逝者は語る1
* * *
「総理、悪人への善人殺しの調査依頼は無事完了いたしました」
「おお、そうか。自警団の腕を信じていないわけではないんだよ。境くんはこれまで何度も力になってくれたからね。ただ彼はどうも悪人に肩入れしすぎる節があるだろう?」
「ええ、そうですね。境は私が調査を依頼した悪人と共同で調べを進めるそうです」
「悪人と共同で、か。思うところがないわけではないが、私としては善人殺しが捕まりさえすればなんでも良い。頑張ってくれと伝えておいてくれたまえ」
「かしこまりました」
そこで手に持っていた判子を机に置いた貴海は、背もたれに体重を預けてぐっと背中を伸ばした。長時間同じ姿勢で作業をしていたため、背中や肩に疲労が溜まっている。肩を数回まわせば、積み重なった疲労は幾分か楽になった。
「私にはね、三人の子どもがいるんだ。上二人は期待通り健やかに育ってくれたが、一番下がどうにも不出来でね。ふらっといなくなっては数日帰ってこないこともある。それにあの子は境くんと同じようにやたら害虫どもの肩を持つんだ。私が育て方を間違えたのだろうか」
詩島がどう返すべきか逡巡していると、扉が外側から二回叩かれる。貴海が「なんだ」と声を上げると、「あたしよ」という声がする。扉の向こうから現れたのは、いかにも高そうな凝ったデザインのワンピースを身にまとった一人の若い女性。
「パパ、今朝お弁当忘れてったでしょー」
女性が手に持った紙袋を目の高さまで持ち上げると、貴海は机の上にある黒い革製の鞄を漁ったのちに「ああ、今朝は急いでいたから忘れたようだ。手間をかけたな夢、助かったよ」と表情を緩める。「気をつけてよねー」と紙袋を手渡した夢は、貴海の傍に立っている詩島に気付くと頬にかかった明るい栗色の髪を耳にかけた。
「こんにちは詩島さん! いつもパパを助けてくれてありがとうございます」
「こんにちは夢さん。今日も素敵なお召し物ですね」
「分かる? これ、ちょっと前にパパに買ってもらったんだぁ」
詩島の知る貴海夢という女性は、身だしなみに余念のない人物だ。いつ見ても夢の外見は隙一つなく完璧に着飾られている。けれど詩島は彼女を美しいと思ったことはない。そう思う日はこれから先も永遠にこないだろう。
「ねえ詩島さん。友達に遊園地のチケット二枚もらったんだけど、一緒に行かない?」
父親の職場に乗り込んできた挙句、仕事中の部下を遊びに誘うなど本来非常識極まりない行為だ。しかし貴海は夢を溺愛しているため、叱ったり止めに入ることはない。夢がなにかと理由をつけて詩島を誘うのはこれが初めてではなく、今やここへ来る度に誘いを持ちかけるのがお約束となりつつある。貴海への用事はあくまでついでであり、本来の目的は詩島と休日に会う約束を取り付けることではないかと詩島は思っている。その予想は当たっており、現に今朝も夢は出かける直前の貴海を捕まえて意図的に長話をした。おかげで貴海は家をでるのが遅くなり、慌てた結果弁当を忘れた、否、忘れるよう仕向けられたのであった。夢に外出に誘われた際、詩島の返す答えはいつも決まっている。
「申し訳ありません。普段あまり家に帰れない分、休日は家族と過ごしたいんです」
「もー、またそれぇ? 一回くらいいいじゃん。半日だけでもいいから。ね? お願い!」
詩島が言葉なく微笑むと、それが拒絶の証であると経験上知っている夢は、下唇を少し尖らせながらも今回は諦めた。あまりしつこく食い下がって嫌われては本末転倒だからである。
「……分かった。じゃあ次は行こうね! あっあたしこのあと用事があるんだった。パパ、詩島さん。午後もお仕事頑張ってね!」
夢がいなくなると、部屋は元の平穏をとり戻した。
