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山奥の小屋での生活は、穏やかな日々と小さな波乱を繰り返していた。エリスのチョコレートに目を輝かせた笑顔が、レオンの冷えた心に微かな揺らぎを残してから数日が過ぎていた。だが、その静けさは再び突如として破られた。
その朝、朝食のテーブルで、エリスがスプーンを握ったまま突然ふらりと傾いた。スープの入った碗がテーブルに倒れ、液体がこぼれる。彼女は椅子から滑り落ち、床に崩れ落ちた。レオンは即座に反応し、彼女のそばに駆け寄った。
「エリス!」
彼女の額に触れると、焼けるような熱。呼吸は浅く、速く、意識はぼんやりとしている。数週間前の発作と同じ症状だった。レオンは無表情のまま、迅速に彼女を抱き上げ、ベッドへと運んだ。華奢な身体は驚くほど軽く、熱のせいで震えているのが伝わってきた。
ベッドに寝かせ、濡れたタオルを額に置く。エリスの小さな身体は熱に震え、時折かすかな呻き声を漏らした。スープの染みが彼女の服に広がり、テーブルの上の碗がまだ転がっているのが目に入ったが、レオンはそれらを無視し、看病に集中した。
彼は通信機に手を伸ばした。護衛対象の異変は報告義務だ。だが、それ以上に、彼女の繰り返す発作に、胸の奥でざわめく不安があった。
「こちらレオン。護衛対象が再び倒れた。高熱、意識朦朧。指示を頼む。」
彼の声は冷静だったが、どこか切迫していた。
数分後、通信機から冷ややかな声が返ってきた。
「それが正常だ。引き続き護衛任務を継続せよ。」
無機質な返答。前回と同じ、まるでエリスの状態が予定された出来事であるかのような口調だった。
レオンは眉をひそめ、声を低くして畳み掛けた。
「正常だと? 倒れる原因は何だ? 予防や解決する方法はないのか?」
彼の言葉には、任務を超えた焦りが滲んでいた。エリスの華奢な姿、高熱にうなされる様子が、戦場で見た無数の死を思い出させた。彼女をこのまま見過ごすわけにはいかない。
通信の向こうで、わずかな沈黙が流れた。レオンの懇願に絆されたのか、声が一言だけ返ってきた。
「……………寿命だよ。」
その言葉だけを残し、通信は一方的に切れた。
レオンは通信機を握りしめ、凍りついたように立ち尽くした。
「寿命……?」
彼の頭の中で、その言葉が反響する。だが、どうしても納得できなかった。エリスは見た目も、振る舞いも、自分よりずっと幼い少女だ。彼女が「寿命」に近づいているなど、想像もつかない。謎は深まるばかりだった。
彼はベッドに横たわるエリスを見下ろした。熱で赤らんだ頬、弱々しい呼吸。彼女の存在自体が、まるで解けない暗号のようだった。
(エリス、お前は何者だ?)
レオンは今一度、彼女について考えた。世界政府の極秘任務として護衛を命じられた少女。世間知らずで、どこか現実離れした好奇心を持つ。初めてのチョコレートに目を輝かせ、まるでこの世界の全てが新鮮であるかのように振る舞う。だが、彼女の過去、目的、なぜこの終末の週末に山奥に送り込まれたのか——レオンはほとんど何も知らない。
(俺は彼女のことを、どれだけ知っている?)
戦場では、知らなくても任務は遂行できた。敵を倒し、守るべき者を守る。それで十分だった。だが、エリスの繰り返す発作と、「寿命」という言葉は、彼の冷徹な理性を揺さぶっていた。
レオンは深く息を吐き、濡れたタオルを交換した。
(今できることをする。それだけだ。)
彼は自分にそう言い聞かせ、エリスの看病に戻った。小屋には、エリスの荒い呼吸と、暖炉の微かな音だけが響いていた。謎は解けぬまま、彼女の命を繋ぐために、彼はただ静かに動き続けた。




