60. 表情の練習
その日は商会に戻っても、クレアとの授業の影響が抜けなかった。
いつもより美しい所作や仕草をするリアナに、リックは楽しそうに声をかける。
「リアナちゃん。今日の授業から帰って来てから、ずっとそんな感じだね」
「そうですね、なぜか抜けなくて。目立ちますね」
「いや、良いんじゃない。美しいですよ、リアナ嬢」
そういってリアナの手を取るリックは、流れるように手の甲に口を近づけて挨拶をする。
それに対し、リアナは優雅な笑みを浮かべて、微笑んだ。
いつもと違う反応をするリアナに、リックは目を見開く。
「リアナちゃん、どうしたの。あんなに照れてくれていたのに」
「これぐらい慣れなければ、やっていけないらしいから…」
リアナは優雅な笑みから、少し頬を染めて表情が崩れてしまう。
そのリアナの姿を見て、リックは良いことを思いついたような表情をしている。
「じゃあ、練習すれば良いんだよ。みんなに頼んで」
「それはどういう…?」
リックの提案に、なんだか嫌な予感がするのはなぜだろう。
そのリアナの後ろ、ハルは大きなため息をついている。
「良い練習になって良いじゃない。みんなに毎日、されると思うけどね」
「待って、されるってなにを?」
「リアナ、僕も協力するよ!師匠にも頼んでくる!」
「待って、ルカ!」
何をされるというのかは教えてもらえず、ルカは早速、フーベルトの元へ向かったようだ。
されることで考えられるのは、リックの先程の挨拶だろうか。
しかも毎日とは、さすがに考えづらい。
きっと、リックの悪い冗談だろう。
楽観的に考えていたリアナの元へ、楽しそうなリックが戻ってきた。
「ダリアスに許可はもらえたから。これから、毎日、私と代表者でするからね」
「え…?本当…ですか?」
「そうだよ。リアナちゃんが照れないように、頑張ろうね」
毎日。しかも代表者に?
絶対に断ると思っていた父を、どうやって説得したのだろうか。
笑顔で去っていくリックを見ながら、リアナは唖然とする。
そのリアナの元へ、新しい人間がやってくる。
「リアナ。話があると、ルカさんが言っていたのですが…」
「連れてきたよ!」
「えらいよ、ルカ。よしよし」
先程呼びにいったはずのルカとフーベルトが、もう自分のもとに来た。
それに驚いて、リアナは席を立つ。
なぜ、ルカは仕事が早いのだ。
さっそく連れてきたルカの有能さに、少しだけ苦笑いになる。
だが、今回のことはダンスの時よりは伝えやすい。
そう考えて、リアナはフーベルトに教えることにする。
「リックさんから話が行くと思うので、先に言っておきますね。私が照れない練習として、褒め言葉と挨拶をするようになるらしいです。ご迷惑をおかけします」
「また、どうしてそのようなことに?」
「相手に照れると、誤解されるので。それの対策です」
「なるほど」
できれば、誰に対しても照れたくはない。
だが、異性に免疫がない自分には表情を作れる自信はない。
これはいい練習。
そう考えて、乗り越えようと思う。
「じゃあ、はい。師匠、どうぞ」
「え?ルカさん、今ですか?」
「そうだよ。許可は得られたからね」
ルカとハルの言葉に、リアナは焦る。
ここで、しかも、今からやるのか。
フーベルトは困ったように笑いながら、リアナと向き合う。
「練習だからな。回数は少しでも多い方がいいだろう」
「それは、そうですが…」
「じゃあ、リアナ。手を」
練習は多いことに越したことはない。
それはわかってはいるが、異性に対する免疫をつけるために、努力が必要になろうとは。
優しく微笑んでくれるフーベルトに、諦めてリアナは手を差し出す。
「リアナ。今日も美しいです。貴女に出会えた奇跡に感謝を」
その言葉と共に流れるような所作に、リアナは固まった。
そして、言葉の意味を理解して、顔が真っ赤になった。
「リアナ。だめだよ、照れたら」
「だ、だって…」
あんなに綺麗に微笑んだフーベルトに、どうすれば照れずに済むのか。
そんな方法があるなら、ぜひ教えて欲しい。
ルカは小さくため息をつくと、話し始める。
「はい、もう一度。あと、四回ね」
「え!そんなにするの?!」
「当たり前でしょ。リアナが照れたら危ないって、クレアは言ってたよ。目に毒だって」
クレアはなぜ、ルカに変なことを教えているのだ。
そのせいで、練習させられることになっているのだが、当分、表情が崩れそうな予感しかしない。
「フーベルト。どうにかしてください…。私、無理です…」
「リアナ。他の人に照れる姿は見せるべきではない。それは、わかっているだろう?」
「わかっていますが…」
「なら、練習しよう。俺もできるだけ協力するから」
「…はい。お願いします」
味方になってくれると思ったフーベルトに裏切られ、リアナは渋々、その練習を受け入れることにした。
フーベルトは少し笑うと、ルカと手を繋いだ。
「そんなに落ち込むな。続きは、休憩時間にしよう」
「え、続き、あるんですか?」
「ルカさんのお願いですからね。俺には断れません」
「師匠は優しいからね。じゃあ師匠のところで絵を描いてくるね」
「では、行きましょう」
ルカと一緒に去っていくフーベルトを見送り、リアナは再び席に着く。
顔を手で覆って隠しながら、深く息を吐く。
「ハル。どうしよう。絶対、表情を作れないわ」
「でもさ、貴族の勘違いって大変なんでしょ?」
貴族の勘違いは大変だと、学院の頃、レオンから聞いた話で嫌というほど教えられた。
それに、クレアも勘違いされていた時ですら、大変だった。
なにも後ろ盾のない庶民が、貴族に言い返せる力などない。
「それもそうね…」
「僕は、練習しておいて損はないと思うな。リアナは表情に出やすいし」
そこまで、わかりやすくはないはずだ。
いや、でも、クレアやレオンには気付かれることが多いため、その言葉を否定しづらい。
ここは諦めて、練習するしかないようだ。
リアナは手を外すと、ハルに笑いかける。
「ハルが言うなら、きっとそうした方がいいのよね。頑張るわ」
「そうだね。まずは、照れないようにすること。それを目標にしよう」
そういえば、学院の頃、自分をからかっていた異性の友人には、照れなくなっていた。
その要領で考えれば、練習でどうにかできる気がする。
少し自信を取り戻し、リアナは笑う。
「えぇ。猫の鳴き声と一緒よね」
「そうだね。そういうことにしておこう」
ハルと話し終え、リアナは仕事に戻る。
その日から毎日、リアナは会うたびにされる褒め言葉と挨拶に、優雅な笑みを返すのに、時間はかからなかった。
そして、リアナの異性への免疫力は、ほんの少しだけ上がったのだった。




