52. 貴族と次の授業
授業の予定時刻は終わりを告げ、リアナは持ってきた紙と本を鞄にしまう。
「本日はありがとうございました」
「はい、お疲れ様。次回は、ダンスの授業をしましょう。ダンスの経験は?」
次の授業の内容を教えられ、リアナは嫌そうな表情になるのを耐える。
ダンスの授業が始まると言うことは、クレアが楽しんでいたダンス用のドレスが出来たということである。
何度着替えたか覚えていないが、その内のどれかに決まったのだろう。
リアナは淡い期待を込めて、尋ねることにする。
「高等学院の時の授業以来です。あの…ダンスも本当に必要なのでしょうか?」
「そうだね。シュレーゲル侯爵に気に入られているから、いつかはそういった機会もあるかもしれないからね」
レオンに伝えてはいないはずの名前が出て、リアナは驚きから動きが止まる。
気に入ってくれたかもしれないが、たった一度会っただけである。
それに、次に会うのがきっと最後で、その機会もないと思うのだが。
「なぜ、その名前を知っているのですか?」
「貴族は情報が命だよ。特に、リアナは妻の大切な友人で、私の生徒なのだから。できる限りは、把握はしておきたいよね」
情報が命。
それはわかるのだが、その言い方からすると、きっと父から聞いたわけではないということである。
どうやってその情報を手に入れたのか気になるが、それはあまり聞きたくはない。
深入りしないと決め、なんとか表情を作ると、リアナは次の授業のことを考えることにする。
「…次回もよろしくお願いします」
「よろしく。次は可能であれば、フーベルトを連れてきてください。彼にも教えていれば、自主練習ができるでしょう」
「…お気遣い、ありがとうございます」
どうやらフーベルトに迷惑をかけることが、決定したようだ。
そして、その足を何度踏むことになるのだろう。
リアナはそのことを考え、少し憂鬱な気持ちになる。
リアナを元気づけるように、クレアは背中をさすって、優しく声をかけてくれる。
「リアナ、次のダンスの授業は私もいますわ。安心してくださいね」
「ありがとう、クレア。でも、一緒に授業を受けていたから…わかるでしょう?」
「…どうにかなるものよ、きっと」
クレアが遠くを見て自信ありげにいうのを、リアナは見つめる。
しかし、先程まで自分に向けていた優しい笑みがなくなったのはなぜなのか、リアナは少し納得できない。
友なら最後まで肯定してほしかった。…例え嘘であっても。
しかし、それが難しいことは自分が一番わかっている。
苦手だったダンスの授業を思い出しながら、迷惑をかける相手について、つい名前を出してしまう。
「フーベルトに迷惑かけるのが、心苦しいわ」
「まぁ。敬称なしで呼ぶようになったのね!」
次の授業のことで頭がいっぱいで、完全に油断していた。
クレアの前で、フーベルトの名前を出すのはよくない。
それに焦って、発言を訂正する。
「これは…商会員の呼び方について授業があって。それでよ!」
「そういうことにしておくわ」
クレアのその笑みは、絶対にわかっていない。
しかし、レオンの授業で教えられたのは事実である。
…授業よりも先に呼び始めているが、それはそれである。
鞄を持ち、隣室で待つルカの元へ行こうとすると、ルカの方からこちらへ走って来た。
「リアナ、僕もする!」
「まぁ、素敵なお相手ね。ルカも一緒に、勉強してみましょうか」
「楽しみ!」
ルカの言葉で、クレアは楽しそうな表情になる。
きっと、ルカが着るダンスの時の衣装について考えているのだろう。
でも、正直いうと、ルカがどのような装いになるか、密かに自分も楽しみである。
・・・・・・・・
授業が終わって商会へ戻ったが、肝心のフーベルトの姿はない。
仕方がないので、授業の内容を作業机で整理していると、机に紅茶が入ってカップが置かれる。
「お疲れ、リアナちゃん」
「ありがとうございます、リックさん」
そういえば、ダンスの練習相手になにもフーベルトでなくとも、父やリックに頼んでも、なにも問題ないのでは。
それに、フーベルトの足を踏むより、二人の足を踏んだ時の方が罪悪感は少なくて済む。
名案かもしれないーーーーそう思い、リックに尋ねる。
「リックさん、ダンスできますか?」
「あぁ、できるよ。ダリアスと一緒に、何度か夜会へ参加したことがあるからね」
「では、私とダンスを踊ってくれますか?」
リアナのその言葉を聞いて、リックは固まった。
もしかして、父から聞いて自分のダンスの成績を知っているのだろうか。
それならば、断られても仕方がないだろう。
リアナが少し落胆していると、リックは意味ありげに含み笑いをしている。
「…あぁ。それは魅力的なお誘いですね」
てっきり断られると思っていたリアナは、リックの曖昧な返答に期待する。
しかし、リックの様子がいつもと違うため、少し戸惑う。
「どうかしました?」
「…リアナちゃん、その言い方はちょっと良くないね。私は貴族ではないからいいけど」
その言い方とは、どの言い方だろうか?
