狂った世界6
あまり不躾に眺めては調べものの邪魔になるかと思い夜から視線を外した結は、何気なく全員を見渡してふとある共通点に気がついた。
「みんなお揃いの腕輪をしているんですね。ここの制服みたいなものですか?」
手首に違和感なく馴染んでいたせいで気付かなかったが、視線を落とせば結の手首にも皆と同じ銀色の腕輪がはめられている。結の質問に答えたのは、この中で唯一腕輪をしていない啓治だった。
「銀の腕輪は悪人の証なんだよ、結ちゃん」
「え、そうなんですか?」
「うん。さてここで問題! ボクが腕輪をしていないのはなぜでショウか?」
「えーっと……お揃いが気恥ずかしかったから、とか?」
「甘酸っぱくて良い! けどハズレ。考えてみて。腕輪をしてれば悪人、ということは善人は?」
「……あっ、腕輪をしてない?」
「大正解! つまりボクは此岸町からきた善人なんだよ」
「…………なるほど?」
「結ちゃん、本当に分かってる?」
「なんとか。というか、双方の町って行き来できるんですね。分断されてるのかと思ってました」
そこで結は少し前に屋台通りで聞いた史の話を思いだした。
『善人がどういう者たちなのかについての答えは、一概にはいえないというのが正直なところだ。向こうへ行ってその目で見るのが一番早いが、ほとんどの善人は悪人を嫌っている。よって此岸町へは近付かない方が身のためだよ』
あの時はそこで家に着いたことで話が打ち切られたが、よく考えれば史も町を行き来できるようなことはいっていた。けれど啓治のように向こうからこちらへくる人物はいても、逆はないだろうと結は思う。国を挙げて迫害されているに等しい悪人が現れれば、善人たちがどういう行動を取るかは容易に想像できる。けれど啓治が善人であると知ったことで、結の中で固まりつつあった善人に対する認識は良い方へと覆った。同時に結は、少し前まで自分が善悪法を発布した総理大臣が犯罪者の親戚をまとめて悪人にしたように、善人を一括りにして考えていたことを反省した。善人の中には啓治のように悪人を差別しない者もいる。もしかしたら啓治のような善人が他にもいるのかもしれない。その可能性は、悪人ばかりが損をするこの国において一筋の光明になりえる気がした。
「そういえば真夏ちゃん、お兄さんがいるの?」
結が少し前の話をむし返すと、リビングが束の間の沈黙に包まれた。その沈黙を振り払うように、真夏は「はい。そうなんです」といつもよりワントーン明るい声で肯定した。
「双子の兄がいます。此岸町に」
「え、ってことはお兄さんはもしかして善人?」
「はい。家族もみんな善人です」
「えーっと、どういうこと?」
結は混乱した。戒慎の話では、当時犯罪者だった者の親戚はみな悪人になった。つまり悪人は家族単位ということになる。けれど真夏は家族の中でただ一人、悪人としてこの彼岸町で暮らしている。頭上で疑問符を飛ばしている結に声をかけたのは、足を組み替えた啓治だった。
「善人が悪人になることもあるんだよ。向こうでなにか悪事を働いたら、見つかり次第その場で悪人になって彼岸町に移送される。あとは家族に売られて悪人になるやつもいる。真夏ちゃんもそう」
そこで結は、屋台通りで史から聞いた話を思いだした。
『ちなみに善人が悪人になるケースはあっても、逆はない』
あの時は特に気にならなかったが、史のいう善人が悪人になるケースがこんなにも身近で起こっていたことに、結は驚きを隠せなかった。
「親に売られて、ですか?」
「そう。子どもを一人彼岸町に売ると、親に百万円が支給される。生活に困ったり金欲しさに子どもを悪人にする親は少なくない」
「そんな……。なんでそんな仕組みがあるんですか?」
「善人たちが良い暮らしをできるのは、悪人たちが高い税金を払ってるからなんだ。ちなみに善人の税率が一割なのに対し、悪人は八割。善人からすると、たかーい税金を納めてくれる悪人が減ると贅沢できなくなるから困るってわけ。だから政府は子どもを悪人にしたら親に百万円が支給されるなんていうトチ狂った決まりを作った。親は金がもらえて、政府は金ヅルを確保できる。需要と供給の一致だね」
「ひどい……。同じ人間の所業とは到底思えません」
「この国の中枢は腐りきってるからねえ。」
重くなりかけた空気は、夜の「終わったよ」の一声で塗り替えられた。
「おっ、どうでしたか大先生」
「なにもでてこなかったよ。俺がちょっと調べて真相が分かるなら、善人殺しはとっくに見つかってる」
「そうなんだよネー」
情報収集に長けた夜が調べてもなにもでてこなかったとなると、善人殺しの捜索は難航しそうだ。結はなにかてがかりはないかと思い、テーブルの隅にあったリモコンを分厚いブラウン管に向けた。ビッという音を立ててついた画面の中では、一人の眉間に皺のある中年男性がマイクに向かって話していた。
