逝者は語る7
「僕には妹がいた。名前は凪。僕より二つ年下で、史の恋人だった。もう十年以上前の話だけどね」
「史さんの?」
「うん。想像できないでしょ? 史が恋愛してるところなんて」
「はい。全く想像がつきません」
「僕も凪から付き合い始めたって聞いた時は驚いたよ。凪が昔から史に惹かれていたのは知ってたけど、史も同じ気持ちだったのには驚いたなあ」
過ぎた時を惜しむように柔らかく垂れ下がるまなじり。その表情から、戒慎がいかに妹の凪と史を大切に思っているかが伝わってくる。けれどこの話は優しさとは無縁のものだといえるだろう。何故なら戒慎は妹がいたと最初に語ったからだ。結はこれから辿るであろう暗い結末を前に、背筋を伸ばし覚悟を決めた。
「凪と僕、史、啓治の四人は親同士の仲が良くてね。物心がつく頃には四人でいるのが当たり前になっていた」
「家が近所だったということは、つまり」
「うん。僕たちは生まれた時はみんな、此岸町で暮らす善人だったんだよ」
手始めに明かされた事実は、結に驚きと衝撃をもたらした。つまり結が目を覚ましてから知り合った者たちは、夜を除き全員が善人あるいは元善人ということになる。善人が悪人になることは、結が思っているよりも頻繁に起こる出来事なのかもしれない。
「史、啓治、僕が高校三年、凪が高校一年の夏の日だった。僕たちは四人で海に遊びに出かけたんだ。途中で凪がトイレに行ってくるっていってそばを離れたんだけど、三十分が過ぎても戻ってこなかった。それでおかしいと思って三人で探しに行ったら、凪は波打ち際で倒れていた。胸をなにかで一突きされていてね。急いで病院に連れて行ったけど、即死だったよ」
「そんな三十分の間にですか?」
「うん。信じられないでしょ? 素人の犯行じゃないことは確かだよ。肋骨を避けて心臓を刺すなんていう芸当は、僕たちがやろうとしてもまず無理だって写楽もいってた」
「でも、海があるのは此岸町ですよね? 向こうは安全で平和な場所なんじゃ」
「表向きはそうなってるね。でも凪が此岸町の海で殺されたことが全てを物語ってると思わない?」
戒慎が浮かべた薄ら笑いは、神父らしい慈愛や優しさとは程遠い。その笑いから透けて見える感情は荒波のような激情だ。今は淡々と凪に起きた悲劇を口にする戒慎だが、こうなるまでにはかなりの年月を要したに違いない。
「犯人は捕まったんですか?」
「未だに捕まってないよ。凪の事件も報道すらされないまま揉み消されたしね」
「え?」
「僕と凪の父親は国会議員だったんだけど、長年善悪法の撤廃を訴え続けていた。それが気に入らなかったんだろうね。国、というか総理大臣から何度も圧力もかけられていたみたい。葬式にきた貴海私音にいわれたよ。『水難事故とは、まだ若いのに不運だったな。君も気をつけなさい』ってね。殺人であることは明白なのに、その一言で凪の死は水難事故として処理された」
「その言い方だと、まるで総理大臣が凪さんの事件に関与しているように聞こえるんですけど」
「うん。総理大臣が関与してるのは間違いないよ。胸に穴が空いてるのに水難事故なわけがない。あいつは葬式で僕をダシにして父さんに脅しをかけたんだ。かみ砕けば『息子を亡くしたくなければ、分かっているな?』ってところかな」
「善人の代表みたいな人が本当にそんなことを?」
「根っからの善人だったら、善悪法なんていう理不尽な法律は総理大臣に就任した時点で撤廃してると思わない?」
「……確かにそうですね」
「この国の闇は根深い。国の舵を取るべき政治家たちが腐りきってるからね。でも史や戒慎、夜の努力の甲斐あって少しずつ手札は揃いつつある。善悪法の撤廃。それが凪と僕たちの悲願だ」
『そう。これからその希望に会いに行こう』
結の耳の奥でいつか聞いた戒慎の言葉がふとよみがえる。あの言葉の真意は未だによく分からないが、史がなにか重要な役割を担っているのは間違いなさそうだ。
「その目論見には、啓治さんも含まれているんですね」
「うん。口と態度は軽いけど、啓治は僕たちの味方だから信頼していいよ。ちなみに僕は凪の事件の後にわざと騒ぎを起こして自分からこっちにきたんだ。あの町にも善人たちにもほとほと嫌気がさしてね」
「そうだったんですね」
「長い昔話に付き合ってくれてありがとう。そろそろ帰ろうか。まだ完全に道を覚えてないだろうから、送っていくよ」
「ありがとうございます」
帰り道は会話が途絶えなかった。結は戒慎と話しながら、懐かしさのようなものを感じていた。
* * *
青年は強烈な頭痛に耐えながら足を引きずるようにしてどうにか此岸町にある仮の自宅まで帰ってきた。立て付けの悪い扉を押し開けると、上司が今日も高級スーツを見にまとい机に腰かけて待っていた。上司が青年に拠点として与えたこのプレハブ小屋は、最低限風雨を凌げるだけの実に簡素な造りだ。彼は父親が総理大臣をしているおかげでたんまり金を持っているが、自分以外にはことごとく金を出し渋る人物だった。
「向こうへ行っていたそうだな。門番から報告が入ってる。勝手な行動はするなっていったよな」
「ユウヤを、探しに」
上司の前に跪きつつ彼岸町へ赴いた理由を説明すると、「ユウヤ? 誰だそいつ」とネクタイを触りながら片眉を跳ね上げる。けれどすぐに「まあどうでもいい」と話を切り替えた。
「次の仕事が入った。日時は五日後の午前零時。殺すのはこの男。いつもみてーにここに呼び出すから、殺したあと適当な場所に置いてこい。向こうならどこでもいい」
顔の前に突きつけられた壮年の男性の写真が映った眺めていると、頭にかかった靄がが徐々に晴れてゆくのが分かった。そして青年は思う。自分は今日、今までなにをしていたのか? なぜこの男は当たり前のように自分に人殺しの依頼をしているのか、と。
「話はそれだけだ。分かってると思うが、くれぐれもしくじるなよ」
「お前は誰だ?」
青年が疑問をぶつけると、男は「チッ」と舌打ちをかましたのちにポケットに入れていた手を素早く外にだす。その手がなにを持っているのか確認する前に、青年の首筋に無遠慮に注射針が突き刺された。冷えた液体が体内に流入する感覚がひどく気持ち悪い。謎の液体は一瞬で血液に乗って青年の体内を巡り、体がかっと熱を帯びるのと同時に思考に再び厚い靄がかかった。ああ、またかと青年は思う。けれどなにに対してまたと思ったのかは分からない。
「んじゃ、さっきいった通りによろしくな。善人殺しちゃん」
「かしこまりました」
頭を下げて上司を見送りながら、青年はさきほどくだされた命令を繰り返し脳内で反芻した。しくじれば凶刃が向く先はあの子だ。あの子だけはなんとしてでも守りぬかなければならない。…………あの子? あの子とは一体誰のことだっただろうか? まあいい。どうせ考えても分からないのだから。
「五日後に備えて、仕事道具でも研いでおくか」
青年が一つの扉を開けると、その部屋の壁にはまるでお気に入りの玩具を飾るように整然と様々な種類の刃物が並んでいた。それらを眺めながら、青年は次はどれを使おうかと胸を躍らせるのだった。