狂った世界2
仕事帰りに帰路を歩いていた此岸町の住人である男は、ふと鼻についた異臭の出所が気になり首を巡らせた。しかし見える範囲に異常はない。ならばこっちかと路地裏をのぞき込んだ男は、赤く染まったコンクリートを見て悲鳴を上げた。血溜まりの中心で絶命している男の手首に悪人の証である銀の腕輪はない。つまり善人だ。男の頭に、ここ最近此岸町を騒がせている「善人殺し」という言葉が浮かぶ。ただの都市伝説だと笑っていたが、あれは嘘ではなかったのだ。
「うわぁああああっ!!」
善人の命と安全が脅かされるという有り得ない事態に直面した男は、震える足でその場から駆けだした。もつれる足で懸命に家を目指しつつ、男は耳につけた骨伝導式のインカムでこの町の警備を担当する自警団へと電話をかけた。
「はーい、こちら自警団です」
「ティ、T地区でぜぜぜ、善人が死んでて、それで……!」
「やれやれ、またか。詳しい場所を教えてくれる?」
男からの通報を受けた自警団の長である境啓治は、通話を切り薄手のコートを羽織る。するとソファーでゲームをしていた居候がついと顔を上げた。
「どこ行くんだ?」
「T地区でまた善人殺しだって。これで何件目だっけ?」
悪人が死ぬのは日常茶飯事だが、治安も安全も幸福も保障された此岸町において善人が寿命以外で死ぬことはまずない。にもかかわらず通報を受けた啓治に動揺の色がみられないのは、この一ヶ月で「善人殺し」という異常事態に何度も立ち会ってきたからである。それにいちいち驚いていては自警団の仕事は務まらない。
「良椰も行く?」
「行かない」
「だよねー。じゃあ留守番頼んだよ。あ、もう少ししたら荷物くるから受けとっておいてー」
「ああ」
此岸町で最も高い高層マンションの最上階をでた啓治は、全面ガラス張りのエレベーターから下界を見下ろす。眩しいほどに輝くネオンの下で今もなお進化と発展を続ける此岸町。その奥にある打ち捨てられ時間を止めた彼岸町。対極的な二つの町を見比べる中で、啓治の口からは自ずとため息がこぼれた。
「善人と悪人、ねえ……」
* * *
善悪法が制定されて以降、国の中枢となった首相官邸では現総理大臣の貴海私音と彼の主席秘書官である詩島一聖が話しこんでいた。歴代の総理大臣はみな主席秘書官の他に数人の次席秘書官をつけてきた。それはひとえに総理大臣に回ってくる仕事の数が多いからである。しかし貴海は数年前に父親から総理大臣を拝命して以降、今日に至るまで一度も次席秘書官をつけたことはない。この事実は、詩島の秘書としての腕がそれだけ優秀であることを証明していた。
「詩島くん、少し前から外が騒がしいようだがなにかあったのか?」
「はい。耳の痛いことに、T地区でまた善人が遺体で見つかったそうです」
「……またか。自警団は一体何をやっているんだ。こういう時のためにいるんじゃないのか、全く」
「彼らも動いてはいるようなのですが、手口がかなり巧妙らしく足取りは未だに掴めていないそうです」
重苦しく嘆息しながら黒檀を削りだした書斎の上で手を組む貴海。その眉間には日常的に力を込めたことで消えなくなった皺が刻まれている。この皺のせいで貴海は怒っていると勘違いされることが多かった。
「善人が寿命以外で死ぬなど本来あってはならん事態だ。それがこうも立て続けに起こっては我々の威信に関わる。ことが起きる度に適当な悪人を処理してきたが、張本人を始末しない限り事態は収束しない。さて、どうしたものか……」
組んだ両手に顎を置き悩ましげに目を細める貴海。詩島は「私に良い考えがあります」と茶縁の丸眼鏡のブリッジを親指で押し上げながら声を上げた。
「ほほう。なんだね?」
「専門機関に善人殺しの捜索を依頼する、というのはいかがでしょうか?」
「そんなものがあるのか?」
「はい。ただし総理はあまり好まれないかと」
「どういうことだ?」