自分の言動について考え込んでいると、リックは耳元へ近付き、声を潜めて教えてくれる。
「私とダンスを踊ってくれますか。これは、“私を選んでください“っていう誘い文句なのだけど。そう、受け取っても?」
「いえ!そういうわけでは!」
リアナはその言葉で、レオンに渡されていた本の内容を思い出した。
貴族の言い回しは難しく、なかなか言動に気をつけなければならない。
その中で、気をつけるべき言葉の欄に、それが書いてあった気がする。
やはり、一度読んだだけでは覚えることができない。
もう一度、しっかりと読み返す必要がありそうだ。
少し混乱するリアナの耳に、残念そうな声が聞こえる。
「そこまで言われると傷つくな」
「えっと…何と言えばいいんでしょうか…」
失言をしてしまった場合の、撤回の仕方など本には書いてなかった。
否定することも肯定することも出来ず、リアナは困ってしまう。
とりあえず、リックは貴族ではない。
話せば、どうにかなるだろう。
顔を上げたリアナの目に、楽しそうな表情をしたリックの姿が確認できる。
「冗談だよ、冗談。さすがに、ダリアスに怒られるから」
「そうだな。ここでなにをしている」
突然聞こえた父の声に、リアナとリックは驚く。
いつからそこにいたのかはわからないが、どこまで話を聞いていたのだろう?
「いえ、リアナちゃんと少し仕事の話を」
切り替えが早い。
そのことに感心しながら、リアナはその様子を見守ることにする。
そのダリアスは腕を組んで、いい笑顔でリックを見た。
「ほう。ダンスを誘われるのが、仕事の話か」
「ダリアス、待って。違うから」
「私の部屋で、しっかりと話を聞こう。大丈夫、すぐに終わる」
「私は悪くないから。ダリアス、話を聞いてください」
リックの服の首元を掴むと、ダリアスは連れていく。
連れて行かれるリックは、こちらに助けを求めてくる。
「リアナちゃんからも、ダリアスに言ってよ」
「リックさん、頑張ってください」
「見捨てないで、リアナちゃん」
「ほら、諦めろ。行くぞ」
自分のせいなのだが、どうか頑張ってほしい。
そのついでに、自分によくするからかい癖を直してもらってほしい。
引きずられて行ったリックを笑顔で見送ったリアナの元へ、ハルとルカが来る。
「リアナ、ダンスは師匠とでしょ?」
「それは…そうだけど…」
それはわかっているのだが、出来れば迷惑をかけたくない。
足を踏まれたぐらいでは、絵を描けるだろうが、集中力は無くなりそうである。
しかし、ルカは自分の学院時代のことを知らないのだ。
そのため、なぜ、フーベルトに頼みづらいのかを、正直に話すことにする。
「でも、私、本当にダンスが苦手だから…。迷惑かけるわ」
「大丈夫。最初は出来なくても、たくさん練習すればできるんでしょ?」
いつか自分がルカに言った言葉を言われ、リアナの逃げ道はなくなる。
しょうがないが、自分の言動の責任は取ろう。
きっとたくさん練習すれば、自分でも踊れるはずだ。
ただ、フーベルトの足の骨が心配だが…。
リアナは諦めてフーベルトにお願いすることにし、決意を固めた。
「…そうね。お願いしてみるわ」
「それでいいよ。一安心だね」
「リアナ、僕、救急箱用意するね」
「ハル、お願いね」
ハルの気遣いに感謝し、リアナは一度ため息をつくと、フーベルトが戻るのを待つことにした。




