57. カイルの授業 『護身術』
本日も授業でベーレンス家の本邸に訪れているのだが、今日は屋内ではなく屋外である。
「リアナ。今日はなにするの?」
「うーん。わからないわ。なにをするんだろう?」
今日は汚れても良い格好と言われたので、いつも仕事をする時の格好で着ている。
そのため、いつもの授業より少し気持ちが楽である。
しかし、屋外ということは座学でもダンスでもない。
屋外ですることと言われても、何をするのか見当もつかない。
リアナは少し疑問に思いながら、本日の先生をハルとルカと一緒に待つ。
ちなみに、本日の先生はカイルであるため、リアナは少し心配である。
「あいつ、リアナになにかしたら追いかけまわす」
「待って。今日は先生だから、ちゃんと待機していて」
「リアナはあいつに甘いよ。僕はまだ、許してないもんね」
ハルがやる気満々で準備運動をしているが、それは待ってほしい。
過去は過去、今は今である。
それに、授業の進行に妨げになるのは、リアナも困る。
そのため、おとなしくしていてくれるようにお願いしているのだが、ハルは聞く耳を持たないようだ。
「カイル、悪いやつ?」
「違うわ、良い人よ」
「ルカ、騙されるな!あいつは悪いやつ!」
「ハルが怒ってるから、悪いやつかも!」
ハルの様子がいつもと違うので、ルカもつられてそわそわしている。
ずっと一緒にいることが多いため、なんとなくハルが何を言っているのか、わかるようになったようで、会話が噛み合うことも増えた。
それは微笑ましいのだが、今回は悪影響を与えているようで、少し焦って訂正する。
「待って、ルカ。違うのよ、これには深いわけがあってね」
「でも、リアナ、カイル苦手でしょ?」
リアナは痛いところを突かれて、言葉につまった。
確かにまだ少し苦手なのだが、それはルカにも感じ取れるぐらいらしい。
それならば、今の自分の中にあるカイルの印象を改善したほうがいいだろう。
これからは、苦手意識を無くして仲良くしよう。
「…苦手ではないわ。クレアの大切な従兄弟だもの」
「いとこ?」
「なんて言ったら良いかしら。お兄さんみたいなものよ」
「クレアのおにーさん!覚えたよ!」
カイルのことを悪いやつから、なんとかクレアのお兄さんまでに軌道が修正できた。
これぐらいなら、まだ許されるだろう。
悪いやつより、よっぽどいい。
そう考え、ハルを見ると自分の後ろを見て、機嫌悪くジト目をしている。
「クレアのおにーさん!」
「ルカ様。それはどちらから?」
「リアナ!」
「ありがとうございます。そう言われると、嬉しいですね」
「それはよかったです」
リアナの背後の方からカイルが来たようで、その声を聞いたハルの機嫌はもっと悪くなり、しっぽを地面に叩きつけている。
ルカが本人に楽しそうに伝え、カイルは新しい呼び名に嬉しそうに笑っていたのだが、音で気付いたのか、少し後ろに下がると、リアナに懇願する。
「リアナ嬢、そちらの聖獣様を、どこか離れた場所にお願いします」
「ハル、お願い。ルカと一緒にスイーツ食べていて」
「いやだね」
屋外といっても、いつものスイーツコーナーはあり、そこにパティシエが待機して、スイーツの用意が進んでいる。
パティシエが迎えに来て、ルカはスイーツを食べに行ったのだが、ハルはスイーツなどに目もくれず、リアナのそばを離れない。
そのハルに、リアナは苦笑いしてしまう。
「…ここにいるそうです」
「わかりました。でも、約束してください。なにをしても、私を追いかけ回さないと」
カイルの言葉を聞き、ハルは耳を伏せると、一度立ち上がる。
それにまた一歩後ろに下がったカイルが可哀想になり、リアナはハルを説得する。
「ハル、わかった?今日はだめよ。私の授業なのだから」
「状況によるかな。怪我したり、泣かせたりしたら、容赦しないよ」
授業でそのような状況になることはないと思うのだが、確かに今日は動きやすい格好である。
一応、カイルにハルの言っていることを伝えることにする。
「今日は、怪我や泣くようなことはありますか?」
「いえ、そういったものではないです。どちらかというと、身を守るためのものでしょうか」
身を守るものと言えば、護身術とかそういったものだろうか。
それならば、汚れても良い格好と言われたのも納得である。
ハルの方へ向き、リアナは座り込んで目線を合わせると、安心させるように笑う。
「ほら、安心した?」
「まぁ、それなら待機していてあげてもいいよ。でも、ずっと見てるから」
ハルは納得してくれたようで、ルカの待つスイーツコーナーに歩いて行く。
その姿にリアナは安堵し、カイルに謝罪する。
「すみません。あの子、過保護で」
「いえ、過去のことは私が悪かったので仕方がないです。しかし、私はあの聖獣様を見ると、心臓が破裂しそうです…」