「目には目を、歯には歯を。これに倣って悪人探しは悪人に依頼するんです。ちょうど知り合いに優秀な人間がいます。もちろん悪人ですが」
「ふむ……一理あるな。害虫駆除は害虫に任せるとしよう。君から依頼しておいてくれ」
「かしこまりました」
恭しく一礼した詩島は、知り合いの悪人に依頼をするべく秘書室に足を向けるのだった。
* * *
悪人の居住区、通称彼岸町で教会を営んでいる美空戒慎は紅葉樹が落とした葉を掃こうと外に出た。すると落ち葉でできた絨毯の上に一人の青年がうつ伏せで倒れていた。また善人たちの憂さ晴らしによる被害者かと思いながら戒慎が青年の傍にしゃがみ口に手を持っていくと、手の甲に規則的な吐息が触れた。
「良かった。生きてる」
青年を教会の中に運ぶべく持ち上げたところで、戒慎は「うん?」とその顔を覗き込んだ。間近で見た青年の顔はやはり見覚えのあるものだった。ここにくるまでになにがあったのか、何故倒れていたのかなど気になることは色々とあるが、今最優先すべきは彼の診察である。
「一体この国は、どこまで腐敗していくんだろうね」
美空のひとりごとは、落ち葉の香りをまとった秋風にさらわれて消えた。
* * *
まぶたに強い光が差したことで深い眠りから目を覚ました青年は、部屋の中と自分の体を見下ろした後にパニックになった。寝ぼけて今いる場所が分からなくなることはたまにあるが、青年に振りかかった現実はそれとは根本的に異なるもっと深刻なものであった。
「起きたんだね、良かった」
そこで部屋に入ってきた神父らしき格好をした若い男を視界に入れた青年は、「あっああ、あの!」ともつれる舌で必死に言葉を紡いだ。
「どうしたの? あ、喉渇いた? 水ならあるよ」
のんびりとした声と表情でコップに水を注ぐ神父に、青年は激しく首を振った。
「そうじゃなくて、あの、ここは一体どこですか? あなたは、それに僕は、誰なんですか?」
青年が一息で吐き出した疑問に対し、神父は「もしかして、なにも覚えてないの?」とベッドのそばにあった木の椅子を引き寄せて腰を下ろす。
「……はい。なにも、思い出せないんです」
「なるほど、それは記憶喪失だね。生活に関することは覚えてるみたいだから、忘れたのは過去の記憶だけみたいだ。一時的なものか長期的なものかは分からないけど、そのうち少しずつ思い出せるはずだよ。焦らずのんびりやっていこうね」
あっけらかんと述べる神父に、青年はしばし面喰らった。散歩中に道端に咲く花を見て「あれはタンポポだね」というような気安さだった。普通こういう場面では多少なりとも深刻になるものだと思うが、神父からは深刻のしの字も感じられない。むしろ部屋に入ってきた時からずっとのほほんとしている。おかげで激しく動揺していた青年は神父につられるようにやや平静を取り戻した。
「えっと、神父様……?」
「俺は美空戒慎。戒慎でいいよ。君は———ああ、忘れちゃってるんだったね。それならせっかくだし、今ここで決めちゃおうか。君の名前」
「え?」
「こんな機会、生きていて一回あるかないかだよ。忘れちゃったなら、自分で好きな名前を名乗ればいい」
戒慎のゆったりとした話し方のせいか、はたまた神父という仕事柄ゆえか、彼の言葉には妙な説得力がある。青年は気付けば首を縦に振っていた。けれど唐突に名前といわれてもそう簡単に浮かんではこない。青年が頭を捻っていると、戒慎がそっと助け船をだした。
「なにか頭に浮かぶものはない? ものとか色とか」
「すみません、特には」
「それなら君さえ良ければ俺が考えてもいい?」
「はいっ。ぜひお願いします」
青年が頷くと、戒慎は天井を見上げながらゆるく握った拳を顎に持っていった。
「それなら、結ぶと書いて結。苗字は新しいに他と書いて新他でどうかな?」
新他結。心の中で繰り返した新しい苗字と名前は、驚くほどにしっくりときた。青年改め結の表情を見て気に入ったことを察した戒慎は「決まりだね」と微笑んだ。