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プロローグ

 風が運ぶ新緑の香りが、里の少年少女たちの賑やかな声を優しく包み込む。この小さな里では、子供たちは皆、暖炉のそばで語られる古の勇者伝説を子守唄代わりに育つ。炎に照らされた祖父母の顔、魔王軍の恐るべき幹部たちを打ち破り、里に束の間の平和をもたらした英雄の物語は、彼らの心に小さな、しかし消えない憧れの種を蒔きつけていた。


 広場の中心で、一人の少年が朗らかに笑っている。アル。誰もがそう呼ぶ彼の周りには、いつも春の陽だまりのような穏やかな空気が流れていた。

 風を切る鋭い音に続き、ずしりとした衝撃音が響いた。カインが投げ放った訓練用の木剣が、見事に木の幹に突き立っている。


「おい、アル。今の、見てたか?こうやるんだよ」


 腕を組み、得意げな声を隠そうともしないカインに、ぼんやりと空を見上げていたアルがようやく視線を向けた。だが、その瞳はまだ目の前のカインを捉えておらず、どこか遠くを見ている。アルの反応の薄さに、カインは少しむっとする。


「…なんだよ、その顔。つまんないってのか?」


 彼の言葉は刺々しい響きを帯びていたが、アルは慌てて首を横に振ると、花の綻ぶような笑みを返した。


「ううん、そんなことないよ。だって、カインが楽しそうだから、見てる僕も楽しくなるんだ」


 悪意のない、あまりにも純粋な返答。それがカインの苛立ちを一層煽ることを、アルは知らない。カインは、アルの誰にでも優しいその性格や、自分と違って物怖じしないところに、密かな憧れと、そして言葉にできないもどかしさを感じていた。自分にはないものを持つアルが眩しく、同時に、その無防備さが腹立たしい。思春期特有の屈折した感情が、彼をアルへのからかいへと向かわせるのだった。


 数日前、カインは森の探検中に偶然、古びた石碑を見つけていた。苔むした台座に突き立つ錆びた剣。勇者伝説に胸を躍らせて育った彼が、一瞬息を飲んだのは言うまでもない。だが、近づいてみれば、それは武器ですらなく、ただの記念碑であることはすぐに知れた。がっかりしたと同時に、カインの頭に悪戯っぽいアイデアが閃いた。アルをからかうには、うってつけの舞台だ。


「ふん、口ばっかり達者なやつめ!」


 カインはそう吐き捨てると、悪戯っぽい笑みを浮かべて周りの子供たちを見回した。


「なあ、みんな! 面白い話があるんだ。この先の森の奥に、本物の『勇者の剣』が眠ってるらしいぜ。なんでも、『選ばれた者』にしか抜けないそうだ」


 子供たちの目がきらりと輝く。勇者の物語は、彼らにとって最高の娯楽だ。カインはアルを顎でしゃくった。


「…お前みたいなヤツには、百年経っても抜けっこないだろうけどな!」


 その言葉は、アルをからかう気持ち半分と、そして「もしかしたら、こいつなら何か面白いことをしでかすかもしれない」という、カイン自身も気づいていない無意識の期待半分から生まれたものだった。


「選ばれた者しか抜けない…勇者の剣?」


 アルの瞳が、純粋な好奇心に大きく見開かれる。カインの挑発的な言葉は、彼の耳には全く届いていない。ただ、「勇者」という、幼い頃から聞き慣れた憧れの響きだけが、彼の心を強く捉えた。


 鬱蒼と茂る木々が陽光を遮り、ひんやりとした空気が肌を撫でる。カインにけしかけられた子供たちに囲まれ、アルは森の奥深くへと足を踏み入れていた。開けた場所に、それはあった。

 苔むした古い石の台座に、一本の古びた剣が突き刺さっている。柄は朽ちかけ、刀身は錆びつき、もはや武器としての原型を留めていない。それは、かつて魔王軍の脅威からこの地を守った名もなき勇者を称え、先人たちが建てた記念碑に過ぎなかった。

 しかし、アルにはそんなことはわからない。彼はカインの言葉を、一欠片の疑いもなく信じ込んでいた。


「すごい…本当にあったんだ」


 ごくりと喉を鳴らし、アルは台座へと歩み寄る。周りの子供たちが固唾を飲んで見守る中、彼は錆びた剣の柄にそっと手をかけた。ひんやりとした金属の感触が、手のひらに伝わる。

(これを抜けたら、僕も…)

 彼の脳裏に浮かんだのは、いつも自信に満ち溢れている幼馴染の姿だった。

(僕も、カインみたいに、かっこよくなれるかな)

 その純粋な願いを込めて、アルは渾身の力で剣を引いた。アルが力を込めた、その刹那。彼の足元で、何かが軋むような、鈍い悲鳴が上がった。ミシリ、と石が擦れる不快な音が響き渡り、彼の足元がぐらりと揺れた。長年の風雨に耐えかねた台座が、彼の力をきっかけに、あっけなく崩壊したのだ。

