社交界デビュー
ツェルバトーン王国のデビュタントは例外なく王城で行われる。
その年に十七になる令嬢が王城での舞踏会に招かれ、王に挨拶を許される。
本来なら、謁見することの叶わない下位貴族も王に謁見することができるので、楽しみにしている令嬢の方が圧倒的に多い。
けれど、リディは早く終わって欲しいと思っていた。
緊張は特にしていない。
前世において嫌となるほど色々なことを経験済みで、どんなことが起こっても対処できる自信があった。
デビュタントのドレスは白色。それ以外は自由だ。
ユストファ家は特に裕福なわけでもないので、邸に眠っていた白いドレスを今風に縫い直して着ている。
父は新しく用意しようかと言ってくれたが、リディはいいと言った。
これから社交界で伴侶を探すのなら、美しいドレスに着飾った方がいいのかもしれないが、リディにはそんな気はさらさらなかった。
社交界デビューを終えれば、もう王都には来ないつもりだった。特に親しい友人がいるわけでもないので、リディが王都に住む誰かの舞踏会や夜会に招待されるということもないだろう。
早々に王への挨拶を終えて、社交界デビューしてから初めてのダンスを父と踊った。
父はダンスが下手だった。なので、それとなくリディが助ける。
「リディはダンスが上手いねえ。練習してるところを見たことないけど」
ダンス終わり、父にそう言われ、どきりとした。
「センスじゃない?」
なんて適当なことを言った。
本当は前世で踊りなれていたから。出席するたび、嫌というほど踊らされた。
そういえば、あの人とは結局一度も踊らなかった。本当に望んでいたことはそのほとんどが叶わなかった。
「そうか。けど、最初のダンス、本当に私で良かったのかい?」
令嬢によっては憧れの令息に相手を務めてもらうこともあるようだ。
けれど、リディにはそんな相手はいないし、相手が父であろうと、特に何か言われるわけではないので別に良かった。
「うん。今まで育ててくれた父さんに相手して欲しかったから」
そう言えば、父は瞳を潤ませた。
「もう。ここで泣かないでよ」
「泣くわけないだろう。んん。リディはこの後どうするんだい?」
話を逸らすように父が聞いてきた。
「私はあそこに行こうかな」
指を指したのは軽食が置かれている一画。
この舞踏会に出席する唯一の楽しみは王城で出される美味しい軽食を食べることだった。
厳しい食事制限をなされていた王女時代も舞踏会や夜会に参加するたびに、父に見つからないように食べる軽食が一番好きだった。
見つからないように食べなければならなかったから、そこまで多くのものは食べられなかったけれど、そのどれもが美味しかった記憶がある。
「そうかい。じゃあ、私は知り合いに挨拶してくるよ。私の挨拶が終わったら帰ろうか」
「うん、分かった」
父とはそれで別れた。
リディと同じデビュタントのドレスを着ている令嬢はその誰もが父親や知り合いの令息と話していた。
リディには、そんな令息はいないので一人だ。
特に寂しいとは思わない。前世からそうだった。
軽食の置かれている一画には誰もいなかった。
皆結婚相手を探すのに必死で、軽食を食べている場合ではないのだろう。
でもリディは結婚相手を探すつもりはなかったので、いくらでもここにいられる。
今世ではリディは結婚するつもりはなかった。
父にもそう言っている。
父はそうか、とたった一言だけ言って、特に怒られるようなことはなかった。
下位貴族とはいえ、子どもはリディだけなのに。リディが結婚しなければ、家は取り潰されてしまうのに。自分から言ったくせに父にそう言えば。
『リディの嫌がることを強要してまで家を存続させたいとは思わないよ。母さんもそう思ってるよ』
なんてことを言われた。ああ、自分はなんて愛されているのだろうと思った。
けれど、その愛をリディは返せない。
本当は両親がリディの子どもを望んでいることを知っている。
でもその想いを閉じ込めてまでリディの意思を尊重してくれている。
できればその想いを叶えてあげたいと思う。けれど。それはできない。リディが愛するのはあの人だけだから。
一人寂しく死ぬはずだった自分に愛というものを教えてくれたあの人以上に好きになれる人はいない。
それにーー。人を愛することを教えてくれたあの人にリディは一生消えない傷を負わせてしまった咎がある。それを忘れて他の人を愛することはできない。
三大悪女と揶揄されているリリアーナの肖像画は残っているのに、ユリウスの肖像画は残っていない。だから、あの人の顔はリディの記憶の中でしか存在していない。
他の人を愛することでそれが消えるのが嫌だった。誰か別に人を愛したところで、あの人の記憶は無くならないことは分かっていても。いつだって、あの人が向けてくれた優しい表情を一番に思い出したかった。
場違いにも流れ出そうになる涙を懸命に抑えて、リディはそこに置かれていたハムとレタスのサンドイッチを手に取る。
王城の料理は昔と変わらず、美味しい。
もうここに来ることはないだろうから、存分に味わおう。
どうせほとんどの貴族がこれらの軽食を口にすることはないのだから。
そう思って次々と軽食を口に入れていると、不意に視線を感じた。
視線を感じた場所に目を移すと、真っ直ぐにこちらを射抜く紺青色の瞳と目が合った。
その瞳の色にリディの心臓が早鐘を打つ。あの人と同じ瞳の色。しかも、髪もあの人よりも濃いけれど、同じ銀髪。
その瞳の持ち主はリディと目が合うと、とても自然に目線を外し、群衆の中へ消えてしまった。
視線の持ち主が消えた後もリディの心臓は早鐘を打っていた。
そんなわけない。
あの人は生涯独身を貫いた。だから、あの人の子孫がいるわけがない。なのに、さっきの人物はあの人にとても似ていた。
誰なのだろう。リディはずっと領地の方にいて、王都の貴族に詳しくない。だから、誰だか分からなかった。
心臓の動悸が治らない。
それほどまでにあの人に恋焦がれていたというの?
ーーそれは否定しない。
事あるごとにあの人の記憶を思い出していた。
あの人と共に見た景色。あの人と共に食べた料理。あの人が話してくれたこと。
似たようなことがあるたびに思い出した。ついには夢にまで見た。
辛かった出来事を夢見ることもあったけれど、あの人が現れるだけで、そんなもの忘れられた。
でもこの世界にはもうあの人はいない。もう、会うことはできない。
それだけで心が潰されそうだった。どれだけ、リリアーナはあの人のことが好きだったのだろう。
「リディ」
その声と共に肩に手を置かれる。
突然のことだったので、リディは大袈裟に肩を震わせる。
見れば、父が立っていた。
「ごめん。そんなに驚いたか?」
リディの反応を見て、父はそう尋ねる。
「え、あ、うん。ちょっと考えごとしてたから」
心臓が止まるかと思った。
まさか、さっきの、ユリウス様に似ている人が?そう思った。父だったけれど。
「知り合いには挨拶を終えたから帰ろうと思ってるんだけど、本当にリディも帰るのかい?」
その言葉にリディは頷いた。
あの人にそっくりな人が誰なのか気になったけれど、父もそこまで顔は広くないのできっと知らないだろう。
それにどれだけ外見が似ていようが中身はあの人ではない。
そこまで拘泥する理由にはならない、とリディは未練を断ち切った。