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脳髄に潜む虫ケラについて

作者: 朝日 橋立

 ある日の昼下がり、西野(にしの) 弘樹(ひろき)は、虫の這う音を聞いた。

 弘樹は、彼の学校で机に向き合ったときに、不意に響いたその不愉快な足音に眉を潜めた。しかしながら、虫などというものは、何処にでもいるものである。彼は不快感を覚えながらも、大人しく机に向き合い続けた。


 虫のカサカサとかいう足音はよく響いた。一つめの音が鳴ると、次第に段々と大きくなっていく。そして、共鳴し、強調し、新たな音を呼ぶ。足音が大合唱に等しくなったところで、弘樹は耳を塞いだ。

 尚も虫の足音が響き、共鳴を続けていた。


 このままではいけない、足音の根源を絶つべきだろうと、弘樹は視線を動かす。今は授業中であり、顔を動かすという事や、体を動かす大捜索というのは出来ない話だった。

 視線を右に泳がせ、その先に虫がないことを認めると、また左に動かす。そして、その先でも虫の存在を認めず、また右に動かす。これを繰り返す内に、直にその足音は、消えて、弘樹はその音の事をすっかり忘れてしまった。


 さて、いつの間にか授業は終わり、休憩の時間が訪れた。

「ふう」だのと、弘樹が溜息をついていれば、声を掛けられる。

「お前、授業中キョロキョロしてたよな」

 その問いかけに、彼はこう答えた。

「何だっけか……。ああ、そうだ虫の足音がしたんだ。その足音が大きすぎて、集中できなかったんだ。だから、いっそのこと殺してやろうと思ったんだ」


 その答えを聞いた友は、キョトンとして言う。

「虫の足音なんてしたか? 俺は一度として聞いてないぞ」

「はあ、お前は何を言ってるんだ? 大きな虫の足音がしただろう。カサカサ、ガサガサとか。段々と大きくなって、終いには先生の声すら聞こえなかっただろ」


「いや、聞こえなかったさ」と、彼の友は言い、近くの学友にこう問いかける。「なあ、お前、さっきの授業中に虫の足音が聞こえたか?」

 そう問われた学友は言った。「いんや、聞いてない」


 その学友の言葉に、弘樹は酷い裏切りを感じた。きっと、皆が口裏を合わせ、私を騙そうとしている、という不愉快さ、それに顔をしかめる。

「何を言うんだ。俺には聞こえたぞ。大きな虫の足音が」と、弘樹は言い、その論争は次の授業が始まる直前まで続いた。


 しかし、その授業が終わる頃には、やはり皆その論争を忘れてしまって、ましてや虫の足音のことなど弘樹が覚えているはずがなかった。



 さて、それから幾許かの時を経て、弘樹は家で勉強をしていた。

 彼自身は勉強というものが嫌いな人間であった。しかし、彼は受験を来年に備えた高校生である。好き嫌いに関係なく、勉強が必要不可欠なのであった。


 東京大学の赤本を閉じ、小さく溜息をつく。

 元々彼はこの大学に行きたいなどとは、微塵も考えていなかった。

「嗚呼、このままで大丈夫なのかな」

 不安に耐えきれずに、弱音を吐く。月は曇っているのか未だ見えない。


 弘樹は目を瞑り、深呼吸をした。

 この先の展望を見つめ直そう、と考えたのだった。

 そうしていれば、不愉快な足音が聞こえてきた。


 カサカサ、と軽い昆虫の足音が部屋で響く。

 その音は今回は反響をすることなく、一定のリズムで、カサカサ、カサカサと鳴り続けるのである。

 次第にその音は、耳元に近寄ってくる。尚も一定のリズムである。


 彼は目を見開き、大声を上げ、音の方向へ乱雑に手を振り下ろす。

「嗚呼! 煩い! 一体何だ、殺してやる!」


 数分ほどしていれば、次第に彼の怒りも収まった。

 潰した虫ケラでも見てやろう、と彼は手を振り下ろした方を見る。

 するとそこには、くたばった虫ケラなどなかった。


 弘樹の思考に混乱を認めると、それを嘲笑するように耳元でまた虫ケラの足音がする。

 カサカサと一定のリズムは尚も変わらず、それすら彼を嗤っているように思えた。お前など取るに足らない、お前などどう足掻こうが触れることすら叶わない、と。


 彼はそれに怒りを覚えた。

 そうして、忌ま忌ましさのままに音の鳴る方向へ、手を振り続け、結果として虫を殺すことは叶わなかった。


 弘樹は、彼を嘲る虫に恐怖を抱いた。

 何時までもその姿を認めることは叶わず、かといって彼自身から離れることはないのである。

 その恐ろしさ、悍ましさに肌が粟立つ。


 吐き気を覚え始めたところで、扉が叩かれ、声が掛けられる。

「弘樹、煩いぞ」と、言うのは弘樹の父である。

 父は諫めるような口調で扉の奥から声を掛けたのである。


「ああ、父さん、ごめんなさい。でも、虫が居るんだ。大きな虫、貴方にも聞こえるだろう。カサカサ、ガサガサと喧しい音を立てる虫が」と、弘樹が言うと、父は尚も扉の先から言う。

「冗談を言うのもいい加減にして、勉強しろ」


 でも、と弘樹が反論をしようとすれば、溜息が聞こえた。

「大体、虫だとかそんなことはどうでも良いだろう。お前はいつもそうだ。遊びが何だとか、友達が何だとか、何時も煩い、喧しいことばかりを言う。よくよく考えろよ、お前の取り柄は勉強だけで、そもそもとしてそれ以外何にもいらないんだ。何時も言ってるだろ、お前は今は良い大学に行って、良い会社に勤めることだけを考えていれば良い」


「……うん、分かった、ごめんなさい。父さん」と、弘樹は謝罪を口にした。

 すると、足音が扉の先から遠ざかっていく。

 弘樹はまた勉強机に向き直り、また勉強を再開した。

 虫の足音は消え去り、窓の外では爛々と星々が煌めき、月は未だ雲に隠れていた。


 問題を解こうとし、しかしその解法が分からず、答えを見る。

 それでも解法は分からず、一つの問題に余計な時間を消費していく。

 弘樹の勉強というのは、ただこれの繰り返しであった。

 だが、このような勉強であろうとも、彼には必要であったのだろう。


 ふと、弘樹は小バエが机上に居ることに気付いた。

 そして、それを直ぐさまに叩き潰した。

 虫は忌々しいものである。


 さて、その虫を叩き殺した後、弘樹は不安に駆られた。

 この虫を本当に殺す事が出来たのだろうか。もしかしたら、この小バエも私が見た勘違いの一種で、本当は存在しないものではないのだろうか。だとしたら、私はこのような些事に、大切な時間を割いてしまったことになるのではないか。


 弘樹の心臓が早鐘を打ち、彼にその手を上げさせるかを迷わせた。

 次第に彼の脳裏にも不安が重なって、段々と腹へと落ちていく。

 その虫が這うような鈍重さの内に、カサカサと虫の甲殻が擦れる音を聞いた。

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