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10 居場所

 吟遊詩人が歌う英雄譚ならば、ここから希望に満ちた新たな物語が始まるのだろう。絶体絶命の窮地を乗り越え、強力な味方を得て、悪を討つ。アルが聞けば、目を輝かせて「そうこなくっちゃ!」と胸を張りそうだ。

 しかし、現実は物語のように甘くはない。


 アストリア王国大使館での生活が始まって三日が経った。最初の日は、ひたすら休息と回復に充てられた。追われる身となってから初めての温かい湯浴みで汚れを落とし、清潔な衣服を与えられ、騎士団専属の治癒師によって三人の傷は丁寧に手当てされた。何より、柔らかい寝台で追手の心配をせずに眠れる夜は、彼らにとって何物にも代えがたい安らぎだった。


 しかし、その安堵感も二日目には薄れ始め、それぞれの立場の違いが浮き彫りになってくる。アルは有り余る元気を大使館の探検に費やし、騎士たちに屈託なく話しかけては冷たくあしらわれた。リナは自室に籠もり、提供された書物で事件の背景を調べながら、決して騎士団への警戒を解こうとはしなかった。そしてセラフィナは、豪華だが息の詰まるような環境に馴染めず、ほとんどの時間を部屋の隅で膝を抱えて過ごしていた。


 そうして迎えた三日目の朝、彼らは救われたという事実よりも、自分たちがこの場所でいかに浮いた存在であるかを、ひしひしと実感することになる。彼らは確かに「保護」され、「協力者」という立場を与えられた。だが、それは決して「歓迎」されているという意味ではなかったのだ。


 その冷ややかな空気の中心にいるのは、アウレリアの副官であり、騎士団長代行を務める壮年の騎士、ゲオルグだった。歴戦の傷跡が刻まれた厳つい顔、分厚い胸板、そして何よりも、すべてを見透かすような鋭い眼光。彼をはじめとする古参の騎士たちは、アルたち三人を見る目に、あからさまな不信と侮蔑の色を浮かべていた。

 彼らにとって、アルたちは得体の知れない流れ者であり、アウレリアが気まぐれで拾ってきた厄介者でしかなかった。

 およそ戦士には見えないにもかかわらず「勇者」を名乗る、能天気で胡散臭い少年、アル。

 出自も目的も不明で、ただ者ではない雰囲気を漂わせる、小生意気な魔導士の少女、リナ。

 そして、巨大な盾に隠れるようにして常に怯え、おどおどしているばかりの、か弱そうな少女、セラフィナ。

 そんな三人が、なぜアウレリア様の傍に? なぜ我々と対等な「協力者」として扱われるのか?

 騎士たちの誰もが、そう思っていた。彼らの忠誠心は、すべて主君であるアウレリアに向けられている。だからこそ、その主君に取り入ったように見える正体不明の者たちへの警戒心は、より一層強いものとなっていた。


「アウレリア様の御判断に異を唱えるつもりはない。だが、あの者たちを信用するには、時期尚早ではないか」


 ゲオルグは、アウレリアとの私室での会話で、そう直言した。彼の言葉は、騎士団全体の総意でもあった。


「彼らの持つ情報が重要であることは認めます。しかし、それとこれとは話が別。特にあの『勇者』を名乗る男……言動のすべてが軽薄で、思慮の欠片も感じられん。あのような男に、我々の背中を任せることなど、到底できませぬ」


「ゲオルグ。お前の懸念はわかる」


 アウреリアは、窓の外に広がるヴァイスブルクの街並みを見つめながら、静かに答えた。


「だが、私は彼らに賭けてみたいのだ。あの魔導士リナの知識と洞察力は本物だ。そして……あの少年アルには、不思議と人を惹きつけ、場の空気を変える何かがある」


「それは……個人の『勘』、ということですかな?」


 ゲオルグの問いに、アウレリアは小さく微笑んだ。


「ああ。騎士団長としてではなく、一人のアウレリアとしての、な」


 その会話を知る由もないアルたちは、大使館の食堂で、朝食の席についていた。

 だだっ広い食堂には、他にも非番の騎士たちが何人もいたが、彼らは意図的にアルたちから距離を取り、ひそひそと何かを囁き合っている。突き刺さるような視線が、痛いほどだった。


