番外編 お蝶と弥助 5
「お蝶や、話があるから来なさい」お蝶の父はいつもより上ずった声をあげたが、屋敷の中から返事はなかった。お蝶の父親は女中を呼びつけ、お蝶を連れてくるように頼んだ。禿げ上がった達磨のような金貸しの男、権兵衛は着物の帯に刺した短刀を触りながら、年老いた女中の目をじっと睨みつけている。老女中はよそよそしく、会釈をしてお蝶を探しす為に客間から出て行った。
「少々お待ちください、権兵衛さん」お蝶の父、与一は口の端をぴくぴくと動かしながら不格好な笑みを浮かべた後、畳をのある点をぼーっと見つめていた。権兵衛は娘を売り渡した哀れな父親の姿をじっと眺めていた。金がなくなれば、俺もこうなるのだと自戒するように。
ある程度時間がたった時、老女中が息を切らして客間をの襖をあけて、会釈もそこそこに頭を床につけていった「お蝶様の姿がどこにもおりません」その言葉で客間は静まり返った。
「なんだと!ならば約束通りにこの屋敷をもらうぞ!」権兵衛は叫び声をあげ立ち上がると、ずいっと与一の胸倉を右手でつかみ、持ち上げて見せた。
「おい!与一、てめぇ、この落とし前はどうやってつけるつもりだ? あぁ?」権兵衛はゆさゆさと与七の頭を前後に揺さぶってから、畳に押し付けた。その時、与一の黒く開いた両目の瞳孔が権兵衛を見上げていた。その薄気味悪さに権兵衛は気おされ、与一の頭から手を離す。
「権兵衛さん、お蝶をどこへやったんですか?」
「俺はしらねぇよ、俺のせいにするんじゃねぇぞ、コラァ」権兵衛は肥えた顔に深いしわを寄せて、地響きのような声で与一を睨んだ。与一はじっと黒い目で権兵衛の目を覗き込むように見ていた。
「権兵衛さん、貴方は支払いの延期の条件にお蝶を寄越せと言いましたが、私が条件をのむことを見越して、あらかじめお蝶を攫っておき、用意ができない私を更に、吹っ掛けようとしていた…あなたはそう言われても仕方がありませんよね?」与一は表情を変えずに淡々と語った。
「”そう言われても仕方ない”とは、大きく出たな」
「あなたがお蝶を攫っていないことを証明できますか、という事です」
「貴様の疑念を晴らして見せよってことか…あっはっはっは!」権兵衛は大きくのけぞるように天井を仰ぎ大笑いをした。そのあと急に与一の腹部を蹴り上げた。与一は ひゅっ、と声をあげながら宙を舞う。
「こけにしおってからに、ひよっこ風情が!」権兵衛は与一に馬乗りとなり拳を何度も振り下ろした。その恐ろしい光景を見た老女中は悲鳴を上げて畳に顔を押し付けるように丸くなるほかなかった。権兵衛息を切らし始め、与一の顔中が腫れて赤く痣になりかけている。次の瞬間、与一は権兵衛の腰から短刀を抜きとり、分厚い脂肪に覆われた権兵衛の内腿をざくりと刺した。権兵衛の顔は苦痛の表情でうめき声をあげた。「ぐおおおおおおおっ貴様!ぶっ殺してやる」権兵衛は両手で与一の首に手をかけようとする間にも、別の内腿を短刀で刺されて後ろにばたりと倒れ込んでしまった。
与一は短刀を逆手に持って立ち上がると、権兵衛が血液を流しながら、四つん這いで逃げようとしている姿が見えた。「権兵衛さん、どこに行くんですか?これから一緒に検非違使に行きましょう」与一は老女中に縄を持ってくるように告げた。その声はいつもにも増して穏やかな声だった
お蝶は屋敷でおこったことを知る由もなく。
山道に足を踏み入れた。夕日が温かく彼女の背中を照らしていたが、山の寒さは増していった。やがて、紅葉の落ち葉が一面に降り積もった、開けた場所に迷い出た。生い茂る木々にの枝には細長い赤い果肉がたくさんぶら下がっていた。「あ、クコの実だ!」お蝶は着物を膝までまくり上げ、木に登ってみた。不思議なことに木の皮は柔らかいが滑りにくかった。お蝶が木にしがみ付くと、着物がさらにまくれ上がり、下に履いていた湯巻が露になっても彼女は気にも留めない。
お蝶は収穫したたくさんのクコの実を単衣の内側に入れ、するすると木を降りた。「さむ…ちょうどいいところ見つけて野宿…を」彼女は疲れた足に鞭を打って乾いた落ち葉をかき集め始めた。
背中に羽のある小さな老人、凛輪はお蝶の様子を遠くから眺めていた。
彼は変わった仙術を使う天狗であり、この山で居を構えていた。つい最近、弥助という変わった少年と一緒に暮らしていた。凛輪は山に遭難するものをそっと正しい登山道に導いたり、悪さをするものは逆に道に迷わせたり様々な方法で懲らしめているのだが、今回若い娘が何の荷物も持たずに山に入ってきたので
対応に困っていた。しかも、不可抗力とはいえ、彼女が木登りする場面をまじまじと観てしまい気持ちが動転していた。
「弥助です、ただいま戻りました」と少年の声が聞こえ、凛輪はビクッと背筋を伸ばして居住まいを正した。




