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9 夜明けの衝突

 「さあ、行こう!」


 アルの力強い声に、セラフィナはただ呆然と見つめ返すことしかできなかった。自分のせいで、この人たちを絶望的な状況に追い込んでしまった。その事実は変わらない。それなのに、なぜ、この人はこんなにも真っ直ぐな瞳で笑えるのだろう。なぜ、こんなにも温かいのだろう。


 『君が謝ることじゃない』


 先ほどのアルの言葉が、心の奥でこだまする。罪悪感は消えない。けれど、今はただ、この温かい手を信じて、前へ進むしかない。


 「……はい!」


 思考が追いつく前に、セラフィナの体はアルに引かれるまま、夜明けの街へと駆け出していた。


 その直後、背後の屋敷から悪徳商人ボルヘスの怒号が響き渡り、それに呼応するように、屋敷に詰めていた用心棒たちが街の闇へと散っていく。


 「使いの者を走らせろ!ギルドだけでなく、裏通りの酒場、賭場、ありとあらゆるごろつき共に伝えろ!あの三人を生け捕りにした者には、金貨五十枚をくれてやる、と!」


 その指令は、まるで伝染病のように、夜明け前の薄暗い街を駆け巡った。酒に酔いつぶれていた男たちが飛び起き、賭博で有り金を失った者たちが目を血走らせる。金貨五十枚。それは、裏社会の人間にとって、人生を変えうるほどの破格の報酬。眠っていた街の貪欲さが、一斉に牙を剥き、三人に襲いかかろうとしていた。


 ヴァイスブルクの裏通りに、悪意に満ちた声が木霊する。獲物を見つけたハイエナのように、ごろつきや賞金稼ぎたちが、予測不能な場所から次々と姿を現した。もはや、この商業都市そのものが、三人を捕らえるための巨大な罠と化したのだ。


 「アル、こっちよ!」


 リナが先導し、入り組んだ路地を縫うように走る。彼女の頭の中では、この街の地図が正確に展開されていた。しかし、状況はあまりにも悪い。黒竜戦、霧の谷での大規模な魔法行使、そして先ほどの屋敷での戦闘。度重なる魔力の消耗は、旅の疲れと相まって、天才魔導士である彼女の精神と肉体を確実に蝕んでいた。


 「キリがないな……!」


 アルが歯噛みする。一つの角を曲がるたびに、新たな追手が待ち構えているかのようだ。市場の荷車の下、建物の屋根の上、ゴミが山と積まれた袋小路の奥。金貨五十枚という言葉が、彼らの耳にも嫌というほど届いていた。


 三人は、すでに心身ともに限界だった。セラフィナは、その巨大な盾を背負ったまま、必死に二人の後を追う。長期間にわたる劣悪な環境での生活で蓄積した疲労は、見た目以上に彼女の体力を奪っていた。アルとリナも、ヴァイスブルクにたどり着くまでの旅で、心休まる時間などほとんどなかったのだ。


 「はぁ……っ、はぁ……!」


 息も絶え絶えなセラフィナに、前を走るアルが振り返って活を入れる。


 「もう少しの辛抱だ、頑張れ!大丈夫、なんとかなるって!」


 「でも、どうしてそんなことが言えるんですか……?もう街中が敵で、どこにも逃げ場なんて……」


 「逃げ場がないなら、作るしかないのよ!」


 リナが、苦しい息の下から鋭く言い放った。彼女は走りながら、背後の追手に向かって杖を振るう。


 「――『粘着弾グルー・ショット』!」


 杖先から放たれた小さな魔力の塊が、地面に着弾すると同時に、強力な粘着質の液体を撒き散らした。追手の何人かがそれに足を取られ、派手に転倒する。しかし、稼げる時間はほんのわずかだ。リナの顔色は紙のように白く、その額には脂汗が滲んでいる。