「……」


 セラフィナは、その空気に完全に萎縮していた。差し出された食事も喉を通らず、ただ俯いて、膝の上の拳を固く握りしめている。自分のせいで、またこの人たちに迷惑をかけている。自分は、ここにいてはいけない存在なのではないか。その思いが、鉛のように心を重くする。


「ふん。随分と居心地の悪いところじゃないの。もっとも、そこらの安宿よりは寝床も食事も上等だから、文句は言えないけれど」


 リナは、そんな視線を柳に風と受け流し、優雅な仕草でスープを口に運んでいた。彼女の態度は、一見すると平然としているが、その淡い紫色の瞳の奥には、冷たい警戒の光が宿っている。長年生きてきた彼女にとって、悪意や敵意など、とうに慣れっこだった。

 そして、この状況で唯一、まったく空気を読んでいない男がいた。


「おかわり! そこのパンと、あとスープも大盛りでお願いできるかい!」


 アルである。

 彼は、周囲の冷ややかな視線などまるで意に介さず、空になった皿を掲げて、元気よく厨房の係に声をかけた。その能天気で、物怖じしない態度は、騎士たちの眉をさらにひそめさせる。


「アル……。あなた、少しは周りのことを考えたらどうなの」


 リナが、呆れたようにため息をついた。


「ん? だって、お腹が空いてちゃ戦はできないって言うだろ? それに、ここのご飯はすごく美味しいし! 遠慮することないじゃないか」


「そういう問題じゃないのよ……」


「セラフィナも、もっと食べないとだめだぞ! ほら、このお肉、すごく柔らかいぞ!」


 アルは、自分の皿から大きな肉を取り分けると、セラフィナの皿に無造作に乗せた。


「あ……、いえ、私は、そんな……」


 セラフィナが慌てて断ろうとするが、アルは「遠慮しなくていいんだぞ!」と、にこやかに笑うだけだ。

 そのやり取りを見ていた騎士の一人が、わざと聞こえるような声で呟いた。


「……呑気なものだな。自分たちがどういう立場か、まるでわかっていないらしい」


「ああ。アウレリア様も、なぜあのような者たちを……」


 その言葉に、セラフィナの肩がびくりと震えた。俯いた顔が、さらに深く沈んでいく。

 その小さな反応を、リナは見逃さなかった。彼女は、スープ皿を静かに置くと、声のした方へ、冷たい視線を向けた。


「あら、何か言ったかしら? もし私たちに何か文句がおありなら、陰でこそこそ言わずに、直接おっしゃっていただける? もっとも、あなたたちのような『正規の騎士様』が、私たちのような『流れ者』に、まともな口の利き方もできないというのなら、話は別だけれど」


 リナの言葉は、静かだが鋭い棘を持っていた。その場にいた騎士たちの顔色が変わる。侮辱されたと感じたのだろう、何人かが腰の剣に手をかけ、険しい表情で立ち上がろうとした。

 一触即発の空気が、食堂に張り詰める。


「まあまあ、リナも落ち着いて。みんな、悪気があって言ってるわけじゃないと思うんだ」


 アルが、またしても間の抜けた声で仲裁に入る。彼は、騎士たちに向かって、あっけらかんと笑いかけた。


「僕たち、ちょっと前まで追われる身で、ボロボロだったからね。みすぼらしく見えるのも仕方ないと思うんだ。でも、これからは騎士団の皆さんと一緒に戦う仲間だから! よろしくね!」


