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11 騎士の誇りと、勇者の証明

 その、はにかむような微笑みは、彼女の印象をがらりと変えた。いつもは影を帯び、人形のように整っているだけの顔立ちに、温かな血が通い、命が宿ったかのようだ。朝の柔らかな光が、その笑顔を照らし、銀色の髪をきらきらと輝かせる。アルは一瞬、素振りをするのも忘れ、そのあまりの可憐さに、ぽかんと口を開けて見とれてしまった。そして、我に返ると、自分の顔が熱くなるのを感じながら、照れ隠しのように、へらりと笑った。


「えへへ、なんだかセラフィナが笑うと、こっちまで嬉しくなるな!」


「……っ、そ、そんなこと……ありません」


 アルに指摘され、セラフィナは慌てて表情を引き締めたが、一度ほころんだ心は、もう簡単には凍りつかない。彼女は、改めて自分の背丈ほどもある巨大な塔の盾を構え直した。ずしりと腕に伝わる重みが、昨日までとはまるで違う意味を持っている。これはもう、自分を世界から隔絶するための壁ではない。大切な仲間たちを、その背後に守り通すための城壁なのだ。


「よし、じゃあ始めようか!」


 アルはそう言うと、借りてきたばかりの木剣を中段に構えた。昨日、リナに散々からかわれた鉄屑の剣とは違い、ずっしりとした重みと確かな手応えがある。彼は父に教わった唯一の型を思い出しながら、ゆっくりと、しかし力強く素振りを始めた。

 ヒュン、と空気を切り裂く音が、静かな朝の中庭に響く。それはお世辞にも洗練された剣筋とは言えなかったが、一振り一振りに込められた真剣な思いが、見る者に伝わってくるようだった。

 セラフィナもまた、ただひたすらに盾を構え続けた。今はまだ、どうすればこの力を制御できるのか、皆目見当もつかない。けれど、アウレリアは言った。「まずは、己を知ることだ」と。ならば、まずはこの盾と一体になることから始めよう。足の裏で石畳の感触を確かめ、盾の重さを全身で受け止め、呼吸を整える。ただそれだけのことに、彼女は全神経を集中させた。

 朝の柔らかな光が、中庭に差し込み始める。ひたむきに木剣を振るう少年と、微動だにせず盾を構える少女。その初々しくも真摯な姿は、まるで一枚の絵画のようだった。

 その光景を、大使館の二階、回廊の窓から二つの影が見下ろしていた。一人は、白銀騎士団を率いるアウレリア。もう一人は、彼女の副官であり、騎士団の誰よりも厳格な男、ゲオルグだ。


「……ふむ。見込みがある、と仰った意味が、少しだけわかったような気もしますな」


 ゲオルグは、腕を組みながら、意外にも素直な感想を漏らした。彼の視線は、中庭のセラフィナに注がれている。


「あの少女……昨日の今日で、迷いが消えている。ただ怯えていただけの雛鳥ひなどりが、自ら風に向かおうとしている。アウレリア様、貴女は一体、どのような魔法を?」


「魔法など使っていないさ、ゲオルグ。私はただ、彼女が元々持っていたものに、気づかせただけだ。彼女の力は、守るための力だと」


 アウレリアは、どこか満足げに微笑んだ。彼女の蒼い瞳は、セラフィナだけでなく、その隣で汗を流すアルの姿も捉えている。


「では、あの少年は? 勇者を名乗る、あの男はどうです。私には、ただ無邪気に剣を振り回しているだけにしか見えませんが」


 ゲオルグの声には、あからさまな不信の色が滲んでいた。彼にとって、アルの存在は理解しがたい。根拠のない自信、馴れ馴れしい態度、そして何より、戦士としての気迫の欠如。そのすべてが、歴戦の騎士である彼の価値観とは相容れないものだった。


「アルは……そうだな。彼は、まだ原石だ。磨かれ方も知らぬ、ただの石ころかもしれん。だが、その芯には、どんな鋼にも劣らぬ硬度と、決して錆びることのない輝きが秘められている。私はそう信じている」


