1
この星はもうすぐ滅ぶ。
500年前、超大天才がそう計算した。変えようのない事実だ。人類は星を捨てる準備を進め、大半は既に新たな星へ旅立った。残された者たちも、最後の脱出を待つばかり。世界は静かに終わりを迎えている。
人里離れた山奥の小屋に、少年がいた。
レオン。感情のない少年。かつて世界最強のボディーガードであり、最恐の傭兵だった。戦場を渡り歩き、無数の命を奪い、守り、使い潰した彼の心は冷え切っている。口数は少なく、行動は常に理に適い、無駄がない。ロボットのようなその在り方は、戦場の名残だった。
今、彼は終わる世界と運命を共にするため、静かに日々を過ごしている。戦いのない穏やかな時間。それで十分だった。
だが、その静寂は破られた。
小屋の通信機が鋭い電子音を響かせる。レオンは無表情に画面を見つめた。発信元は世界政府。滅多に動かぬ組織からの直接連絡だ。
「レオン。とある人物の護衛依頼だ。詳細は暗号通信で送る。即座に対応しろ。」
簡潔なメッセージ。だが、その背後にはただならぬ気配があった。
レオンは目を閉じた。護衛依頼。この終末に、誰を、なぜ守る必要があるのか。
彼は通信機に手を伸ばし、断りの無線を入れようとした。戦場に戻るつもりはない。静かに世界の終わりを見届ける。それが彼の選んだ道だった。
だが、その瞬間、小屋の外で足音が響いた。
レオンは即座に身構え、音もなくナイフを握る。訪問者。この山奥に、誰が、なぜ。
扉が開き、黒服の男たちが現れた。その中心に、小柄な少女が立っていた。
白い肌、まるで人形のように完璧な顔立ち。エリス。見る者を魅了する美貌と、浮世離れした雰囲気を持つ少女。声は大人びているのに、辺りを見回す瞳は子どものような好奇心に満ちている。
「ここが……外の世界?」
彼女はレオンの小屋を見渡し、まるで初めて見るおもちゃに触れるように、木の壁に手を這わせた。
黒服の一人が進み出る。
「レオン。護衛対象、エリス。任務は無期限。失敗は許されない。」
レオンは無表情のまま、男を睨んだ。
「依頼は受けていない。」
黒服は冷たく笑った。
「これは命令だ。世界政府の決定に、拒否権はない。」
エリスはそんなやり取りをよそに、小屋の窓から外を覗き、遠くの山々に目を輝かせている。
レオンはナイフを握る手を緩め、感情のない目で少女を見た。
受けてもいない任務。だが、彼女の存在は、既に彼の静かな終末を乱していた。
レオンはナイフを握る手を緩め、感情のない目を黒服の男に向けた。
「もう一度言うぞ。依頼は受けていない。なぜここにいる?」
彼の声は低く、抑揚がない。だが、その言葉には鋭い刃のような冷たさが宿っていた。
黒服のリーダーは、まるで予測済みだったかのように薄く笑った。
「レオン。これは世界政府の命令だ。護衛対象はエリス。任務は無期限。詳細は必要ない。従え。」
レオンはエリスを一瞥もせず、黒服に視線を固定したまま言葉を続けた。
「世界が終わるこのタイミングで、護衛だと? なぜだ。この少女は何者だ?」
彼の質問は鋭く、核心を突くものだった。終末の週末に、なぜわざわざこんな山奥まで人を送り込み、護衛を強いるのか。エリスという少女の存在に、ただならぬ意味があるはずだ。
だが、黒服は答えない。無表情のまま、ただ「命令だ」と繰り返す。
「必要以上の情報はない。任務を遂行しろ。」
その時、エリスが突然動き出した。
彼女は黒服とレオンの緊迫したやり取りを無視するように、二人の間にふわりと割り込んだ。小屋の床を軽く踏みしめ、レオンの前に立つと、まるで古い物語の登場人物のような丁寧な仕草で自己紹介を始めた。
「私はエリス。はじめまして。こうやって人と会うのは、なんだか不思議な気分だ。」
彼女の声は落ち着いていて、どこか大人びている。だが、その言葉の端々に、世間知らずな純粋さが滲む。彼女はレオンの無愛想な表情を気にせず、にこりと微笑んだ。
レオンはエリスを見なかった。黒服への不満を抑えるように、わずかに眉を寄せる。
「答えろ。なぜこの少女を護衛する必要がある?」
だが、エリスはそんなレオンの態度を意に介さず、むしろ楽しげに彼を見つめた。
「ねえ、君は? 自己紹介してくれないの? 人と会ったら、名前を言うものだろう?」
彼女の言葉は、まるで教科書からそのまま抜き出したような、妙に形式ばった響きがあった。
レオンは一瞬、沈黙した。黒服の無言と、エリスのマイペースな態度に挟まれ、彼の冷徹な理性をわずかに揺さぶられた。