 そう言って、アルは片手をひらひらと振った。

 そのあまりの屈託のなさに、騎士たちは毒気を抜かれたように、立ち上がりかけた腰を下ろす。相手にするのも馬鹿らしい、とでも言いたげな顔で、そっぽを向いてしまった。


「……アル。あなた、本当に馬鹿なの?」


 リナが、こめかみを押さえる。


「え? だって、喧嘩はよくないだろ? 仲間同士なんだからさ」


「あのねぇ……」


 リナは、それ以上言うのをやめて、深いため息をついた。

 この男の純粋さは、時に最強の武器になるが、同時に最大の弱点にもなりうる。だが、今はそのおかげで、無用な衝突を避けられたのも事実だった。

 結局、朝食は気まずい雰囲気のまま終わった。

 三人は、それぞれの部屋に戻ったが、セラフィナの心は晴れないままだった。

(私のせいだ……。私がいるから、アルさんやリナさんまで、あんな風に言われるんだ……)

 部屋のベッドに腰掛け、セラフィナは膝を抱えた。

 あの食堂での出来事が、頭から離れない。騎士たちの冷たい視線、侮蔑の言葉。そのすべてが、自分に向けられているように感じられた。

 そもそも、アルとリナがヴァイスブルク中で追われる身になったのは、自分を助け出したことが原因だ。自分がここにいなければ、二人はこんな居心地の悪い思いをすることもなかったはず。

(また、同じ……。私のせいで、周りの人が……)

 善意で力を使うたびに、誰かを傷つけ、大切なものを失ってきた。あの日の光景が、脳裏に焼き付いて離れない。この力は、祝福などではない。人を傷つけ、不幸にするだけの、呪いだ。

 だから、心を殺して『鉄壁のセラ』になった。感情を捨て、ただ命令されるままに盾を構えれば、誰も傷つけずに済むと思ったから。

 それなのに、アルとリナは、そんな自分の心をこじ開けた。

 温かい言葉をかけ、手を差し伸べ、仲間だと言ってくれた。

 それが、どれほど嬉しかったか。どれほど救われたか。

 でも、今の自分は、どうだ?

 ただ二人に守られているだけ。食事を与えられ、安全な寝床を提供され、何もせずに過ごしているだけ。

 騎士団の人たちが直接そう言ったわけではない。だが、彼らの侮辱に満ちた囁きは、セラフィナの中で「足手まとい」という一つの言葉になって響いていた。そうだ、自分はただの足手まといなのだ。アルとリナの優しさに甘えているだけの、厄介者だ。

(このままじゃ、だめだ……)

 何か、自分にできることはないのだろうか。

 少しでも、二人の役に立てることはないのだろうか。

 いてもたってもいられなくなり、セラフィナは静かに部屋の扉を開けた。目的もなく、ただ、じっとしているのが苦しくて、大使館の中を歩き始めた。

 堅牢な石造りの廊下は、静まり返っている。時折、公務に忙しい文官や騎士とすれ違うが、彼らはセラフィナに一瞥をくれるだけで、すぐに足早に去っていく。誰も、彼女に興味を示さない。