「……買い被りすぎでは?」


「かもしれんな。だが、将たる者は、時に勘に頼って賭けねばならぬ時がある。私は、彼らに賭ける。この国の未来と、師の命運を……彼らが切り開く可能性に」


 アウレリアの言葉に、ゲオルグはそれ以上何も言わず、沈黙した。主君の決意が固いことを、彼は誰よりも理解していた。しかし、その胸に渦巻く疑念の霧が晴れることはなかった。



 アルとセラフィナが、汗だくになって訓練に打ち込んでいると、背後から凛とした声がかかった。


「その意気やよし。だが、闇雲に体を動かすだけでは、壁にぶつかるのも早いだろう」


 振り返ると、いつの間にか訓練着に着替えたアウレリアが、ゲオルグを伴ってそこに立っていた。彼女の登場に、二人は動きを止め、緊張した面持ちで姿勢を正す。


「アウレリア様……! おはようございます!」


「おはよう、二人とも。朝から精が出るな」


 アウレリアは穏やかに微笑むと、二人の前に歩み寄った。そして、単刀直入に本題を切り出す。


「お前たちに、提案がある。本日より、我が白銀騎士団との合同訓練に参加してもらう。正式な、命令だ」


「ご、合同訓練……ですか?」


 セラフィナが、驚きと戸惑いの声を上げた。アルは、一瞬きょとんとした後、ぱあっと顔を輝かせた。


「本当かい!? 騎士団の人たちと! すごい、ぜひお願いするよ!」


 アルの能天気な快諾とは対照的に、アウレリアの隣に立つゲオルグの表情は、苦虫を噛み潰したように険しい。彼は、ついに抑えきれないといった様子で口を開いた。


「アウレリア様、お待ちください。それはあまりに……時期尚早かと存じます。我々白銀騎士団の訓練は、遊びではありませぬ。基礎もできておらぬ者たちを参加させるなど、全体の士気に関わります」


 ゲオルグの言葉は、騎士団全体の意見を代弁していた。その厳しい視線は、アルとセラフィナを値踏みするように射抜く。その威圧感に、セラフィナは思わずびくりと肩を震わせた。

 しかし、アウレリアの決意は揺るがなかった。彼女は、ゲオルグに静かな、しかし有無を言わせぬ眼差しを向けた。


「ゲオルグ。彼らは、我々の『協力者』だ。ならば、その力を正確に見極め、来るべき戦いにおいて、いかに連携の可能性を探るか。それもまた、騎士団長たる私の務めだ。違うか?」


「……それは、しかし……」


「それに、彼らの力を引き出すことは、我々にとっても利益となる。特に、セラフィナの持つ『守る力』は、正しく運用できれば、戦局を覆すほどの切り札になりうる」


 アウレリアの言葉に、ゲオルグはぐっと言葉に詰まる。正論だった。将として、部隊の戦力向上を考えないわけにはいかない。


「……承知、いたしました。アウレリア様のご命令とあらば」


 ゲオルグは、不承不承といった体で、深く頭を下げた。だが、その声には納得しきれない響きが残っている。アウレリアは、そんな彼の心中を見透かしたように、にやりと口の端を上げた。


「よろしい。では、指導役はお前に任せる、ゲオルグ。特に、セラフィナの指導は、お前が直々に行え。我が騎士団で最も懐疑的なお前が、彼女の力を認めざるを得ないというのなら、他の者たちも納得するだろうからな」


「なっ……! わ、私がですか!?」


 予想外の指名に、ゲオルグが素っ頓狂な声を上げた。それは、彼の厳格な佇まいからは想像もつかない、人間味のある反応だった。アウレリアは、そんな副官の様子を面白そうに一瞥すると、アルに向き直った。