「……レオンだ。」
しぶしぶ、短く自己紹介を済ませる。感情のない声。必要最低限の言葉。
エリスは満足げに頷き、突然、小さな手を差し出した。
「自己紹介をしたら、握手をするんだろ? そう書いてあった。」
彼女の言葉は、まるで本や記録から学んだ知識をそのまま口にしているようだった。
レオンは一瞬、彼女の手を見つめた。
「変なヤツだ」と心の中で呟く。戦場で鍛えられた彼の感覚は、エリスの行動にどこか不自然なものを感じ取っていた。だが、彼女の無垢な瞳と差し出された手は、拒絶を許さない奇妙な力を持っていた。
「あっ、あぁ……」
レオンは無表情のまま、ぎこちなく手を差し出し、エリスの小さな手を握った。
その瞬間、エリスの手は意外なほど冷たく、しかし柔らかかった。
黒服たちは無言でその光景を見守る。
レオンの心には、ほんの一瞬、戦場では感じたことのない奇妙なざわめきが生まれた。
この少女は何者なのか。なぜ、終わる世界で、彼女を守る必要があるのか。
答えのない問いは、彼の冷えた心に小さな波紋を広げ始めた。
エリスの小さな手がレオンの手を離れると、小屋の中は再び静寂に包まれた。黒服のリーダーが一歩前に進み、冷たく事務的な声で告げる。
「必要な物資は連絡しろ。それだけだ。」
言葉を終えると、黒服たちは一言の余韻も残さず、まるで影のように小屋から消えた。扉が閉まり、山奥の風がわずかに木々を揺らす音だけが聞こえる。
レオンは閉じた扉を無表情に見つめた。
疑問が頭を埋め尽くす。なぜこの少女を護衛する必要があるのか。なぜ世界が終わるこのタイミングで。エリスとは何者なのか。黒服の無回答は、彼の冷徹な理性を苛立たせた。だが、選択肢はない。世界政府の「命令」は、拒否を許さない。
「護衛か……」
レオンは小さく吐息をつき、諦めにも似た覚悟を固めた。戦場を離れたはずの彼を、運命は再び引き戻したのだ。
視線を動かすと、エリスが小屋の中を興味津々に観察しているのが目に入った。暖炉の黒ずんだ石、積まれた薪、粗末な木の椅子。彼女の瞳は、まるで初めて世界を見た子どものように、ありふれたものすべてに輝きを宿している。暖炉の前にしゃがみ込み、薪の表面を指でなぞり、次には窓辺に移動して外の木立を眺める。そのマイペースな動きは、この緊迫した状況にまるでそぐわない。
レオンは彼女をじっと見つめ、感情のない声で質問を投げた。
「誰かに狙われているのか?」
エリスは振り返り、にこりと微笑む。
「いいや、誰にも狙われてはいないよ。」
その答えはあまりに軽やかで、まるで風に流される羽のようだった。
レオンの眉がわずかに動く。
「お前は何者だ?」
エリスは暖炉の前でくるりと一回転し、まるで舞台の上で演じるように両手を広げた。
「ただの小娘だよ。」
彼女の声は大人びているのに、どこか子供のような無垢さが混じる。
レオンは表情を変えず、畳み掛ける。
「なんでただの小娘を護衛するんだ?」
エリスは首を傾げ、まるで難しい問題を解くように少し考える素振りを見せた。
「さて? 政府が言ってるから仕方ないんじゃないか?」
その答えは、まるで他人事のようにふんわりとしていた。
レオンの声に、ほんのわずかな苛立ちが滲む。
「いつまで護衛すればいいんだ?」
エリスは窓辺に寄り、ガラス越しに山の稜線を眺めながら、軽く肩をすくめた。
「さあ? でもそんなに長くはないよ。」
彼女の言葉は、まるで霧のように掴みどころがない。
レオンは内心で舌打ちした。
(これなら戦場の方がマシだったかもしれない。)
戦場では敵が明確だった。だが、この少女の曖昧な答えと、黒服の沈黙は、彼の理に適った思考を揺さぶる。彼女の存在自体が、まるで解けない暗号のようだった。
その時、静寂を破るように、レオンの腹がぐぅと鳴った。
空腹の音。小屋での質素な生活では、食事の時間は規則正しく訪れる。彼は一瞬、わずかに目を細め、感情を押し殺したままエリスに視線を戻した。
「……まずは朝食にするか。お前も食べるか?」
エリスは窓から顔を上げ、まるで新しい冒険が始まるかのように目を輝かせた。
「いただこう。」
彼女は軽やかな足取りでテーブルに近づき、まるでこの小屋が自分の家であるかのように自然に腰を下ろした。
レオンは無言で台所に向かい、粗末な鍋と干し肉の入った罐を取り出した。
少女のふんわりとした態度と、終末の重苦しい空気。この奇妙な同居が、彼の静かな終末をさらに複雑にしていく予感があった。