 砂埃が舞い、子供たちの悲鳴が上がる。アルは尻餅をつき、手には、崩れた台座から抜け落ちた錆びた剣が握られていた。

 静寂が森を支配する。やがて、一人の子供が声を上げた。


「す、すげえ…抜いたぞ!」


 その一言が堰を切ったように、他の子供たちも次々にはやし立て始めた。


「アルが勇者の剣を抜いた!」

「勇者だ! アルは勇者だ!」


 無邪気な歓声が森にこだまする。その喧騒の中で、ただ一人、カインだけが呆然と立ち尽くしていた。自分のついた嘘が、目の前で信じられない現実へと変わってしまった。冗談のつもりだった。いつものように、アルを困らせて笑い者にする、ただそれだけの筈だった。

 そんなカインの葛藤を知る由もなく、アルは満面の笑みで立ち上がると、誇らしげに剣を掲げて叫んだ。


「カイン! 見て! 僕、勇者になったよ!」


 そのあまりにも嬉しそうな、一点の曇りもない笑顔を前にして、カインは言葉を失った。事の重大さに気づき、彼の顔から血の気が引いていく。まさか、自分の悪戯が、アルを里の話題の中心である「勇者」にしてしまうなんて、夢にも思っていなかったのだ。

 その日の夕暮れ。アルは錆びた鉄の塊を宝物のように抱え、意気揚々と我が家の扉を開けた。


「ただいま! お父さん、お母さん! 大変だよ!」


 夕食の支度をしていた母親が、息子のただならぬ様子に驚いて振り返る。その手には、まるで伝説から抜け出してきたかのような、古びた剣が握られていた。


「まあ、アル! それはどうしたの? 危ないわ!」


 母親が心配そうに駆け寄るが、アルは興奮を抑えきれない様子で、食卓に剣をどん、と置いた。ガシャン、と鈍い音が響く。


「見て! 勇者の剣だよ! 僕が抜いたんだ!」


 そこへ、薪割りを終えた父親が部屋に入ってきた。里一番の腕利きとして知られる彼は、若い頃に冒険者として諸国を巡った経験を持つ。その目は、アルが掲げた剣を一瞥しただけで、それがただのナマクラであることを見抜いていた。長年の風雨に晒され、もはや武器としての価値など欠片もない、ただの鉄屑だ。

 父親は、しかし、何も言わなかった。彼の目に映っていたのは、錆びた剣ではなく、それを握る息子の、星のように輝く瞳だったからだ。


「…ほう。これが、勇者の剣か」


 父親はゆっくりと剣を手に取った。ずしりとした重み。彼はアルに向き直り、努めて冷静な声で尋ねた。


「それで、勇者になったお前は、これからどうするんだ?」


 待ってましたとばかりに、アルは胸を張った。


「決まってるよ! 今度こそ、魔王を倒す旅に出る!」

「馬鹿なこと言わないで!」と母親が悲鳴に近い声を上げる。だが、父親は静かにそれを制した。

「待て、アル。気持ちはわかった。だがな、勇者といえど、旅には周到な準備というものが必要だ」

「準備?」

「そうだ。お前は確かに毎日稽古を続けている。だが、今のままのお前では、森のゴブリンにすら勝てんぞ。それに、この剣も見てみろ」


 父親は錆びた刀身を指でなぞる。


「勇者の剣も、これだけ長い間眠っていたんだ。本来の力を取り戻すには、それ相応の手入れと、使い手であるお前自身の成長が必要だろう。違うか?」


 それは、息子の夢を壊さないための、父親の精一杯の嘘だった。ここで力ずくで止めようとしても、この純粋で頑固な息子は、きっと隙を見て家を飛び出すだろう。父親の真の狙いは、「準備」という名目のもとで時間稼ぎをし、息子の熱が冷めて旅を諦めるのを待つことにあった。

 しかし、アルはその言葉を額面通りに受け取った。彼の瞳は、尊敬する父への信頼で輝いていた。


「わかった、お父さん! それなら僕、完璧な準備ができるまで、絶対に旅立たないよ! この剣が、本当の輝きを取り戻すまで!」


 その日から、アルの三年間にもわたる、ひたむきで、そして少しだけズレた「勇者の準備期間」が、静かに幕を開けたのだった。

 アルは、彼なりの努力を始めた。

 まず彼が取り組んだのは、「聞き込み調査」だった。里の長老や物知りな大人たちを訪ねては、「昔の勇者様はどんな冒険をされたんですか?」「魔王はどんなものが嫌いなんでしょう?」と、目を輝かせながら熱心に質問を繰り返した。

