番外編 お蝶と弥助 6
少年弥助はたっぷりと水の入った桶をわきに抱えて、小屋の引き戸を開ける。木製の扉はがらりと音を立て、簡単に開いた。小屋は炊事場と土間が一緒になっており、居間に上がると囲炉裏がある。夕方になり小屋の中はすっかり薄暗くなっていた。
「弥助よ、ご苦労だったな」
弥助が凛輪の声がした方向を探すと、弥助に背を向ける格好で今で正座をしていた。弥助はなぜ師匠は明後日の方向を見ているのだろう、と疑問に思ったが、あえて聞かないことにした。師匠が考えていることは、到底自分では及びのつかぬほど崇高なことであろう。
「はい、師匠。これから夕飯の支度をします」
「川の水は冷たかったじゃろう、こっちで少し休め。今日は儂が夕飯を用意してやる」凛輪は弥助に向き直ってから手招きをした。
「それに、お主に頼みたいことがある」と彼は続けた。弥助は草履を土間で脱ぐと、囲炉裏の暖かい空気が両手を広げてふんわりと包み込むような心地よい感覚。冷たさに慣れた手足が喜んでいる。弥助は子どもっぽくはにかんだ顔で凛輪の與那領の座布団に座った。「うむ。よしよし」凛輪は弥助の頭を力強く撫でると、さらさらした長髪が揺れる。弥助は心地よさそうに目を細めて笑った。
「師匠、頼みとは?」
「うむ。儂に代わって導いてもらいたい迷い人がおる。悪い人間ではないようだが、逃げるように何も持たずに山に入ってきた娘だ」凛輪は眉間にしわを寄せて困ったように言葉を続けた。「何か事情を抱えているのは明白。お主にはそれを探ってもらいたい」囲炉裏に照らされた二人の影がゆらゆらと壁に伸びている。
「善処します。私は年が幼い故、警戒されにくいと思いますが聞き出せなかった場合は如何にすべきでしょう?」弥助は頷いた後、ゆっくり瞬きをしながら訪ねた。「お主はどうすべきだと思った?」凛輪はふふん、と鼻を鳴らして弥助に尋ねる。少しの沈黙が小屋を包み、ぱちぱちと囲炉裏の薪が小さくはぜる音が大きく聞こえた。
「迷い人の状況に応じ、必要な手助けをしたいと思いました」
「よかろう。儂は滅多なことでは人を助けない。だがお主は人間じゃ、人助けをする道理はあるじゃろう」凛輪は腕を組みながら続けた。「それにお主は欲が少ない分、余計な感情に振り回されずに動けるであろう」
「善処いたします」弥助は嫌味を言われたような気がしたが、余計なことは考えないことにして、元気に返事をした。次の瞬間、凛輪の背中の翼が一瞬のうちに大きくなり、弥助の身体をすっぽりと包み込んでしまった。「善は急げじゃ」暗闇の中凛輪の声が聞こえたかと思うと、弥助は大きな落ち葉の山の前に立っていた。弥助の顔を夕日がまぶしく照らしている。
弥助は辺りを見渡していると、落ち葉の山の中から「誰?誰かそこにいるのっ⁈」と若い女の声が聞こえ、弥助は肩をびくっと震わせた。「そういうあなたは、どこにいるんです?」と弥助が尋ねると、
バサッ!!と落ち葉の山の頭が吹き飛び、若い娘が勢いよく立ち上がる。
「うわっ!?びっくりした」弥助は後ろに後ずさりをした。
「ねぇぼうや、お家に泊めて!家事手伝いは、なんでもするから!」
弥助は夕日越しに娘の顔を見た。次の瞬間、弥助の胸は心地よく飛び跳ねるように脈を打った。
「あ…あの、えっと…」弥助は頭が回らず、目の前にいる年上の娘と視線を合わせているだけで心が高鳴った。そして、前に町ですれ違った美しい人だと気が付いた。
「あれ?貴方、軽業の弥助…くんだよね?」年上の美しい女性が笑顔を見せると、弥助は自分の顔が真っ赤になっているのが分かるほど、顔が暑くなった。そして、なぜ彼女は自分の名前を知っているのだろうかと疑問が出たが、口が思うように動かない。弥助はもじもじしながら頷くと、年上の娘は、弥助に両手を広げて飛びついて来た。その瞬間、弥助は胸が高鳴ると同時に心の氷が一気に溶けだしたような安心感に包まれた。
「うっ…う…ひくっ…」弥助は自分の内側からこみ上げる涙と嬉しさで身動きが取れず、その場に立っているだけで精一杯になっていた。
「良かった~町で君の姿が見なくなって心配してたんだ。それと私は蝶っていうんだ、よろしくね」
そう言ってお蝶は弥助の頭を優しく撫でた。
凛輪は近くの木に隠れて二人の会話を聞いていたが、弥助があんな風に嬉しそうに泣いていることに驚きと形容しがたい嬉しい感覚を胸で噛みしめていた。なんと、嬉しい気持ちであろうか。目的は全く果たされていないが、怪我の功名とはまさにこのことであると感慨深い気持ちになった。
しかし、この先どうしたものかと、凛輪は次第に頭を悩ませた始めた。
凛輪は意を決して弥助の前に姿を現して直接助言することに決めた。彼の姿と声はは並の人間に知覚することができないのだから。凛輪は風に乗って弥助の元に降り立ち、彼の泣き顔を見つめた。
「弥助よ…お主、ぐすっ…」彼は弥助に助言をしようと思っていたが言葉が出ない。
そして、お蝶と名乗っていた娘と視線がばっちりと合っていることに気が付いた。
「あなたは…誰ですか?」お蝶は怪訝な顔で凛輪に問いかけた。