 「リナ、魔力は平気なの!?」


 「平気なわけないでしょう!もうほとんど残っていないわ……!」


 「じゃあ、もう魔法は使っちゃだめだ!」


 「あなたこそ、無茶をしないで!その体で、まだ動ける方がおかしいのよ!」


 極限状態の中、三人の会話は不思議と噛み合わない。アルの根拠のない楽観論、セラフィナの絶望的な悲観論、そしてリナの冷静すぎるツッコミ。それは、およそ絶体絶命の逃亡者が交わす会話とは思えなかったが、そのちぐはぐなやり取りが、かろうじて彼らの心を繋ぎとめていた。


 「そこの物置に隠れるわよ!少しでも時間を稼ぐ!」


 リナが指差したのは、古いレンガ造りの建物の脇にある、朽ちかけた木製の扉だった。三人はそこへ駆け込む。アルが扉に手をかけようとした、その時。


 「私がやります!」


 セラフィナがアルを制し、扉の前に立った。彼女は、これ以上二人に迷惑はかけられないと、必死だったのだ。追手がすぐそこまで迫っている。一刻も早く、扉を内側から塞がなければ。


 彼女は扉に手をかけ、ぐっと力を込めた。


 バキィッ!ゴシャァッ!


 凄まじい破壊音と共に、木製の扉は蝶番ごと壁から引き剥がされ、外の路地裏へと吹き飛んでいった。静まり返る三人。セラフィナは、自分の手と、ぽっかりと口を開けた入口を、呆然と見比べた。


 「……あ……。すみません、隠れる場所を、壊すつもりは……」


 「……いや、うん。気持ちは、嬉しいよ。ありがとう」


 アルが、引きつった笑みを浮かべて彼女の肩を叩いた。リナは、こめかみを押さえながら深いため息をつく。


 「……もう、いいわ。行くわよ。ここに留まるのは悪手よ」


 再び、三人の逃走が始まった。しかし、先ほどの破壊音が、彼らの居場所を追手に知らせてしまった。四方八方から、怒声と足音が迫ってくる。


 ついに、三人は広場に面した袋小路に追い詰められた。背後は高い壁、そして正面からは、じりじりと距離を詰めてくる十数人の男たち。その誰もが、武器を手にし、下卑た笑みを浮かべていた。


 「もうおしまいだ、勇者様御一行」


 「金貨五十枚は俺たちで山分けだぜ」


 絶望的な状況。リナは杖を構え、最後の魔力を振り絞ろうとする。セラフィナは、アルとリナの前に立ちはだかり、巨大な盾を地面に突き立てた。その背中は小さく震えていたが、二人を守るという意志だけは、固かった。


 「……そういえば」


 不意に、アルが呟いた。こんな状況で、あまりにも場違いな、穏やかな声だった。リナとセラフィナが、怪訝な顔で彼を見る。


 「まだ、君の名前を聞いてなかったなって」


 アルは、盾を構える少女の背中に向かって、にっこりと笑いかけた。


 「僕はアル。こっちはリナ。君の名前は?」


 その問いに、少女は虚を突かれた。名前。自分の名前。それは、呪われた力の象徴であり、忌わしい過去と分かちがたく結びついた、ただの記号。傭兵になってからは、誰も彼女を名前で呼ばなかった。『鉄壁』。それが、彼女の呼び名だった。


 「……セラ、フィナ……」


 それは、長い間口にしたことのなかった、自分の名前を確かめるような、か細い囁きだった。彼女はそう答えるのが精一杯で、それが本当に、久しぶりに自分の名前を口にした瞬間だった。