「そしてアル。お前は、若い騎士たちと存分に打ち合ってみるがいい。自分の力が、どこまで通用するのか。その身で知る、またとない好機だ」


 こうして、半ば強引な形で、アルとセラフィナの地獄、もとい、白銀騎士団との合同訓練が幕を開けることになったのだった。



「いいか、小娘。まず、そのだらしない立ち方から叩き直す!」


 ゲオルグの怒声が、中庭に響き渡った。 彼の指導は、まさにスパルタ式だった。アウレリアが他の騎士たちの訓練監督に向かうと、彼はまるでたがが外れたかのように、セラフィナに対して一切の遠慮を捨てた。


「足を開きすぎだ! そんなことでは、衝撃を受け流す前に体勢が崩れる! 腰が高い! もっと重心を落とせ! 大地に根を張るつもりで立たんか!」


 矢継ぎ早に飛んでくる指示に、セラフィナは必死で食らいついていく。しかし、彼女の体は、長年の癖で凝り固まっていた。ただ盾を構えるだけの姿勢一つで、全身から玉のような汗が噴き出してくる。


「中途半端な覚悟なら、今すぐやめてしまえ! お前がここにいるのは、アウレリア様の温情だということを忘れるな!」


 ゲオルグの言葉は、ナイフのように鋭く、セラフィナの心を抉る。しかし、彼女は歯を食いしばって耐えた。もう、昔の自分ではない。アルとリナが、そしてアウレリアが示してくれた道を、今更引き返すわけにはいかなかった。

 数十分にも及ぶ姿勢矯正の後、ゲオルグは「よかろう」と短く告げると、訓練相手として、体格のいい若い騎士を一人呼び寄せた。


「まずは、慣らしだ。ハンス、全力の十分の一の力で、盾を打ち込んでやれ」


「はっ! 承知いたしました!」


 ハンスと呼ばれた騎士は、木製の訓練用メイスを構えると、セラフィナの盾に向かって、ゆっくりと踏み込んできた。

 セラフィナは、ごくりと唾を飲み込む。ゲオルグに教わった通り、膝を曲げ、腰を落とし、盾を構える腕に全身の力を込めた。

(大丈夫。受け止めるだけなら……)

 ドンッ!という鈍い衝撃音。

 次の瞬間、信じられない光景が広がった。


「ぐわぁっ!?」


 騎士ハンスが、まるで巨大な壁にでも衝突したかのように、綺麗に宙を舞い、数メートル先の石畳に叩きつけられたのだ。受け身を取る間もなかったのか、彼は「ぐえっ」とカエルの潰れたような声を上げて、そのまま動かなくなった。


「…………」

「…………」


 中庭が、一瞬、水を打ったように静まり返る。

 セラフィナは、自分の盾と、遠くで伸びているハンスを、呆然と見比べた。

(……え? 今、何が……?)

 彼女は、ただ、盾で攻撃を受けただけだ。それなのに、なぜ相手が吹き飛んでいるのか、全く理解できなかった。


「……馬鹿な……」


 ゲオルグが、信じられないものを見る目で、小さく呟いた。彼は慌てて駆け寄ると、気絶しているハンスの容態を確かめる。


「……おい、ハンス、大丈夫か!」


 幸い、大事には至っていないようだった。ゲオルグは、安堵の息をつくと、今度は燃えるような、しかし困惑に満ちた視線でセラフィナを振り返った。


「……貴様、今のは一体何だ! その細腕のどこに、屈強な騎士を人形のように吹き飛ばす力があるというのだ!?」


「ご、ごめんなさい! 私、本当に、ただ受けただけで……!」


 セラフィナは、半泣きになりながら弁解するが、ゲオルグは混乱していた。

 二人目の騎士が、今度はさらに慎重に、しかし同じように打ち込んできた。結果は、同じだった。騎士は、今度は一回転半の美しい放物線を描いて、地面に激突した。

 三人目、四人目と、犠牲者は増えていく。

 その度に、ゲオルグの怒声はボリュームを増し、セラフィナの心は萎縮していった。

 訓練を遠巻きに見ていた他の騎士たちから、ひそひそとした囁き声が聞こえ始める。


「おい、見たかよ、今の……」


「ああ……。なんだ、あれは……化け物か……」


『化け物』。

 その一言が、セラフィナの耳に突き刺さった瞬間、彼女の世界から、音が消えた。

 血の気が、さあっと引いていく。頭の奥で、忘れたい記憶が、どす黒い靄のように立ち上り始めた。

(……まただ)