 自分が、この場所で完全に浮いた存在であることを、改めて思い知らされる。

 ふと、開け放たれた窓から、乾いた風と共に、金属のぶつかり合う音と、鋭い気合の声が聞こえてきた。

 何かに引かれるように、セラフィナは音のする方へと歩を進める。

 廊下の突き当りにある扉を開けると、そこは陽光が降り注ぐ、石畳の中庭へと続いていた。

 中庭は、大使館の建物に囲まれた、さほど広くはない空間だった。しかし、そこでは数人の騎士たちが、上半身裸で汗を流しながら、激しい訓練に打ち込んでいた。

 木製の訓練用の剣を打ち合わせ、体術の稽古に励み、重そうな石を持ち上げて体力を錬成している。

 その熱気と気迫に、セラフィナは思わず息を呑んだ。

 そして、その中心に、彼女はいた。


「そこだ!」


 凛とした声と共に、白銀の閃光が走る。

 アウレリアだった。彼女は、騎士団の制服ではなく、動きやすい軽装の訓練着を身につけ、一人の騎士として、ゲオルグと剣を打ち合わせていた。

 その剣筋は、しなやかで、無駄がなく、それでいて驚くほどに鋭い。まるで、流れる水のように相手の攻撃を受け流し、一瞬の隙を突いて、雷光のような一撃を繰り出す。

 キィン!と甲高い金属音が響き、ゲオルグが構えていた剣が、弾き飛ばされた。

 勝負は、一瞬で決した。


「……参りました、アウレリア様」


 ゲオルグが、悔しそうに、しかしどこか誇らしげに息をつき、頭を下げる。


「まだだ、ゲオルグ。お前の太刀筋は、以前よりも重く、鋭くなっている。だが、力に頼りすぎている分、動きに僅かな硬さが見える。その一瞬の硬直が、命取りになる」


 アウレリアは、静かに告げた。その表情は、気品ある普段の佇まいとは違う、幾多の戦場を潜り抜けてきた、一人の優れた戦士の顔だった。

 セラフィナは、物陰からその光景を、ただ呆然と見つめていた。

 美しい、と思った。

 力強い、と思った。

 そして、自分とはあまりにも違う、と思った。

 アウレリアの強さは、ただの腕力ではない。鍛え上げられた技術、冷静な判断力、そして何よりも、自らの力を完全に制御し、守るべきもののために振るうという、確固たる意志。

 それに比べて、自分はどうだ。

 ただ暴走させることしかできない、呪われた怪力。誰かを守るどころか、傷つけることしかできない、忌わしい力。

 その圧倒的な差に、セラフィナはめまいさえ覚えた。

 ここにいてはいけない。自分のような者が、見てはいけないものだ。

 踵を返し、その場を去ろうとした、その時だった。


「そこにいるのは、セラフィナか」


 アウレリアの、静かで、しかしよく通る声が、セラフィナの背中に突き刺さった。

 びくりと肩を震わせ、セラフィナは凍りついたように動きを止める。見つかってしまった。


「……っ、ぁ……」


 何か言わなければ。訓練の邪魔をして申し訳ありません、と。

 しかし、喉が張り付いたように、声が出ない。

 アウレリアは、タオルで汗を拭いながら、ゆっくりとセラフィナの方へ歩いてきた。他の騎士たちは、ゲオルグの指示で、訓練を再開している。


「何か用か? それとも、我々の訓練に興味でも?」


 アウレリアの問いは、穏やかだった。しかし、その蒼い瞳は、セラフィナの心の奥まで見透かしているかのようだ。


「い、いえ……! その、ご、ごめんなさい! お邪魔を、するつもりは……」


 セラフィナは、しどろもどろになりながら、かろうじて言葉を絞り出した。相手の目を見ることができず、視線は足元を彷徨っている。


「邪魔だなどとは思っていない。ここは、誰でも自由に出入りできる場所だ。……怖がる必要はない。私は、お前を食って取ろうというわけではないぞ」


 アウレリアは、セラフィナの怯えように、少し困ったように眉を寄せた。

 その言葉に、セラフィナは、はっと顔を上げた。

 怖がっている、と思われている。

 違うのだ。怖いのではない。ただ、あまりにも眩しくて、自分が恥ずかしくて、どうしようもない劣等感に苛まれているだけなのだ。

(伝えなければ)

