちはどうだい? 村で買った甘いお菓子! これすごくおいしいんだ!」
しーん。リナはついに耳を塞いだ。
扉の外のアルは、うーんと唸った。どうやらカードゲームもお菓子も違ったらしい。彼は小屋の周りをうろうろし、ふと、埃っぽいガラスがはまった窓から、中の様子を覗き込んだ。
薄暗い小屋の中、床一面に、見たこともないほど複雑で、緻密な模様が描かれているのが見えた。無数の線が幾何学的に交差し、古代の文字のようなものが円環状にびっしりと書き込まれている。
アルにはそれが何なのか全く分からなかったが、その圧倒的な情報量と芸術的な美しさに、ただただ息をのんだ。
「すごい…! リナ、君は絵も描けるのかい? 床に描かれた、その魔法みたいな絵はなんだい? すごく綺麗だ!」
彼の無邪気な賞賛の声が、静かな小屋の中に響き渡った。
その言葉が聞こえた瞬間、中で作業をしていたリナは、まるで心臓を鷲掴みにされたかのように弾かれたように立ち上がった。
(やめて…!)
リナの血の気が引いた。あれはただの絵ではない。魔王軍に対抗するため、自分のすべてを注ぎ込んで構築している、超高密度の術式そのものだ。膨大な魔力が渦巻き、一本の線の歪み、一文字の間違いが、術全体の暴発を招きかねない、極めて危険な代物。それを、この男は…!
(絵ですって…? これが、私の覚悟が、ただの綺麗な絵…!?)
恐怖と、自分の人生を懸けた研究を土足で踏み荒らされたかのような屈辱が、同時に沸点に達した。
「馬鹿っ! 覗き見るな! それはお前のような者に軽々しく見せていいものじゃない!」
半狂乱の叫び声と共に、ガシャーン!と凄まじい音を立てて窓の内側から分厚い木の板が打ち付けられ、外の光が完全に遮断された。
アルは「そ、そんなに大事なものだったのか…ごめんよ」と驚いて謝りながら、今日のところは引き上げることにした。
小屋の中、リナは扉に背を預け、荒い息を繰り返していた。心臓が、警鐘のように激しく鳴り響いている。
結界をいとも容易く突破されたこと。そして、あの男の、全てを見透かすような、それでいて何も考えていないような、不思議な瞳。
(まただ…どうして、私の前に現れるの…)
彼女の脳裏に、忘れたはずの過去の断片が蘇る。優しさや好奇心は、いつだって絶望への序章だった。信じた先に待っているのは、裏切りと喪失だけ。もう二度と、あんな思いはしたくない。
ふと、視界の端に、窓辺に置いた白い石が映った。陽の光を浴びて、ぼんやりと輝いている。
リナは、なぜ自分がこんなものを拾ってしまったのか、自分でも分からなかった。
◇
そして、三日後の朝が来た。
リナは、もうアルが来ることを、半ば諦め、半ば当然のこととして受け入れ始めていた。しかし、今日はどこか集中できない。耳が、無意識に森の音を探っていることに気づき、リナは小さく舌打ちした。
案の定、森の木々の間から、あの能天気な声が聞こえてきた。
「リナ! お腹すいてないかい?」
今日のアルは、両腕にたくさんのものを抱えていた。森で採れたという、瑞々しい木の実や、土のついたままの芋。おそらく、彼の旅の食料なのだろう。
「これをあげるよ! みんなで食べると、もっと美味しいと思うんだ!」
一人で食べるより、二人で食べた方が絶対に美味しい。アルはそう信じていた。これは自分の大事な旅の食料だが、彼女と仲良くなるためなら、全部あげても惜しくはない。
アルは、それらの食材を、リナの家の前にどさりと置いた。
リナは、その芋の山を、しばらく無言で見つめていた。何かが、彼女の中でぷつりと切れたような気がした。捨てるのはもったいない、という合理的な思考と、こいつのために何かをしてやるなんて、という感情的な反発がせめぎ合う。
結局、彼女は深いため息をつくと、前者を選んだ。アルには目もくれず、芋をいくつか拾い上げ、小屋の中へと入っていった。
誰かのために温かいものを作るなんて、いつぶりだろうか。リナは、鍋を火にかけながら、遠い過去を思い出そうとして、すぐに首を振った。思い出したくもない。
やがて、コトコトと何かを煮込む音と、食欲をそそる良い匂いが、扉の隙間から漂ってくる。
アルが、期待に満ちた目で扉を見つめていると、やがて扉が静かに開いた。リナが、木製の器を二つ、手に持って立っていた。その動きはどこかぎこちない。
「……」
彼女は何も言わず、一つの器をアルに突き出す。中には、湯気の立つ温かいスープが入っていた。芋や木の実が、ハーブと共に煮込まれている。
アルは、目を丸くしてそれを受け取った。
「こ、これは…僕に?」
「勘違いしないで。あなたが持ってきた食材を、捨てるのがもったいなかっただけ。責任持って食べなさい」
リナはそっぽを向きながら、ぶっきらぼうに言った。彼女自身も、もう一つの器に口をつけている。
誰かのために料理をするなど、何十年ぶりだろうか。いや、生まれて初めてのことかもしれない。その事実に気づき、彼女の心臓が小さく跳ねた。
アルは、満面の笑みでスープを一口啜った。
途端に、彼の瞳が、これまでで一番大きく輝いた。
「おいしいっ! すごく美味しいよ、リナ!」
それは、心の底からの、一点の曇りもない賞賛だった。
「こんなに美味しいスープ、生まれて初めて飲んだよ! 芋もすごく柔らかいし、このハーブの香りもいい! リナは、料理も上手なんだね!」
やった!とアルは心の中で叫んだ。彼女がすごく喜んでくれている。やっぱり、リナは優しい人なんだ。
立て続けに浴びせられる純粋な賛辞に、リナの体が硬直した。
褒められることなど、なかった。誰かに手料理を振る舞うことも、その感想を聞くことも。彼女の世界には、そんな温かいやり取りは存在しなかった。
じわり、と頬に熱が集まるのがわかった。彼女は慌てて、アルから顔を背ける。
「……当たり前よ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど、小さく震えていた。
「魔導士の知識があれば、これくらい…造作もないことだわ」
その言葉とは裏腹に、彼女の耳は、燃えるように赤く染まっていた。
(別に、あなたのために作ったわけじゃないんだから…)
心の中で、誰に言うでもない言い訳を呟く。
何十年も凍てついていた孤独な世界に、温かいスープの湯気と共に、ほんのわずかな、しかし確かな雪解けの兆しが見えた、そんな昼下がりだった。