(また、私の力は、人を傷つけた)

(やっぱり、この力は呪いなんだ……)

 善意で力を使った結果、大切な人を傷つけ、死なせてしまった過去。そのトラウマが、彼女の心を再び暗い闇へと引きずり込もうとしていた。盾を握る手が、カタカタと震え始める。


「どうした、小娘! 次だ、次!」


 ゲオルグの非情な声が、遠くで聞こえる。

 もう、無理だ。立ち上がれない。

 セラフィナが、その場に崩れ落ちそうになった、その時だった。


「すごいぞ、セラフィナ! やっぱり君は最強だ!」


 場違いなほど明るい声が、中庭に響き渡った。

 声の主は、もちろんアルだった。彼は、若い騎士との模擬戦の合間を縫って、こちらに駆け寄ってきたらしい。その顔は泥だらけだったが、瞳だけはきらきらと輝いていた。


「今の見たかい!? 相手の攻撃を、そのまま跳ね返しちゃうなんて! まるで、鏡の盾みたいだ! 受け止める力が、強すぎるだけなんだよ!」


 アルの言葉は、あまりにも的外れだった。力の暴走を褒められても、何の解決にもならない。

 だが、その曇りのない、絶対的な肯定の言葉は、セラフィナの凍てついた心に、小さな火を灯した。

(……違う)

(この人は、私を『化け物』だなんて思っていない)

(私の力を、信じてくれている……)


「……感心している場合か、この馬鹿者めが!」


 ゲオルグが、アルの能天気さに怒鳴りつける。しかし、その時、もう一つ、冷静な声が割って入った。


「本当に、馬鹿なのはどっちかしらね」


 いつの間にか、リナが中庭の入り口に立っていた。彼女は、腕を組んで壁に寄りかかり、呆れたような、しかし鋭い眼差しで、ゲオルグとセラフィナを見ていた。


「ゲオルグとか言ったかしら。あなた、指導者としては三流以下よ。ただ闇雲にやらせて、結果だけを見て怒鳴り散らすなんて、猿の調教と変わらないわ」


「な、なんだと、小娘!」


 リナの辛辣な言葉に、ゲオルグの顔が怒りで赤く染まる。


「セラフィナ」


 リナは、ゲオルグを無視して、セラフィナに語りかけた。


「いいこと? 少し頭を使いなさい。力のベクトルを考えるのよ」


「……ベクトル?」


「そう。あなたは、ただ衝撃を真正面から受け止めているだけじゃない。無意識に、自分の有り余る力で、全力で押し返しているのよ。だから、相手の力とあなたの力が合わさって、何倍にもなって跳ね返る。騎士たちが人形みたいに吹き飛ぶのは、当然の結果だわ。そうではなくて、受けた衝撃を、盾の表面を滑らせるようにして、真下に……地面に逃がすイメージを持つのよ」


 リナは、自分の足元を指差した。


「あなたの足元にあるのは、ただの石畳じゃない。この星そのものよ。あなたのその馬鹿みたいな力を、大地に受け止めてもらうの。大地に根を張り、大地と一体になる。そうすれば、どんな衝撃も、あなたを揺るがすことはできないはずよ」


 リナの言葉は、まるで魔法の呪文のようだった。

 ベクトル。地面に逃がす。大地と一体になる。

 その一つ一つの言葉が、セラフィナの頭中で、バラバラだったパズルのピースがはまるように、一つの形を結んでいく。

(そうか……。私は、ただ、力と力をぶつけていただけなんだ)

(だから、暴走した。だから、人を傷つけた)

(でも、もし、この力で、攻撃を受け流すことができたら……?)