 「セラフィナか。いい名前だ」


 アルは満足そうに頷くと、くるりと追手たちの方に向き直った。その手には、もはや武器すらない。あるのは、仲間からもらった、決して折れることのない勇気だけだった。


 「リナ、セラフィナ。僕が時間を稼ぐ。その隙に、二人で逃げるんだ」


 「馬鹿なことを言わないで!」


 リナが叫ぶ。


 「あなた一人で、この数を相手にできるわけがないでしょう!」


 「僕を誰だと思ってるんだい?勇者だぞ!」


 「その勇者が、丸腰で何ができるっていうのよ!」


 「それでも、やるんだ!このままじゃ3人まとめて……、あ!」


 アルが、何かに気づいたように声を上げた。彼の視線は、セラフィナが構える巨大な盾に注がれていた。


 「そうだ、セラフィナ!その盾!盾があれば、いけるかもしれない!」


 「えっ!?」


 「二人とも、僕と一緒に盾の後ろへ!あの壁を、こじ開けるんだ!」


 アルの閃きに、リナは一瞬眉をひそめたが、他に打つ手がないのも事実だった。三人は、セラフィナが構える鉄の壁の背後に、身を寄せ合うようにして隠れる。


 「セラフィナ、君ならできる!何も考えなくていい、ただまっすぐ、僕たちを信じて走ってくれ!」


 「……はいっ!」


 セラフィナは、アルの魂からの叫びに、力強く頷いた。彼女が先頭に立ち、盾をぐっと構え直す。アルとリナが、その両脇を固めるように寄り添った。


 「行くぞぉっ!」


 アルの雄叫びを合図に、三人は一つの塊となって、人の壁へと突撃した。それは、城門を打ち破る破城槌のような、凄まじい突進だった。


 先頭にいた男たちが、抵抗する間もなく盾に弾き飛ばされ、人の壁に風穴が開く。


 「いける!このまま広場を突っ切るんだ!」


 アルが叫び、開かれた突破口へと突き進んだ。袋小路の息苦しい圧迫感から解放され、三人は再び広場へと躍り出る。追手たちの怒号が背後で渦を巻くが、今は前だけを見るしかない。


 「もう少しだ!あの通りに出れば、きっと……!」


 アルは、リナとセラフィナの手を、左右の手で強く掴んだまま、石畳を蹴って速度を上げた。


 「追手は!?」


 アルは、二人を気遣いながらも、一瞬だけ後ろを振り返り、袋小路から溢れ出てくる男たちの姿を確認した。


 「アル、前を見て!」


 リナの切羽詰まった声と、セラフィナが息を呑む気配。アルがはっとして前を向き直したのは、その直後だった。


 「ぐえぇっ!?」


 目の前には、鋼鉄の壁がそそり立っていた。いや、壁ではない。


 情けない声を上げ、アルの体は、まるで硬い壁に激突したかのように、派手に吹っ飛んだ。


 何かに、衝突したのだ。


 アルがぶつかった相手は、びくともしなかった。それは、鋼鉄の鎧を身にまとった、屈強な騎士だった。アルのすぐ後ろを走っていたリナとセラフィナも、慌てて足を止める。


 「きゃっ!」「申し訳ありません、この子が不注意で……!」


 リナが、咄嗟に謝罪の言葉を口にする。


 目の前には、同じような装備に身を固めた数人の人影が、統率の取れた動きで立ち塞がっていた。その鎧は、実用性を重視しながらも、気品のある意匠が施されている。腰に下げた剣も、使い込まれてはいるが、一目で業物のそれとわかる。何よりも、一人一人が放つ空気が、街のごろつきや衛兵とは全く異なっていた。それは、厳しい訓練と、幾多の実戦を潜り抜けてきた者だけが持つ、精強で、張り詰めたオーラだった。


 「な、何だ、てめえら……!」


 アルたちを追ってきた賞金稼ぎたちが、突然現れた騎士の一団を前に、思わず足を止める。その威圧感に、完全に気圧されていた。


 騎士団の中から、一人の人物が静かに前に進み出た。他の騎士たちよりも一回り小柄で、兜の目庇の奥から、鋭くも澄んだ蒼い瞳がのぞいている。その人物は、ひっくり返って呻いているアルと、その両脇で身構えるリナとセラフィナを、冷静に一瞥した。