「それは…すみません」
ハルとの過去の出来事を思い出しているのか、いつもの余裕の笑みは消え、額を手のひらで押さえていた。
その姿にもう一度リアナは謝ると、カイルは姿勢を正し、授業を開始する。
「では、気を取り直して。今日の授業では、護身術を教えようと思います」
「貴族の方は、護身術を習うのですか?」
「男性は大抵。女性は力が弱いため、最低限のことは知っていた方が、安心できるでしょう」
男性が護身術を習うのはわかるが、女性も習うとは知らなかった。
確かに、男性との力の差はどうやっても埋めることができない。
力が弱い女性や子供にとっては、それだけで不利だ。
それに、フーベルトと一緒に出掛けて、また迷子になっても、自分でどうにかできそうだ。
そのため、忘れないように、しっかりと身につけることにする。
リアナのやる気がわかったのか、カイルは少し笑い、リアナの手首を掴む。
「では、まずは腕を掴まれた場合ですね。この手を振り解いてください」
これは、フーベルトと初めて出かけた時に遭遇した、ナンパと同じである。
リアナはカイルの手を離そうと頑張るが、なにをしても取れそうにない。
本当に取れるのだろうかと、少し疑問に思う。
「無理そうです。できるものですか?」
「では、言われた通りにしてみてください。私は力を緩めませんので」
カイルは更に力を入れて、リアナの手首を掴む。
しかし、取れるというのならば、とりあえず信じてやってみるしかない。
「まず、手のひらを大きく開いてください。親指は空の方向へ」
「こうですか?」
「そうです。これで相手の手が少しだけ緩みます」
掴まれている方の手のひらを開くと、確かにカイルの掴みが少し改善された気がする。
でも、これでもまだ取れそうな気がしない。
「次に、掴まれている腕と同じ方の足を、相手に向かって、大きく一歩踏み込んでください」
大きくとはどれぐらい近付けばいいのだろうか、判断に悩む。
そのため、少し遠慮して踏み込んでみたのだが、それは良くなかったらしくカイルに注意される。
「躊躇してはいけません。ためらうとかえって危険です」
「わかりました」
相手と近すぎると何事かと一瞬悩むが、少し遠慮したこの距離だと、まだ判断ができそうだ。
そのため、リアナは遠慮なく一歩踏み出す。
「最後に、踏み出した足に体重を乗せながら、自分の身体を伸び上げるようにしてひじを高く上げてください」
リアナが力を入れて肘を高く上げると、カイルの手はリアナから離れる。
本当に取れるか半信半疑だったため、リアナは嬉しくて満面の笑みをカイルに向ける。
「取れました。すごいですね!」
「力がなくても使えるので、よかったら覚えておいてください」
これは誰でも使えそうである。
商会で働く人にも普及させれば、自分の身を守るのにいいかもしれない。
この授業は、商会にとっても有益なものである。できうる限り、たくさん覚えておきたい。
リアナは更にやる気になり、次の護身術を教えられるのを待つ。
カイルはリアナの様子に少し笑みを溢すと、次の説明に入る。
「では、次は後ろから抱きつかれた場合ですね」
「そんな状況になることがあるのですか?」
カイルの口から出た内容に、目を見張る。
貴族には、そういう危険性もあるのだろうか。
しかし、仮にそういう状況になったとしたら、もう逃げられない気がする。
「あまり無いですが、時と場合によってはあります。過去にも、令嬢の誘拐も有りましたし、念には念を入れてです」
カイルは困った表情をして、現実を教えてくれる。
リアナは貴族の女性の身を案じ、少し心配になる。
そんなリアナの背後に回ると、カイルは一度声をかける。
「では、失礼します」
リアナは突然のことに驚き、慌てるが、どうすることもできない。
ただでさえ、男性が近くにいるのでも恥ずかしいのに、抱き付かれるなんてもっての外である。
リアナは恥ずかしさから、顔が赤くなっているのを感じる。
しかし、カイルの方は至って冷静な声で、リアナを諭す。
「リアナ嬢、今抱きついているのは、私ではありません。見ず知らずの男性です。どうやって逃げますか?」
その言葉で、気持ちが落ち着き始める。
背後から抱きしめているのが、見ず知らずの男性。
想像するだけで、恐ろしいことである。
冷静に考えてみると、腕も動かせず、自由になると言えば、足だろうか。
「足を思いっきり踏むのはどうでしょう?」
「それも良いですが、持ち上げられた場合や担がれた場合には、難しいですね」
足を踏めるのは、確かに持ち上げられてない前提である。頭をぶつけるのも良いかもしれないが、相手が長身の場合届かない場合も考えられる。
リアナはじっくりと考え込んでいるが、何も浮かばない。