「悪人たちが我々に与える悪影響は、今や無視できないほど強大になりつつあります。現在世間を恐怖の渦に陥れている善人殺しは、彼らが私たち善人に牙を剥いたことの証明であるといえるでしょう」
男性の下には貴海私音首相という字幕がでている。結が政治に関する意見を述べる貴海の声に耳を傾けていると、耳の奥でキーンという甲高い音が鳴り始める。その耳障りな高音はどんどん大きくなってゆき、頭を締め付けるような頭痛を引き連れてくる。と、不意に脳内でパチンと記憶が弾ける音がした。
『お前は本当にどうしようもない愚図だな。末っ子だからと甘やかしすぎたのがいけなかったのか?』
結を真っ向から否定する厳しい声は、話の内容からして結の父親のものだろう。まだなにか思いだせそうな気がしたが、それを阻むように頭痛が強くなり始める。たまらずこめかみを右手で押さえると、「結さん、どうかされましたか?」と真夏が結を気遣う声がする。結は大丈夫だと伝えるために片手を上げようとしたが、代わりに唇の隙間から漏れでたのは小さなうめき声だった。
「史さん、結さんの様子が!」
「すぐに戒を呼ぼう。真夏、結を横にしてあげてくれないか」
「分かりました」
それから十分も経たぬ内に戒慎が駆けつけた。診断結果は「突然記憶を思いだしたことによる反動」というものだった。
「今は眠ってるけど、今日はゆっくり休ませた方がいいね。啓、結ちゃんにちょっかいだしたらダメだよ」
「なんで俺がちょっかいだすこと前提なのさ」
「だってほら、啓は結みたいな子が好きでしょ? 昔から好きな子にはちょっかいをださずにはいられない性分だもんね。もしかして、もう結ちゃんになにかしたりしたのかな? 手癖も足癖も悪いもんね、啓は」
「出会って早々に結ちゃんの耳元でいやらしいこと囁いてましたー」
「結さん、とても怖がっていました」
夜と真夏がやや事実を捻じ曲げて説明すると、戒慎が啓治に菩薩のような笑みを向けた。
「啓、詳しく聞かせてくれるかな」
「ちょっ待って! いやらしいは誤解だよ!」
「言い訳は懺悔室でゆっくり聞いてあげる」
「懺悔室行きは確定なの!?」
いつものように戯れ合っていた戒慎と啓治は、「ううん……」と結が声を上げたことで閉口した。
「結さん、ご気分はどうですか?」
結に膝を貸している真夏が優しく声をかけると、結は現状が飲み込めず「えっと、僕はなんで真夏ちゃんの膝に?」と声に困惑をにじませる。戒慎は結が横になっているソファーの前にそっと膝を着いた。
「急に記憶を思いだした反動で気を失ったんだよ。どこか痛いところはない?」
「大丈夫です。ご迷惑をおかけしてすみません」
「迷惑なんかじゃないよ。だからそんな顔しないで」
戒慎が結を安心させるように微笑むと、結は「ありがとうございます」と小さく微笑んだ。
「今日のところはこれで解散としよう。啓、なにか進展があったら適宜共有してくれ。こちらも収穫があったらその都度報告する」
「よろしく。じゃあボクはこの辺でお暇します」
史が解散を告げたことで啓治がソファーから腰を上げた時、真夏が「啓治さん」と躊躇いがちに口を開いた。
「あの、兄は……良椰は元気にしていますか?」
「うん、元気だよ。これからなにかと顔を合わせる機会が増えるだろうけど、あいつの憎まれ口は癖みたいなものだから許してやって」
「もちろんです。それに、血を分けた兄のことを嫌いになんてなれません」
「大人だねえ、真夏ちゃん。良椰に爪の垢を煎じて飲ませてあげたいわ」
頭上で交わされるやり取りを耳に入れながら、結は少し前に記憶の底から掘り返された台詞を再度思いだす。
『お前は本当にどうしようもない愚図だな。末っ子だからと甘やかしすぎたのがいけなかったのか?』
かつての結は父親に非難されるような人物で、親子の仲は良好とはいえないものだった。実の父親から愚図呼ばわりされるほどに。けれど不思議と心は痛まない。もしかしたらああいう言葉を投げかけられるのは珍しいことではなかったのかもしれない。
「それじゃあまたね結ちゃん。お大事に」
「はい。ありがとうございます」
その日の夜。結が寝巻に着替えるべくズボンを下ろした時、カサリという乾いた音をたててなにかが床に落ちた。二つ折りの小さな紙を拾い上げて開いてみると、そこには啓治の名前と連絡先が書いてあった。「なにかあったら連絡して」という一言が添えられている。恐らく握手をした際に結のポケットに忍ばせたのだろう。
「抜け目のない人だな」
結はそのメモを机の引き出しに入れてからベッドに横になった。目を閉じれば、啓治の顔と声が鮮明によみがえってくる。その日夢の中に啓治がでてきたが、朝目覚めた時にはすっかりその内容を忘れていた。