 「これは、一体どういう状況だ?ヴァイスブルクの治安は、ここまで地に落ちたのか」


 凛とした、よく通る声。それは、若い女性の声だった。


 賞金稼ぎの一人が、騎士団の威圧に耐えかねたように叫んだ。


 「こ、こいつらは、商人ボルヘス様の品物を盗んだ、重罪人だ!懸賞金がかけられてるんだよ!あんたたちには関係ねえ!そいつらを引き渡しな!」


 その言葉に、兜の女性の隣に控えていた副官らしき壮年の騎士が、侮蔑の視線を男に向けた。


 「ボルヘス……?ああ、あの強欲商人か。奴の言うことなど、信用に値せん」


 副官の言葉は、静かだが有無を言わせぬ響きを持っていた。彼は一歩前に出ると、その巨躯から放たれる威圧感だけで、賞金稼ぎたちをじりじりと後退させる。


 「我らはアストリア王国騎士団。公務の遂行中である。貴様らのようなハイエナの相手をしている暇はない。速やかに立ち去れ。さもなくば、公務執行妨害とみなし、実力で排除する」


 「アストリア王国だと……!?」


 その名を聞いて、賞金稼ぎたちの顔色が変わった。ヴァイスブルクは自治都市だが、隣国であるアストリア王国は、経済的にも軍事的にも無視できない大国だ。その正規の騎士団に逆らうのは、あまりにも分が悪い。男たちは顔を見合わせ、忌々しげに舌打ちをすると、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。


 嵐のような状況が、嘘のように静まり返る。後に残されたのは、アル、リナ、セラフィナの三人と、謎の騎士団だけだった。


 兜の女性は、まだ地面に座り込んでいるアルに手を差し伸べた。


 「立てるか、少年。怪我はないか」


 その力強い手に引かれ、アルはよろよろと立ち上がった。


 「だ、大丈夫です!ありがとう、助かりました!」


 「礼を言うのはまだ早い。お前たち、なぜボルヘスのような男に追われていた?詳しく話せ」


 彼女の問いに、リナが警戒しながらも答えた。


 「……私たちは、あの商人の屋敷から、囚われていたこの子を助け出してきただけです」


 「ほう、義賊気取りか。だが、それだけでこれほど執拗に追われるものか?」


 副官の鋭い指摘に、リナは言葉に詰まる。アルが慌てて口を挟んだ。


 「彼女は『商品』として、あの商人に買われたんだ!物じゃない、人間なのに!だから、僕たちが助けたんです!」


 アルの真っ直ぐな言葉に、兜の女性はわずかに目を見張ったようだった。彼女はセラフィナに視線を移す。その手には、自らを閉じ込める殻ともいえる巨大な盾が構えられ、その表情は怯えきっていた。そして、彼女を庇うように立つアルとリナ。状況は、おおよそ把握できた。


