78. 友の屋敷の壁の調査
今日は、胃薬を飲んでいない。
こんなに気持ち的に楽なのは、クレアの別荘宅以来である。
「契約書とメモ用の紙。そして、万年筆があれば大丈夫ね」
リアナは書類ケースに契約書と紙を入れ、万年筆を濃灰色の上着の内ポケットに入れる。
今日は商会の所有する馬車で行くので、自分が乗り次第、出発する予定だ。
「これは、床。これは、ガラス。これは、建具っと」
商会を出る前に、他の仕事の書類を仕事内容ごとに代表者の机に置き、帰ってきてからの仕事を用意しておく。
最後に、建具の書類を机の端に置き、ルカに声をかける。
「いってくるわね、ルカ」
「いってらっしゃい!」
今日もフーベルトの机を借りて、色々と絵を描いているようだ。
どれも、素敵なのでじっくり見たいのだが、帰ってからの楽しみにとっておく。
ルカの頭を撫でると、次に撫でられるのを待っているハルの頭も撫でる。
「気をつけてね。転けないようにしなよ」
「さすがに大丈夫よ。お父さんもいるし」
「なにかあったら、すぐに呼んでね。僕、すぐ行くから」
「頼もしいわ。すぐに呼ぶわね」
なにもないところで転けたのは、子供の頃の話である。
ハルにとって、自分は昔のままの印象らしい。
少しぐらい信頼してくれてもいいと思うのだが、きっと難しいのだろう。
何度も転けかけた時に助けてもらった過去を思い出し、少し苦笑いをする。
リアナは一階に降りると、そのまま商会の所有する馬車へ乗り、アドルフに教えられた屋敷へと向かう。
「今日はリアナが受けた仕事だと聞いたが、相手は知り合いか?」
「学院の頃の友人よ。伯爵家の出なのだけど、身分関係なく皆平等にっていう感じの人よ」
「それは、珍しいな」
「えぇ。いい友人を持ったわ」
他にも建築関連の商会はあるのだが、わざわざ、友人である自分に仕事を依頼してくれた。
そのため、できる限りのことはしたい。
リアナが書類ケースの中にある契約書を確認していると、父はなにか言いたそうにしている。
視線を上げて確認すると、なんとなく言いたいことがわかってしまった。
「その友人というのは…男か?」
「そうよ」
「…下心はないか?」
「大丈夫よ。それに、お父さんがいるじゃない」
「まぁ、そうか」
友の性別は関係ないとは思うのだが、父は気になるようだ。
アドルフに下心はないだろう。
あるとするのならば、彼ならきちんと言葉で伝えてくれるはず。
それに、父もいるし、なにも問題ないだろう。
しばらく動いていた馬車が止まり、目的地についた。
馬車を降りると、屋敷の入口にアドルフの姿があった。
わざわざ出迎えてくれたようだ。
父と並び、アドルフの前に立つ。
「ようこそ。私の名前は、アドルフ・ジールマン」
「この度はありがとうございます。フォルスター商会、商会長。ダリアス・フォルスターと申します。本日は、よろしくお願いいたします」
父とアドルフの自己紹介が終わり、アドルフは笑顔をこちらに向ける。
「リアナもよく来てくれた。急に、依頼してすまない」
「いえ。お気になさらず」
本当は一人で来る予定だったのだが、友といえど、一応貴族である。
レオンの授業でも、家族か付き人に男性をと言われたので、父に予定を合わせてもらった。
屋敷の中へ案内され、先に廊下を歩くアドルフの後ろを、ダリアスとリアナはついて歩く。
「早速で悪いのだが、問題の箇所を見てくれないか?壁が脆いのか、崩れ落ちてくるのだ」
「はい、伺いましょう」
しばらく歩くと、廊下の壁が一部、変色しているのが、遠目でも確認できる。
アドルフはその前で立ち止まると、その壁を見て、苦笑いをしている。
「ここなんだが」
「これは、ひどいですね」
遠目に見ても変色は目立っていたが、近くで見るとその腐食はひどい状態だ。