 このままでは、また誤解されたまま終わってしまう。

 自分は、ただ怯えているだけの、弱い少女だと思われたままになってしまう。

 それは、嫌だ。


「……あのっ!」


 セラフィナは、震える声で、しかしはっきりと、アウレリアを呼び止めた。


「……どうすれば、アウレリア様のように、強くなれますか……?」


 それは、自分でも驚くほど、唐突な質問だった。

 アウレリアは、一瞬、虚を突かれたように目を見開いたが、すぐに真剣な表情に戻った。


「……強さ、か。難しい問いだな」


 彼女は、少し考えるように視線を宙に彷徨わせた後、再びセラフィナに向き直った。


「お前が言う『強さ』とは、なんだ? 私のように、剣で敵を打ち倒す力のことか?」


「……はい。私には、そんな力は、ありませんから……。私の力は、ただ、人を傷つけるだけで……」


 セラフィナの声が、語尾にいくにつれて小さくなる。

 その言葉を聞いて、アウレリアは、セラフィナの抱える苦悩の核心に触れた気がした。

 彼女は、同じ「力」を持つ一人の人間として、言葉を選んだ。


「セラフィナ。力そのものに、善悪はない。火が、暖を取ることもできれば、すべてを焼き尽くすこともできるように。重要なのは、その力をどう使うか、どう制御するかだ」


「制御……」


「そうだ。私とて、最初から剣を自在に扱えたわけではない。来る日も来る日も、血の滲むような鍛錬を重ね、師の教えを受け、ようやくこの身に馴染ませてきた。力とは、そういうものだ。生まれ持った才能だけでは、決して真の強さには届かない」


 アウレリアは、自分の手のひらを見つめた。そこには、剣を握り続けたことでできた、硬いタコがあった。その気品ある美しい手には、およそ似つかわしくないものだった。


「お前は、自分の力を呪っているのかもしれないな。だが、その力は、本当に呪いか? 私は、そうは思わない」


 アウレリアの視線が、セラフィナの背後にある巨大な盾に向けられる。


「あの夜明け、私たちが通りでお前たちと出会った時のことを覚えているか?」


「……はい」


「お前は、あの巨大な盾を、その細腕一本で支えていた。追われ、疲れ果てているはずなのに、その瞳には仲間を守ろうとする強い意志が宿っていた。その姿は、およそ『か弱い少女』には見えなかった。むしろ、仲間を守るための、鉄壁の要塞のように見えた」


 アウレリアの言葉に、セラフィナは息を呑んだ。

 そんな風に、見られていたなんて。


「もし、あの時、お前のその異様な姿がなければ、私たちは、騒ぎに気づいても、ただのチンピラの喧嘩だと見過ごしていたかもしれない。あの巨大な盾と、お前の守ろうとする意志が、私たちの足を止めさせた。結果的に、お前たち自身を救ったのだ」


「……!」


「お前が持つ力は、誰かを傷つけるためだけの力ではない。誰かを『守る』ための力だ。お前は、その使い方を、まだ知らないだけだ。あるいは、知ろうとすることを、恐れているだけなのではないか?」


 アウレリアの言葉は、一つ一つが、セラフィナの心の奥深くに、静かに、しかし確実に突き刺さっていく。

 呪いだと思っていた力。忌み嫌っていた力。

 それが、誰かを守るための力だと、初めて言われた。その言葉は、セラフィナに、これまで考えもしなかった視点をもたらした。この忌まわしい力があったからこそ、アルさんたちと、この人たちに出会えたのではないか、と。