 「……事情は理解した。だが、お前たちが厄介事に巻き込まれていることには変わりない。名乗ってもらおうか」


 「僕はアル!魔王を倒すために旅をしている、勇者です!」


 アルが胸を張って答えると、騎士たちの間に、一瞬、困惑とも失笑ともつかない空気が流れた。副官の騎士が、こほん、とわざとらしい咳払いをする。


 「……私はリナ。ただの魔導士よ」


 「……セラフィナ、です」


 リナとセラフィナは、それぞれ警戒心を解かずに名乗った。


 兜の女性は、アルの「勇者」という言葉を意図的に無視し、リナに視線を向けた。


 「魔導士リナ、か。お前たちがこの街に来た目的はなんだ?単なる通りすがりか?」


 「ええ、まあ、そんなところよ。旅の途中で立ち寄っただけ。もっとも、ここまで大歓迎されるとは思ってもみなかったけれど」


 リナの言葉には、棘があった。騎士団の尋問じみた態度が、彼女の警戒心をさらに強めていた。


 その時、兜の女性が、ふと何かに気づいたように、リナの足元に視線を落とした。


 「……その土……。お前たち、もしかして、東の街道から来たのか?霧の谷を越えて」


 リナのブーツには、霧の谷特有の、湿り気を帯びた黒い土が微かに付着していた。それを見抜いた兜の女性の眼力に、リナは内心で舌を巻いた。


 「……ええ、そうよ。それが何か?」


 その答えを聞いた瞬間、兜の女性と、その隣に立つ副官の空気が、明らかに変わった。それまでの尋問のような雰囲気から、鋭い緊張感をはらんだものへと。


 「霧の谷で、何か変わったことはなかったか。例えば、異様な魔獣に遭遇したとか」


 その言葉に、今度はリナが目を見開いた。


 「……なぜ、それを?」


 「答えろ。これは、我々アストリア王国にとって、極めて重要な問題だ」


 女性の声には、有無を言わせぬ響きがあった。リナは一瞬ためらったが、彼らが単なるお節介で自分たちを尋問しているのではないことを悟った。彼女の脳裏に、あの異様な魔獣――ミストハウンドたちの姿が蘇る。


 「……いたわ。狼に似た、黒い魔獣の群れ。書物で知る『ミストハウンド』とは、明らかに違う、異質な存在が」


 リナは、騎士団の真意を探るように、慎重に言葉を選びながら語り始めた。


 「谷を覆っていた霧は、自然のものではなかった。常に一定の濃度を保ち、濃密な魔力を帯びていた。そして、奴らはその霧を操り、物理的な氷の槍を生成して攻撃してきたわ。あれは、単なる獣の能力ではない。高度な創造魔法の領域よ」


 リナの言葉に、騎士たちが息を呑むのがわかった。兜の女性は、兜の奥で、その蒼い瞳をさらに鋭く光らせる。


 「奴らの動きも、単なる獣の群れではなかったわ。リーダー格の個体を中心とした、統率された戦術行動。まるで、知性ある何者かの指揮下にあるかのようだった。天然の魔獣があのような動きをするとは、考えにくい。何者かが人為的に手を加えた……その可能性を、今は疑うことしかできないけれど」


 リナの分析は、彼女の持つ膨大な知識と、実戦経験に裏打ちされた、鋭い推論だった。


 その言葉が、決定打となった。


 兜の女性は、隣の副官と無言で視線を交わした。副官が、重々しく頷く。


 女性は、アルたちに向き直ると、静かに、しかしはっきりとした口調で言った。


 「……お前たちの身柄は、我々アストリア王国騎士団が保護する」


 「え……?」


 突然の申し出に、アルたちが戸惑う。


 「ボルヘスからの追手は、我々が完全に抑えよう。お前たちには、安全な場所と、休息を提供する。その代わり、先ほどの『異質なミストハウンド』について、我々が知るすべての情報を、詳しく話してもらう」


 それは、命令であり、同時に取引の提案でもあった。逃亡者であるアルたちにとって、断る理由のない、あまりにも好都合な申し出。


 「……わかったわ。その取引、受けましょう」


 リナは、騎士団のただならぬ様子から、この話が国家レベルの重大事であることを察し、承諾した。


 兜の女性は、満足げに頷くと、兜を脱いだ。


 その下から現れたのは、陽光を浴びて輝く、見事な金色の髪。そして、気品と強い意志を兼ね備えた、息を呑むほどに美しい顔立ちだった。歳は、アルたちとそう変わらないように見える。


