72. 授業の合格点
アイリスとの打ち合わせを乗り越え、胃の痛みから解放されたリアナは、ベーレンス家本邸の執務室でレオンと向き合っている。
「ダンスは前回ので、終了です。護身術の方も動きはいいと、カイルが言っていたよ」
「有難いことです」
「貴族に対する話術とやり取りの仕方、商会員としての話し方。これも、今回の授業で終わる予定だ。無事に卒業してくれると、嬉しいよ」
「頑張ります」
ダンスの授業が無事に終わって、リアナは息を吐く。
踊れるようになっているとわかったとはいえ、今までが足を踏んで踊ることが普通だったので、いつも緊張する。
それも終わりなので、精神的に楽だ。
でも、ほんの少しだけ、フーベルトとダンスができないのは、寂しい気がする。
いや、ダンスをしなくていいのなら、それでいいではないか。
リアナはその思考を断ち切り、姿勢を正すと、最後の授業に挑む。
「では、今日も授業を始めよう」
「よろしくお願いします、レオン先生」
最初の授業で渡された分厚い本も、最後の一冊、しかも残り僅か。
ここまで勉強したのは、建築士の試験を受けた時以来だが、確実に仕事で役立つことが多い。
貴族相手は、慣れるしかないので、あとは自分の経験次第だ。
リアナは気持ちを入れ替えると、最後の授業に集中した。
・・・・・・・・・
「本日の授業はここまで」
「ありがとうございました」
最後のページを勉強し終え、本を閉じた。
ここまで長い時間だったが、きっと、今後の自分の糧になるだろう。
リアナは、少し愛着の湧いた本を、レオンに返却する。
今日の帰る時の鞄は、とても軽そうだ。
「お疲れ様、リアナ」
「レオン先生も、お疲れ様でした」
「そう呼ばれるのも、今日が最後か。寂しいものだね」
ずっとレオン先生と呼んでいたが、それも終わり。
そう言われると、少し寂しい気がする。
「カイルの授業の時、ハルは大丈夫だったかい?」
「えぇ。ちゃんと、納得してくれました」
「そうかい。それはよかったよ」
安心そうに笑うレオンに、リアナは苦笑いする。
ハルのカイルをすぐに追いかけようとするのは、どうにも、まだ辞めそうにない。
会話の途中、部屋のドアをノックする音が響いた。
レオンが入室を許可すると、封筒を持ったカイルが入ってくる。
「リアナ嬢。まだいましたか、よかったです」
「どうかされましたか?」
「これを。クレアに詳しく聞いたので、間違いないでしょう」
「拝見します」
レオンへの仕事の書類かと思っていたのだが、どうやら自分に渡す予定だったらしい。
しかし、クレアに聞いたという言葉が、少し気にかかる。
リアナは渡された封筒を開けると、早速、中身を確認する。
「…これは、どうしてでしょうか」
封筒の中身の紙に、とても見覚えがある。
そして、過去に、クレアとレオンから渡されたことがある。
カイルはリアナの様子に、笑みを溢す。
「これからは先生としてではなく、友として接したい、という私の我儘なのですが、いかがでしょう」
友として接したいという気持ちは、嬉しい。
しかし、自分がそれを受けとっていいのか、少し悩む。
リアナが悩んでいると、カイルの行動の意味をレオンが補足してくれる。
「護身術の授業は合格。それを祝い、この紙を渡す。そう言っているのだよ、カイルは」
「わざわざ伝えなくてもいいだろう」
「お前は昔から少しまわりくどい。はっきり伝えねば、リアナが困るだろう」
レオンのおかげで、理解が追いつく。
どうやら、何度か受けていた護身術の授業も、もう終わりらしい。
あれから、商会の職人に教えていたので、職人達は護身術ができるようになった。
問題に巻き込まれても、これで少しは無事であろう。
しかし、カイルの素の姿を初めて見るので、違和感がある。
だが、いつものカイルに比べると、関わりやすい。
リアナは封筒を抱きしめ、カイルに言葉を返す。
「ありがとうございます、カイル様。良き友人として、これからよろしくお願いします」
「あぁ、何かあれば助けになろう。手の掛かる妹が増えて、嬉しいよ」
どうやら、自分は妹という部類に入ったらしい。