 目の前が、ぱっと開けるような感覚。

 暗闇の中に、一筋の光が差し込んだようだった。


「……もう一度、お願いします」


 セラフィナは、顔を上げた。その瞳には、もう迷いの色はない。

 彼女の気迫に、ゲオルグは一瞬たじろいだが、すぐに厳しい表情に戻った。


「……ふん。口だけなら何とでも言える。いいだろう、これが最後だ。次も同じ結果なら、お前には才能がないものと見なす」


 ゲオルグは、まだ気絶から回復していない騎士たちの代わりに、自らがメイスを手に取った。


「今度は、私が直々に打ち込む。手加減はせん。死にたくなければ、その小娘の言う通り、受け止めてみせろ!」


 ゲオルグが、地響きを立てて踏み込んでくる。その巨体から放たれる威圧感は、先ほどの騎士たちとは比べ物にならない。

 しかし、セラフィナはもう怯えなかった。

 彼女は、リナの言葉を思い出す。

(足の裏で、大地を感じる)

(盾は、私の一部。そして、私もまた、大地の一部)

(衝撃は、正面から受けない。滑らせて、下に、下に……!)

 ゴォッ!という風切り音と共に、ゲオルグの全力の一撃が、盾に叩きつけられた。

 凄まじい衝撃。これまでとは比較にならない、圧倒的な質量と速度。

 しかし。

 セラフィナは、その場から一歩も、動かなかった。

 ズシン、と足元の石畳が、わずかに軋むような音がした。

 ゲオルグの渾身の一撃は、セラフィナの構える盾の表面を滑り、まるで水が地面に吸い込まれるかのように、完全に無力化されていた。

 大地に、深く、太い根を張った古木のように。

 どんな嵐にも揺るがない、絶対的な安定感。

 彼女は、ただそこに、立っていた。


「…………な……」


 ゲオルグが、信じられないものを見る目で、目を見開いたまま硬直する。

 彼の腕は、全力で振り抜いた衝撃で、びりびりと痺れていた。しかし、目の前の少女は、涼しい顔で、そのすべてを受け止めていた。

 中庭にいた、すべての騎士たちが、息を呑んだ。

 嘲笑も、侮蔑も、そこにはない。

 ただ、畏怖と、驚嘆だけがあった。


「……どう、かしら? これでも、まだ才能がないと、おっしゃる?」


 リナが、満足げに口の端を吊り上げた。

 ゲオルグは、何も答えられなかった。彼はただ、目の前で静かに佇む、銀髪の少女の姿を、呆然と見つめることしかできなかった。



 一方、その頃。

 アルの挑戦は、壮絶な(一方的な)ものとなっていた。


「うわっ!」

「そこだ!」

「甘い!」


 若い騎士たちとの模擬戦に臨んだアルだったが、結果は惨憺さんたんたるものだった。 彼が知っているのは、父に教わった、大振りで隙だらけの一つの「型」だけ。実戦経験豊富な騎士たちにとって、彼の動きはあまりにも単調で、予測しやすかった。