 「私は、アウレリア。この部隊を率いる者だ。改めて、よろしく頼む」


 アウレリアと名乗った彼女は、王女という身分を隠し、一人の騎士隊長として、アルたちに手を差し伸べた。


 逃亡者から一転、王国の騎士団との協力者へ。


 三人の運命は、このヴァイスブルクの地で、再び大きく動き出そうとしていた。



 アウレリアに連れられて、アルたちが案内されたのは、貴族街の一角に立つ、壮麗ながらも華美な装飾を排した、堅牢な石造りの館だった。アストリア王国が、ヴァイスブルクにおける外交拠点として使用している大使館だ。


 館の中は、外観の印象通り、実用本位で、しかし上質な調度品が整然と並べられていた。廊下をすれ違う人々も、皆、騎士や文官であり、無駄口一つ叩かず、自らの職務に集中している。張り詰めた空気が、館全体を支配していた。


 「まずは、傷の手当てと休息を。部屋を三つ用意させた。食事もすぐに運ばせる。荷物は、宿に残してきたと言ったな?後で部下の者をやり、回収させよう」


 アウレリアは、副官である壮年の騎士――名をゲオルグという――にテキパキと指示を出すと、アルたちに言った。


 「話は、君たちが落ち着いてからだ。ゆっくり休むといい」


 その言葉に、アルは満面の笑みで答えた。


 「ありがとう、アウレリアさん!助かります!いやー、なんとかなるもんだなあ!」


 アルの能天気な言葉に、アウレリアは一瞬、言葉に詰まった。ゲオルグは、眉間に深い皺を刻んでいる。この少年は、自分たちが置かれている状況の深刻さを、果たして理解しているのだろうか。


 三人は、それぞれ個室へと案内された。


 部屋には、ふかふかのベッド、清潔な衣服、そして温かい湯浴みの準備まで整えられていた。逃亡生活でこびりついた汚れと疲労を洗い流し、新しい服に着替えると、まるで生き返ったような気分だった。


 やがて、豪華な食事が部屋に運ばれてきた。ローストされた鶏肉、具沢山のスープ、焼きたてのパン、そして新鮮な果物。


 アルは「うおおお!」と歓声を上げ、夢中で食事にがっついた。


 セラフィナは、最初はおずおずとしていたが、アルに促され、一口、また一口とパンを口に運ぶうちに、その瞳にみるみる生気が戻ってきた。彼女もまた、ここ数か月、まともな食事にありつけていなかったのだ。その細い体のどこに入るのかと不思議になるほど、彼女は黙々と、しかしすごい勢いで食事を平らげていく。


 一方、リナだけは、食事にほとんど手をつけず、窓の外を眺めながら、思考に耽っていた。


 (アストリア王国騎士団……。彼らの目的は、やはり『隊商連続消失事件』。そして、その原因が、あのミストハウンドだと睨んでいる)


 リナの推測は、的を射ていた。彼女の持つ知識と洞察力は、すでに事件の核心に触れつつある。


 (だとしたら、私たちの持つ情報は、彼らにとって極めて重要。交渉の材料になるわ)


 彼女は、アルやセラフィナと違い、この状況を手放しで喜んではいなかった。相手は一国の騎士団。利用されるだけ利用されて、用済みになれば切り捨てられる可能性も十分にある。細心の注意を払って、交渉に臨まなければならない。


 食事が終わる頃、ゲオルグが部屋を訪れた。


 「休息は取れたか。では、アウレリア様がお待ちだ。こちらへ」


 三人が通されたのは、大きな円卓が置かれた作戦司令室のような部屋だった。壁には、ヴァイスブルク周辺の詳細な地図が貼られ、いくつかの地点に赤い印がつけられている。


 部屋の上座にはアウレリアが座り、その隣にゲオルグが控えていた。


 「さて、単刀直入に聞こう。君たちが『霧の谷』で遭遇したという、異質なミストハウンド。その時の状況を、覚えている限り、詳細に話してほしい」


 アウレリアの真剣な眼差しに、今度はリナが代表して口を開いた。彼女は、ミストハウンドの異常な能力、統率された動き、そして自らが放った『陽子穿貫』によってリーダー格を消滅させたことまで、冷静に、かつ論理的に説明した。