内側から水が出てきたかのようなシミが出来ているため、壁の中か反対側の壁に問題があるのだろう。
「水のシミがありますが、常に水が出てきますか?」
「いえ。滅多には出ないですけど、天気の悪い日、雨の日には出てきていたような気がします。雨の日に、メイドが掃除をしていたので」
ということは、内側から水が出てきたかのようなシミの正体は、雨水なのだろう。
きっと、屋根の方に問題があるはずだ。
「まだ見てみないとわかりませんが、屋根に亀裂が入り、そこから雨水が入って傷んだのでしょう。これなら、一日で直せます」
「そうかい?それは良かったよ。ここ壁の向こうは、母の部屋でね。病気がちだから、気になっていたのだ」
自分の見立ては合っていたようだ。少し嬉しい。
だが、病気がちということは、長らくこのままの状態で放っておくのは、お母様のためにも良くないだろう。
「出来うる限り、早い日程で準備しておきます」
「無理を言ってすまないね。では、執務室で正式な契約をしよう」
「ありがとうございます」
その後、執務室へ案内されると、リアナは持ってきていた鞄から契約書を取り出し、机に置いた。
リアナは簡単に書く項目の場所を伝え、アドルフに書いてもらう。
「これで、書くことは終わりかな」
「確認させて、いただきます」
書き終えたのか、紙をこちらに差し出すアドルフから、リアナは紙を受け取る。
その紙を確認すると、父へ渡し、見落としがないか確認してもらう。
しばらく、契約書に目を通していたダリアスは、顔を上げた。
「これで大丈夫です。準備が出来次第、連絡します」
「助かるよ。この屋敷に居られる内に、できることはしておきたくてね」
屋敷に居られる内ということは、アドルフはこの屋敷から出るということなのだろうか?
小さな疑問が浮かび、その言葉の意味が気になる。
「どこか、行かれるのですか?」
「そうなのだよ。私は近々、婿に出る予定なので」
「そうなのですか。めでたいことですね」
「えぇ。相手とも良好な関係なので、楽しみです」
「おめでとうございます、アドルフ様」
「ありがとう」
どうやら、アドルフには婚約者がいるらしい。
恋多き男が身を固めるとは、少し意外だが、貴族の世界では、当たり前のことである。
婚姻に関して、基本、本人に決定権はないと聞いた。
婿に出るということは、嫁ぎ先で当主になるのだろう。
その相手と上手くいっているなら、いいことである。
「馬車の用意をさせるから、少し雑談しよう。紅茶でも飲みながらね」
「ありがとうございます」
工事の契約の話はまとまった。
そのため、商会の馬車が用意できまでは、ゆっくりさせてもらう。
待ち時間の間、祝いの言葉と婚約者の話に花を咲かせる。
「どのようなところに惹かれたのですか?」
「そうだな。誰にでも優しく、笑顔が絶えないところかな。あと、純粋なところだよ」
「素敵な方なのですね」
「あぁ、とても大切な人だ。彼女しかいないよ」
ふと、自分を見るアドルフの瞳が、熱を帯びているように感じる。
きっと、自身の婚約者の話をしているため、そのような目になっているのだろう。
そのような素敵な相手に会えたのなら、レオンとクレアみたいに幸せに暮らしてもらいたい。
リアナが嬉しそうに笑っていると、黙っていた父が、申し訳なさそうに話し始める。
「すみません。レストルームをお借りしてもいいですか?」
「えぇ。案内してあげてください」
珍しい。
父はこういった時に、絶対にレストルームには行かないのだが、今日は行かねばならない事情があったのだろう。
父は執事に案内され、レストルームに向かい、少し二人だけになる。
二人といっても、ドアも半開きで、部屋には執事もメイドもいる。
こういった場合、自分はどうすればいいのだろう。
今度、レオンの授業で聞いてみることにする。