 開始数秒で木剣を弾き飛ばされ、足払いをかけられて転倒。あっという間に泥だらけにされてしまう。


「ははは! なんだ、口だけの勇者様だったな!」


「本当に、あの霧の魔獣と戦ったのか? 運が良かっただけなんじゃないのか?」


 騎士たちは、容赦ない嘲笑をアルに浴びせた。彼らにとって、この模擬戦は、日頃の鬱憤を晴らす格好の憂さ晴らしとなっていた。

 しかし、アルは、まったくへこたれなかった。


「うーん、すごいな! 今のどうやったんだい!? 全然見えなかったよ! もう一回、お願いするよ!」


 彼は、泥だらけの顔で、にぱっと笑うと、すぐに立ち上がって木剣を拾い、再び構えた。その瞳には、悔しさや怒りではなく、純粋な好奇心と、探究心だけが輝いていた。

 何度打ちのめされても、何度泥にまみれても、彼の心は少しも折れなかった。

 それどころか、負けるたびに、相手の技術を素直に称賛し、「今の技を教えてくれ」と頼み込む始末。

 最初は、アルを馬鹿にして面白がっていた若い騎士たちも、次第にその異常なまでの打たれ強さと、決して折れない心に、戸惑いを覚え始めた。


「……なんなんだ、こいつ……」


「普通、ここまでやられたら、泣き出すか、逆ギレするだろ……」


「というか、あいつ、俺たちの動きを真似しようとしてないか……?」


 そう、アルはただやられているだけではなかった。彼は、その驚異的な集中力で、相手の動き、足さばき、剣の角度、そのすべてを目に焼き付け、必死に自分のものにしようとしていたのだ。

 もちろん、付け焼き刃の技術がすぐに通用するほど、騎士団の訓練は甘くない。

 しかし、十回、二十回と打ち合ううちに、彼の動きは、明らかに最初とは変わってきていた。無駄な動きが少しずつ減り、相手の攻撃に、かろうじて反応できるようになってきたのだ。

 そして、三十回目ほどの打ち合いになった時だった。

 相手の騎士が、必殺の突きを繰り出す。これまでなら、なすすべもなく食らっていたはずの一撃。

 しかし、その瞬間、アルは、セラフィナがゲオルグの攻撃を受け流した光景を、思い出していた。

(そうだ、真正面からじゃなく、受け流す……!)

 彼は、とっさに木剣の角度を変え、相手の剣を、側面で受けた。

 キィン!という甲高い音。

 相手の突きは、わずかに軌道を逸れ、アルの肩を掠めて空を切った。

 もちろん、体勢を崩したアルは、すぐに反撃を受けて、またしても派手に転がされることになるのだが。


「……今のは……」


 突きを放った騎士が、驚きの声を上げた。

 偶然ではない。彼は確かに、自分の全力の突きを、意図的に受け流した。

 その場にいた、誰もが気づき始めていた。

 この少年は、ただの馬鹿ではない。彼は、スポンジが水を吸うように、あらゆる技術を、凄まじい速度で吸収している。

 そして何より、彼のそのひたむきな姿、何度負けても相手を称える素直な姿勢は、彼らを嘲笑していた騎士たちの心に、奇妙な感情を芽生えさせていた。

 それは、呆れであり、困惑であり、そして、ほんの少しの……敬意だった。



 夕暮れの鐘が、ヴァイスブルクの街に鳴り響く頃、ようやく長い合同訓練は終わりを告げた。

 中庭には、アルとセラフィナが、二人並んで大の字に倒れていた。

 アルは頭のてっぺんからつま先まで泥と汗で汚れきり、セラフィナもまた、流れる汗で訓練着をぐっしょりと濡らしていたが、その表情は、疲労の中にも、確かな充実感で輝いていた。


「……はは……。なんだか、体中が、自分のじゃないみたいだ……」


「……私も、です。でも……少しだけ、わかった気がします。自分の、力の使い方が……」


 セラフィナは、空を見上げながら、ぽつりと呟いた。その声には、確かな手応えが感じられた。

 そんな二人の元に、アウレリアが静かに歩み寄ってきた。彼女は、満足げに頷くと、倒れている二人を見下ろして、こう告げた。


「よくやった、二人とも。今日の訓練で、それぞれの課題と、そして、これから必要なものが見えたはずだ」


 アウレリアは、そこで一度言葉を切ると、悪戯っぽく微笑んだ。


「――明日は街へ出て、君たちの装備を整えよう。これも、任務を遂行するための、重要な準備だからな」


 その言葉に、アルとセラフィナの顔が、ぱっと明るくなった。

 アルは、がばりと起き上がると、目を輝かせて叫んだ。


「本当かい!? やったー! 新しい勇者の剣が手に入るんだな!」


「……私にも、何か、装備が……?」


 セラフィナも、おずおずと、しかし期待に満ちた表情でアウレリアを見上げる。

 地獄のような一日だったが、その終わりには、確かな成長と、明日への希望が待っていた。


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