 リナの説明が終わると、部屋は重い沈黙に包まれた。アウレリアは、じっと地図を見つめている。彼女が指差した赤い印の一つは、まさしく『霧の谷』を示していた。


 「……やはり、そうか。我々の調査でも、複数の隊商がこの谷の周辺で消息を絶っている。生存者の証言は皆無。残されたのは、荷馬車の残骸と、不可解な戦闘の痕跡だけだった」


 ゲオルグが、苦々しげに付け加える。


 「問題は、なぜ奴らが隊商を狙うか、だ。単なる捕食が目的ならば、もっと手近な獲物を狙うはず。奴らの行動には、明確な『目的』があるように思える」


 「その目的とは?」


 リナが問うと、アウレリアは、重い口を開いた。


 「……わからない。だが、最後に消息を絶った隊商には、我が国の重要な人物が乗っていた」


 その声には、押し殺したような、個人的な感情が滲んでいた。リナは、それを見逃さなかった。


 (重要な人物……。それが、彼女が自ら辺境の調査に赴いた、本当の理由ね)


 「その人物が、奴らの目的なのかもしれない。あるいは、その人物が持っていた『何か』が」


 リナが核心を突くと、アウレリアは、はっとしたように顔を上げた。彼女はリナの洞察力に、改めて驚きを禁じ得ない。


 「……君は、何者だ?ただの魔導士にしては、あまりにも聡明すぎる」


 「言ったでしょう。ただの魔導士よ。森で、本を読んで暮らしていただけのね」


 リナは、さらりとかわした。


 その時、それまで黙って話を聞いていたアルが、元気よく手を挙げた。


 「はい!はい!僕、わかったかもしれない!」


 場の深刻な空気を全く意に介さない、アルの突然の発言に、全員の視線が集中する。


 「きっと、その重要な人っていうのは、悪い魔物に捕らわれたお姫様なんだ!そして、僕たち勇者が、そのお姫様を助け出す!物語の王道だ!」


 アルが、自信満々に言い放った。


 しん、と部屋が静まり返る。アウレリアは、美しい顔をわずかに引きつらせ、ゲオルグは天を仰いだ。セラフィナは、アルの服の袖を、心配そうにきゅっと掴んでいる。


 リナだけが、盛大なため息をついた。


 「……アル。お願いだから、少し黙っていてくれないかしら……」


 「ええー、なんでさ!いい線いってると思うんだけどなあ!」


 この、どこまでも噛み合わないやり取り。しかし、アルのその突拍子もない一言が、張り詰めていた部屋の空気を、ほんの少しだけ和らげたのも、また事実だった。


 アウレリアは、小さく咳払いをすると、話を本題に戻した。


 「……ともかく、君たちの持つ情報は、我々の調査を大きく前進させるものだ。改めて、礼を言う」


 彼女は、三人をまっすぐに見据えた。


 「そして、提案がある。我々の調査に、協力してはもらえないだろうか。君たち、特に魔導士リナの知識と、実戦経験は、我々にとって大きな力となるはずだ。もちろん、君たちの安全は、アストリア王国の名誉にかけて保証する。報酬も、相応のものを用意しよう」


 それは、破格の提案だった。追われる身だった三人が、一転して、大国の騎士団から正式な協力者として認められたのだ。


 アルは、リナとセラフィナの顔を見た。リナは、静かに頷く。彼女もまた、この事件の真相を、自らの目で確かめたいと思っていた。セラフィナは、おずおずと、しかしアルとリナの隣にいることを選ぶように、小さく頷いた。


 「わかりました!その話、お受けします!困っている人がいるなら、助けるのが勇者だからね!」


 アルが、三人を代表して、力強く答えた。


 こうして、勇者(自称)とその仲間たち、そしてアウレリア率いる精鋭騎士団による、奇妙な共同戦線が結成された。


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