 大人たちは最初、またアルが何か始めたと微笑ましく思い、あるいは呆れながらも、そのあまりの純粋さと真剣さに根負けし、いつしか知っている限りの伝説やおとぎ話の断片を語って聞かせるようになっていた。

 アルはそれらを一言一句聞き漏らすまいと、真剣な表情で羊皮紙のメモに書き留めていく。行商人から伝え聞く世界情勢、古い書物に記された魔物の伝承。やがて彼の部屋の壁は、彼自身が描いた不正確な世界地図と、どこか愛嬌のある魔物のスケッチで埋め尽くされていった。

 次に「剣の稽古」。父親との特訓で教わった剣の「型」を、来る日も来る日も、庭で黙々と繰り返した。


「えーっと、次は右足を踏み込んで、腕をこう…だったかな?」


 一つ一つの動きを確かめるように、ぎこちなく、しかし真剣そのものの表情で剣を振るう。その姿は、お世辞にも強そうとは言えなかった。父親は、その絶望的なまでの戦闘センスのなさに内心でため息をつきながらも、息子の「本気」に応え、根気強く指導を続けた。

 そんなアルの姿を、生垣の影からこっそりと覗き見る者がいた。カインだ。


「……あいつ、本気なのかよ」


 呆れと、心配と、そして言葉にならない焦りが入り混じった表情で、カインは呟いた。アルが「勇者」として努力を続ける姿は、嘘の張本人であるカインの心を複雑に締め付けた。アルへの罪悪感と対抗心に火が付いたカインは、この日から自らも剣の道を志し、がむしゃらに稽古に打ち込んだ。三年の月日が経つ頃には、彼は里で一番の剣の腕前を持つまでに成長していた。

 そして三つ目の努力が、「旅の準備」だった。アルは旅の資金を貯めるため、これまで以上に里の手伝いに精を出した。畑を耕し、薪を割り、そうして稼いだわずかなお金で、旅の道具を少しずつ、しかし着実に買い揃えていった。

 彼の部屋の隅に置かれた真新しいリュックサック。それは完璧な旅仕様だったが、中に詰め込まれていくのは、どこか風変わりなものばかりだった。最低限の食料と水筒。その隣には、道中でおいしい木の実を見つけるための植物図鑑、話が弾むかもしれないと思って買ったカードゲーム、見つけた綺麗な石を入れるための小さな革袋、そしてリュックの半分を占めるほどの、大量のお菓子。


「仲間ができたら、これで仲良くなるんだ」


 彼は本気でそう考え、まだ見ぬ仲間たちの喜ぶ顔を想像しては、一人微笑むのだった。

 時は流れた。一日も欠かすことなく努力を続けるアルの姿に、最初は「勇者ごっこ」と微笑ましく見ていた里の人々の認識も、次第に呆れから尊敬へと変わっていった。「あいつは本気だ」と、誰もが認めざるを得なかった。すぐに諦めるだろうと思っていた父親も、息子の揺るぎない決意の前には、もはや何も言うことはできなかった。

 アルが「勇者」になったあの日から、三年が過ぎた。少年は十七歳の青年へと成長していた。ある晴れた日の朝、彼は完璧に準備された(と本人が信じている)リュックを背負い、両親の前に立った。その瞳は、三年前と何一つ変わらない、澄んだ輝きを放っていた。


 旅立ちの前夜。

 アルは自室で、あの日の錆びた剣を柔らかい布で丁寧に磨いていた。三年間、彼はこの剣もまた、一日も欠かさず手入れを続けていた。錆が完全に落ちることはなかったが、月明かりを反射する刀身は、鈍いながらも確かな光を放っている。それはもはや、彼にとってただの鉄屑ではなかった。彼の三年間の誓いと、努力の全てが宿る、魂の象徴だった。

 窓の外では、静かな夜空に満月が浮かんでいた。アルは窓辺に立ち、その月を見上げる。彼の思いは、まだ見ぬ仲間たち、そして、これから倒しに行くべき魔王へと馳せられていた。彼はそっと、夜空に向かって語りかけた。


「待っててよ、魔王。僕と、僕の最高の仲間たちで、必ず君を倒しに行くから」


 彼の声は、不思議なほど穏やかだった。


「そしたら、もう誰も君のせいで悲しんだり、泣いたりしなくて済むんだ。君だって、きっともう、悪いことをしなくて済むようになる」


 彼の胸を満たしているのは、悲壮感や恐怖ではない。人々を救うという、疑うことを知らない固い使命感。そして、まだ見ぬ仲間との輝かしい冒険への、純粋な期待。

 その二つの感情が一つに溶け合い、彼の心臓を力強く脈打たせていた。

 彼の「本気」は、絶望ではなく、未来への希望に満ち溢れていた。明日、世界を救うための、あまりにも心許なく、しかし誰よりも真摯な旅が、始まろうとしていた。


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