「……私は……」


 セラフィナの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、悲しみの涙ではなかった。

 固く凍りついていた心の氷が、ほんの少しだけ、溶け出したような、温かい涙だった。


「……どうすれば、使い方を、知ることができますか……?」


「まずは、己を知ることだ」


 アウレリアは、きっぱりと言った。


「自分の力が、どれほどのものなのか。何をすれば、どうなるのか。それを、お前自身の体で、確かめるんだ。恐れずに、向き合うんだ」


 アウレリアは、中庭の隅に立てかけてあった、もう一つの訓練用の盾を指差した。


「あの盾を持ってみろ。そして、構えてみろ。まずは、そこからだ」


 それは、命令だった。しかし、セラフィナを突き放すような冷たいものではない。彼女の背中を、力強く押してくれるような、温かい響きを持っていた。

 セラフィナは、こぼれる涙を手の甲で拭うと、アウレリアに向かって、深く、深く頭を下げた。


「……ありがとう、ございます」


 そして、彼女は、震える足で、しかし確かな一歩を踏み出した。

 自分の力と向き合うための、最初の一歩を。



 セラフィナが自室に戻ると、アルとリナが部屋の床に座り込んで、何やらカードを広げていた。


「またなの!? どうしてあなたの手にはいつも都合よくそのカードが来るのよ!確率的にありえないわ!」


 リナが、本気で悔しそうにアルを問い詰めている。


「えへへ、だから得意だって言ったじゃないか!」


 アルは悪びれもせず笑っている。


「あ、セラフィナ! ちょうどよかった。リナがまた本気になってるんだ」


 アルが、セラフィナに気づいてにぱっと笑い、手招きする。

 どうやら、アルの荷物に入っていた『四大精霊のカード合わせ』で遊んでいたらしい。旅の途中で初めてこのゲームをした時、リナは「非論理的な時間の浪費」と一蹴していたが、一度負けたのがよほど悔しかったのか、今ではすっかりリベンジに燃えているようだ。

 アルの屈託のない笑い声と、本気で悔しがるリナの姿。その、いつもと変わらない、ちぐはぐで、でもどこか微笑ましいやり取りを見ていると、セラフィナの心に、じんわりと温かいものが広がっていく。

(この人たち……)