しかし、その言い方だと、手の掛かる妹とはきっと、クレアのことだろう。
少し想像して、笑みが溢れる。
クレアと姉妹になれたら、きっと楽しいことが多かっただろう。……着せ替え人形にされる機会が増えそうだが。
少し考え込んでいると、カイルの背後から、楽しそうな声が聞こえた。
「まぁ、カイルお兄様。そう思っていたのですね」
「クレア、違う。これはそういった意味では…」
楽しい声の正体は、やはりクレアだったらしい。
カイルは先程の言葉を聞かれたことで、少したじろいでいて、目が泳いでいる。
リアナはその姿に笑いながら、クレアと向き合う。
「リアナ、授業は終わったのですね。合格おめでとう」
「ありがとう、クレア。全ては、ベーレンス家のお力添えのおかげです」
「ふふ。リアナの力になれて嬉しいわ」
リアナの言葉に、クレアは満足そうに笑う。
ここまで勉強ができる機会を得られたのは、優しい友を持たなければ、無理だっただろう。
そのことに深く感謝し、これからも日々、精進しようと思う。
「では、これを渡しておくわ」
クレアがメイドから渡されたのは、白い小さな封筒。
「これは?」
「今度の休み、この屋敷に遊びにきて。お茶会をしましょう」
「それは、とても楽しみだわ。ありがとう、クレア」
きっとこの中身は、招待状なのだろう。
いい思い出として、大切に保管しておこうと思う。
「えぇ。食べ方の作法も兼ねているから、頑張りましょうね」
「…よろしくお願いします、クレア先生」
リアナは嬉しさで頬を緩めていたのだが、クレアの続く言葉で、その笑みも固まった。
クレアの授業は、まだ続くらしい。
確かに、所作や仕草など動作について重点的にやってきたが、食事の作法は教わっていない。
楽しみなお茶会が、少し気が重くなる。
「それは、とても楽しそうだ。私も参加していいかい?」
「だめですわ。その日は、私がリアナを独占します。約束、してくれましたよね?」
約束とは、なんのことだろう。
リアナはなんとか思い出そうと、記憶を辿る。
「…あぁ、もちろん。抱きしめていたのをやめさせたのは、私だ。責任は取ろう」
「覚えていてくれてありがとう。嬉しいですわ」
抱きしめていたのをやめさせた…。
そういえば、かなり前になるのだが、クレアの別荘宅に入って、クレアに抱きつかれて困っていたのを、レオンに助けられたことがある。
その時に、レオンは機会を用意すると言っていたが、まさかそのことだろうか。
「次のお茶会の服は、こちらで用意します。屋敷に着いたら、着替えましょうね。もちろん、ルカとハルの分もありますわ」
「…お心遣い、ありがとうございます」
どうやら、服も用意してあるらしい。
まだ、着せ替えではないので、気が楽だ。
しかし、ルカとハルもオシャレになるのは、少し楽しみだ。
「ふたりが試食会で食べていたスイーツも出しますので、楽しみにしておいてくださいね」
「ありがとうございます。楽しみにしております」
今日も隣室で行われているスイーツの試食会も、今日で最後だ。
最後の詰めに入っているのか、話し合いもなかなか白熱していた。
レベルの高いスイーツを食べられそうで、とても楽しみである。
リアナはクレアとのお茶会を楽しみにしながら、周りにいる三人の先生を見る。
「どうかしたかい?」
「どうした、リアナ嬢」
「リアナ、なにかしら」
「ふふ。なんでもないです。優しい友を持てて、とても幸せだと思いまして」
リアナの言葉に、三人は固まる。
そして、なぜか揃ってため息をついた。
「そういうところは素敵なんだけどね」
「今のは…なかなか来ました」
「これは、どうにもできないから。諦めるしかないわ」
「え?なにかまずいことを言いましたか?」
特に、なにかおかしなことを言ったつもりはない。
だが、自分が知らない何かがあるのだろうか?
「気にしないで。なにも問題ないから」
「えっと、そう?なら、いいのだけど…」
よくわからないが、三人は顔を見合わせて笑っている。
優しく厳しい授業の日々を思い出しながら、目の前で笑っている優しい友の姿に、リアナも自然と笑みが溢れた。
 




