逝者は語る2
* * *
「おはよう真夏ちゃん」
昼頃に起床した結が着替えてからリビングに足を向けると、真夏が「おはようございます結さん」と愛らしい笑顔であいさつを返す。史の姿はなかった。
「史さんは外出中ですか?」
「はい。ここ数日は結さんのことがあったので家にいらっしゃいましたが、史さんは元々お忙しい方で家を空けられることが多いんです」
「そうなんだ。なんの仕事をしてるんだろう」
「私も詳しくは知らないんです。気にはなるんですけど、史さんはご自分のことをほとんど語られないのでどうにも聞きにくくて」
「史さんって外見も相まって、どことなく浮世離れしてるよね」
真夏が作ったという昼食を二人で食べていると、雑談の延長でこのあと出かけようという流れになった。
「結さんはどこか行きたい場所とかありますか?」
「うーん、すぐには思いつかないな。真夏ちゃんのおすすめの場所があればそこに行こう」
「では時計塔の近くにあるお花畑なんてどうですか? 色々なお花が咲いていて、すっごく綺麗なんです!」
「いいね。そこに行こうか」
とんとん拍子で話は進み、食器を洗い終えたのちに二人は早速家をでた。以前戒慎と時計塔を目指していた時は吊り橋を渡ってまっすぐ進んだが、先を歩く真夏は右に曲がった。そのまま谷沿いに歩くこと数分。「ここです」という真夏の声に結が歩みを止めると、見渡す限り一面の花畑が広がっていた。
「すごい。こんなにたくさんの花、一体誰が埋めたんだろう」
「不思議ですよね」
赤、青、橙、紫などの目に鮮やかな花々は、風が吹くたびに甘い香りを運んでくる。結と真夏が花の咲いていない場所に腰を下ろすと、落ち葉の匂いを含んだ風が真夏の腰まで伸びたピンクがかった癖のない髪と戯れた。
「結さん、先日私に兄がいるとお話ししたのは覚えていますか?」
「うん。双子のお兄さんなんだよね。あの時はごめんね。まさか善人だとは思わなくて踏み込んだことを聞いちゃって」
「いえ、聞かれて困ることでもありませんから。昔は仲良しだったんですよ。でもある時から急に素っ気なくなって、顔を合わせれば喧嘩をするようになりました。理由を聞いても答えてはくれず、和解できないままある日の朝、突然両親に「あなたは今日から彼岸町で暮らすのよ」と告げられたんです」
「今日からって、悪人になる話はもっと前から決まってたはずだよね。諸々の手続きもあるだろうし」
「事前に教えると逃亡を図る危険性があるので、当日の出発直前に話すのが決まりなんだそうです」
「当事者の気持ちはなにも考慮してくれないんだね」
「はい。家をでると啓治さんが待っていました。啓治さんは遠縁の親戚なので、幼い頃から親交があるんです。いつもはふざけている方ですが、あの日は一度も笑わずに淡々と私を彼岸町まで乗せていってくれました。別れ際にみた泣きそうな顔は、今でも忘れられません」
近くに咲いていた秋桜に手を伸ばしそっと花びらを撫でる真夏。兄との仲違いや悪人になった日のことは真夏にとって良い思い出とは言い難いだろう。しかし淡い微笑みとともに薄く細められた真夏の目は、ひたすらにもう戻れない遠い昔を懐かんでいた。その瞳を見て結は気付いた。真夏にとっては兄とのすれ違いも悪人になったことも、悪い思い出ではないのだということに。
「もし過去に戻れるとしたら、真夏ちゃんはどうする?」
「ここへは両親に売られてきたも同然なので、悲しくないといえば嘘になります。でも啓治さんが史さんと引き会わせてくれたおかげで私はここでたくさんの方に出会い、良くして頂きました。なので私はもし過去に戻れたとしても、同じように悪人になることを選びます」
「そっか。大人だね、真夏ちゃんは」