 自分の居場所は、ここなのだ。

 そう、強く思った。

 リナは、一つ大きなため息をつくと、カードから顔を上げ、ふとセラフィナの顔を見て、わずかに眉をひそめた。


「……セラフィナ。あなた、少し顔色が違うわね。何かあったの?」


 リナの鋭い指摘に、セラフィナはどきりとした。

 アルも、不思議そうにセラフィナの顔を覗き込む。


「本当だ。なんだか、すっきりしたような顔をしてるな。何かいいことでもあったのかい?」


 二人の真っ直ぐな視線に、セラフィナは少し照れながらも、先ほどの中庭での出来事を、ぽつりぽつりと話し始めた。

 アウレリアとの会話、そして、自分の力が、誰かを守るための力だと言われたこと。

 話を聞き終えると、アルは、まるで自分のことのように、満面の笑みを浮かべた。


「そうか、そうか! アウレリアさんも、わかってるじゃないか! 僕も、最初からそう思ってたぞ!」


「……え?」


「だって、セラフィナは、僕たちを守ってくれたじゃないか! あの商人の屋敷でも、広場でも! その盾は、どんな攻撃も跳ね返す、最強の盾だ! 僕が保証する!」


 アルは、何のてらいもなく、胸を張って言い切った。そのヘーゼル色の瞳は、絶対的な信頼の色に輝いている。

 その言葉は、アウレリアの言葉とはまた違う形で、セラフィナの心に深く染み渡った。

 論理や理屈ではない。ただ、真っ直ぐに信じてくれる。その事実が、何よりも嬉しかった。


「……アルの言う通りよ」


 リナが、静かに口を開いた。彼女は、アルのように手放しで褒めることはしない。だが、その言葉には、アル以上の重みと、説得力があった。


「セラフィナ。あなたのその力は、確かに強大で、扱いが難しいものなのでしょう。下手をすれば、あなたが恐れるように、誰かを傷つけるかもしれない。でもね」


 リナは、そこで一度言葉を切り、セラフィナの瞳をまっすぐに見つめた。


「それは、決して呪いなんかじゃないわ。使い方を知らなかっただけ。そして、その使い方を、一人で見つけようとして、苦しんでいた。……それだけのことよ」


 リナの言葉には、深い共感がこもっていた。

 彼女もまた、かつて強大すぎる力を持て余し、故郷を焼き尽くすという、取り返しのつかない過ちを犯した。その罪悪感から、何十年も孤独に生きてきた。

 だから、セラフィナの苦しみが、痛いほどわかるのだ。


「私たちは、その使い方を、一緒に見つけるためにいるのよ。あなたは、もう一人じゃないんだから」


 その言葉は、セラフィナにとって、何よりの救いだった。

 一人じゃない。

 その一言が、これまでの孤独な人生で、ずっと求めてやまなかった言葉だった。


「……はいっ……!」


 セラフィナは、これまで見せたことのないような、晴れやかな笑顔を浮かべた。心の底から湧き上がる温かい感情に、声が震える。


「よし! じゃあ、僕も負けてられないな!」


 アルが、突然、床から立ち上がると、部屋の隅に置いてあった自分のリュックサックから、何かを取り出した。

 それは、黒竜との戦いで無残に折れてしまった、錆びた剣の残骸だった。


「僕も、今日から特訓だ! この『勇者の剣』で、新しい必殺技を編み出してみせる!」


 アルは、剣の柄だけのそれを、ぶんぶんと振り回し始めた。


「……アル。それは、ただの鉄屑よ。それに、部屋の中で振り回すのはやめなさい。危ないでしょう」


 リナが、冷たく言い放つ。


「何を言うか! これは、僕の魂の剣なんだ! 見てろよ、必殺! 勇者スラッシュ・改!」


 アルが、意味不明な技の名前を叫びながら、渾身の力を込めて剣の柄を振り抜いた、その時。

 ぽとり。

 彼の気合とは裏腹に、錆びついていた柄頭が、ただ静かに、重力に従って抜け落ちた。

 ころん、と乾いた音を立てて、アルの足元に転がる。


「…………」

「…………」

「…………」


 アルとセラフィナが、凍りつく。

 アルは、柄頭のなくなった、間抜けな鉄の棒と化した剣の柄と、床に転がった小さな鉄塊を、交互に見つめた。

 しん、と静まり返った部屋に、リナの冷ややかな声が響いた。


「……すごいじゃないの、アル。その剣、自壊するのね。敵を倒す前に、自ら滅びるなんて、なんて奥ゆかしいのかしら」


「ち、違う! これは、その……勇者の力に剣が耐えきれなかったんだ!」


 アルが、慌てて取り繕う。


「そう。きっとそうね」


 リナは、心底どうでもよさそうに相槌を打つと、再びカードゲームに視線を落とした。その呆れを通り越して無関心な態度が、アルにとっては一番こたえるのだった。


「うう……見てろよ、いつか本当にすごいところを見せてやるんだからな……!」


 アルは、誰に言うでもなくそう呟くと、しょんぼりと柄頭を拾い上げたのだった。



 翌朝。

 セラフィナは、誰よりも早く目を覚ました。

 彼女は、新しい一日に相応しい、清潔な訓練着に着替えると、静かに部屋を抜け出した。

 向かう先は、昨日、アウレリアが訓練をしていた、あの中庭だ。

 朝の光が差し込み始めた中庭は、まだ誰もおらず、静まり返っていた。

 セラフィナは、中庭の隅に置かれた、自分の背丈ほどもある巨大な塔の盾を、ゆっくりと持ち上げる。ずしりとした重みが、腕に伝わる。

 それは、昨日まで感じていた、自分を閉じ込める檻の重さではなかった。

 誰かを守るための、頼もしい重さだった。

 彼女は、中庭の中央に進み出ると、盾を地面に突き立て、しっかりと構えた。

 アウレリアに言われた言葉、アルとリナにかけられた言葉を、胸の中で反芻する。

(私は、もう一人じゃない)

(この力で、あの人たちを、守れるようになりたい)

 その時、背後から、明るい声がした。


「お、セラフィナ! 早いじゃないか! 奇遇だな、僕も今から朝練をしようと思ってたんだ!」


 振り返ると、そこには、少しだけ寝癖のついたアルが立っていた。その手には、騎士たちが使うものと同じ、訓練用の木剣が握られている。昨日の出来事が少しだけ気まずいのか、彼は照れくさそうに笑った。


「勇者の剣は、ちょっと調整が必要みたいでさ……。騎士の人に頼んで、これを一本借りてきたんだ。どんなものでも稽古はできるからね!」


 そう言って、アルはへらへらと笑った。

 そのあっけらかんとした笑顔に、セラフィナもつられて、思わずふふっと笑みをこぼした。それは、彼女がこの大使館に来てから、もしかしたらここ数年で初めて見せた、心の底からの微笑みだったかもしれない。


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