「いつも娘が騒がしくしてすまないね。話は変わるが、詩島くんは確か独身だったね。今は交際相手はいるのか?」
「いいえ。家族の面倒をみるのに手一杯で、色恋ごとに現を抜かす暇もありません」
「はっはっは、そんなことはないだろう。君はまだ若い。それに私の秘書を一人で務めあげるくらい優秀だ。さぞ持て囃されているんじゃないか?」
「とんでもございません。私は元来つまらない男ですから」
「そう謙遜するな。特定の相手がいないのなら、夢はどうだ? 一度くらい食事に行ってみるのもありだと思うんだが」
「私などには到底釣り合いません。分不相応です」
詩島が遠回しに断ると、貴海は「そうか」とやや残念そうな顔をしながらもそれ以上食い下がってはこなかった。
「総理、会食の時間が迫っております」
スケジュール帳を開きながら詩島が次の予定を告げると、貴海は「もうそんな時間か」と手首にはめられた純金の腕時計で時間を確認する。
「君は私の秘書になった時からずっと紙のスケジュール帳を使っているね。端末に替えないのか? 慣れれば紙よりも遥かに楽だぞ」
「私は古くて不便なものが好きなんです。それに機械はなにかの拍子にデータが全て飛ぶ可能性があるでしょう? それが恐ろしいんです」
「詩島くんは変なところで慎重だな」
首相官邸に迎えにきた総理大臣専属の運転手が運転する高級外車が、夜の此岸町を滑るように走り抜ける。スピーカーから流れてくるアンニュイな曲は、詩島の憂鬱な心境を代弁しているようだった。
これから出席する会食は、月に数回の頻度で開かれる。出席者は貴海を始めとする国の重鎮たち。しかし高級料理を食べながら交わされるのは政治の話などではなく、なんということはない雑談や悪人に対する不平や不満、口汚い雑言ばかり。国の上層部がこの有様では、この国に未来はない。会食を目にすれば誰もがそう思うことだろう。
今日も今日とて金と時間の無駄でしかない会食に出席しながら、詩島は脂っこいばかりで大して美味しくもない料理をワインでどうにか流し込む。詩島の近くでは、彼の長男である貴海空が上機嫌に大口を開けて笑っている。詩島の主観では、空は夢以上に頭の悪い人物であった。
「父さん、そういえばA地区で面白い店を見つけたんだよ。友達がやってるカジノなんだけどさ、すげーあたるんだ」
「ほう。なんていうところだ?」
会食の出席者たちは死ぬまでに使いきれないほどの金を抱え込んでいる。それゆえ少しくらいギャンブルに負けたところで痛くも痒くもないため、娯楽や息抜きと称してカジノに通う者は多かった。朝から晩まで身を粉にして働いた金が賭け事に使われていると知ったら、悪人たちはどう思うだろうかと詩島は想像してみる。すると危うく笑いそうになったため、近くにあった揚げ物を口に入れることで誤魔化した。
せいぜい今の内にあらゆる幸福を享受しておけばいい、と詩島は思う。遠くない未来で、彼らは当たり前のように貪っている金や贅沢、権力を一つ残らず剥ぎ取られることになるのだから。
「詩島くん、今日は随分と機嫌が良さそうだね。なにか良いことでもあったのかな?」
「いえ。ただ少し、この国の将来が楽しみだなと思っただけです」
「そうだな。我が国は貴海総理主導の下、ますます発展していくことだろう」
おめでたい幻想を抱く官僚に、詩島は「そうですね」と相槌を打ちながら空になった彼のグラスにビールを注ぐ。このビール一本のために悪人たちがどれだけ苦労しているかも、炭酸飲料が向こうでは滅多にお目にかかれない贅沢品であることも、ここにいる官僚たちは知る由もない。
「いやはや、悪人ときたら本当に哀れな生き物ですな」
本当に哀れなのは誰なのか、今に嫌というほど思い知ることだろう。
哀れな官僚たちによる中身のない空っぽな会食は、夜更けまで続くのだった。