「そんなことありませんよ。ここへきたばかりの時は泣いてばかりいましたから。私が立ち直れたのは戒慎さんに史さん、夜さんとたまに顔をみにきてくれる啓治さんのおかげです」
そこでそろそろ帰ろうかということになり立ち上がったところで、結は花畑の奥の方に地面から伸びる白い石のようなものを見つけた。
「真夏ちゃん、あそこになにか見えない? 白い石みたいな」
「どこですか?」
「奥の方の、ほらあの大きな木の近く」
「本当ですね。ここには今まで何度もきましたが、全然気付きませんでした。近付いてみましょうか?」
「そうだね」
緑の葉を茂らせた大きな木の根元に行こうと歩きだした刹那、二人の耳が人工的な機械音声を拾い上げた。
『心肺が停止しています。救命措置を行って下さい。心肺が……』
「これ、善人がつけてるインカムの救難信号です!」
「じゃあ近くに助けを求めている善人がいるってこと?」
結が音の出所を探るべく首を回すと、吊り橋の上で倒れている男がいた。二人は吊り橋からは少し離れたところにいるが、この距離からでも男の着ている白いYシャツの首元がぐっしょりと血に濡れているのが分かる。結は咄嗟に真夏の両目を手で覆い、華奢な体を後ろから抱きしめた。腕の中で真夏が不思議そうな声で結を呼ぶ。「人が死んでる」と告げると、真夏が静かに息を呑んだ。
「とりあえず、誰かに連絡を」
誰かと呟いた時、結の頭に『なにかあったら連絡して』と書かれた二つ折りの紙が浮かんだ。真夏を自分の足の間に座らせてから、結は史に買ってもらった二つ折りの携帯電話にあの時覚えた番号を打ち込んだ。幸いというべきか、電話はすぐに繋がった。
『もしもし』
「あのっ! 新他結です」
結が名乗ると、啓治がワントーン明るい声で『ああ、結ちゃんか! どうしたの? なにかあった?』と優しい声で尋ねてくる。結は小さく震えている真夏を落ち着かせるようにその小さな手を握りながら、今置かれた状況を簡潔に伝えた。
「彼岸町の吊り橋の上で、男性が血を流して倒れています」
『分かった、すぐに向かう。倒れてる人は耳にインカムをしてたりしない? インカムが青く光ってればまだ生きてるってことなんだけど』
「インカムをつけています。真夏ちゃんの話では、インカムが救難信号をだしているそうです」
『分かった。結ちゃんが今いる場所を教えてくれるかな?』
「僕は真夏ちゃんと吊り橋を渡って右に曲がったところにある花畑にいます」
『周囲に不審なやつはいない?』
「いません。僕たち以外は誰も」
『分かった。俺が着くまで、電話は切らずにこのまま繋げておいて』
「はい」
啓治が二人の元に駆け付けたのは、それからおよそ三十分後のこと。吊り橋で倒れている男を一緒にきた白衣の男と二人で車に運んだのち、啓治は地面に座り込む二人の前にしゃがんだ。
「遅くなってごめんね。もう大丈夫だよ。帰ろう。家まで送っていくよ」
啓治が乗ってきた車の助手席には、見知らぬ白衣の男がいた。白衣の男はアイマスクをつけた状態で座席に深く座っている。恐らく眠っているのだろう。
「トランクに吊り橋で倒れてた人が乗ってるけど、気にしないでね」
それは無理な話なのではと結と真夏は思ったが、口にはしなかった。殺人事件の現場に居合わせたことは二人にとってかなり衝撃的であったため、啓治の軽口に突っ込みを入れる余裕も元気も残ってはいなかった。
啓治は詳しい事情は明日聞くといって二人を史の家の前で下ろすと、白衣の男とともに慌ただしく帰って行った。史はその日、家に帰ってこなかった。
憔悴しきった結と真夏は、テレビをつけたままソファーで身を寄せ合っている内にいつの間にか眠りについていた。