40. 初めての授業
初めての授業の日。
紙とペンを鞄に入れたのを確認しつつ、商会の玄関の近くで待っていたリアナは、少し寝不足である。
「リアナ、大丈夫?」
「大丈夫よ、ありがとう」
「どうした。昨日は眠れなかったのか?」
「少し。でも、ハルのおかげで眠れたわ」
昨夜は、ベッドに寝転んでから色々と考えてしまい、眠れなくなってしまった。
そのため、ルカと寝ていたハルを起こして、一緒に寝てくれるように頼んだので、どうにか眠ることが出来たが、やや寝不足である。
「お迎えに上がりました」
扉を三度叩く音の後、声を掛けてから扉を開けたカイルは、いつも通りの美しい笑みで立っている。
しかし、リアナの横にいるハルを見て少し目を見開いた。
すぐに表情を元に戻すと、何事もなかったかのように、カイルはリアナ達を馬車へ誘導する。
「ハル。馬車に乗るから、小さくなって」
「わかってるけど。でも、それじゃあ捕まえられないから」
リアナのお願いに、ハルは少し渋っている。
ハルがジト目で見ながら話した内容に反応して、カイルは笑顔のまま少し後ろに下がった。
だが、このままではハルが大きすぎて、リアナ達は馬車に乗り切れないだろう。
「ハル…」
「わかったよ、小さくなればいいんだね」
リアナの困った声に反応し、ハルはしょうがないと言った感じで体を小さくしてくれた。
そして、カイルの目の前へ行きひと睨みすると、馬車へ乗り込む。
リアナは会釈をしてカイルに謝り、続いてダリアスとルカも乗り込んだ。
商会から少しすれば、王都のベーレンス伯爵家の本邸にたどり着く。
馬車から降り、ハルは体を大きくしてルカを乗せると、それに合わせて、他の人も歩き始める。
広い敷地の広い屋敷の中に入り、屋敷の休憩室であろう広い部屋で待っていたレオンを見て、横にクレアがいないことに気付く。
「クレアはお茶会へ行っていますので、不在です」
「そうですか」
リアナの視線でなにを考えているのかがわかったのか、笑いながらクレアの居場所を教えてくれた。
ダリアスとリアナはレオンの向かいのソファーへ腰掛け、他のソファーにルカとハルが座っている。
「では、まず説明しますね」
レオンが話し出したので、リアナは了承の意味を込めてうなずく。
「授業料は大金貨二枚。授業は基本的には私が。無理な場合は、カイルがします。部屋の扉は開けておりますが、ご心配なら、隣の部屋の待合室で、誰か控えさせてください」
カイルも授業をすると聞き、少し顔を顰めそうになるのをなんとか耐える。
扉を開けるのはクレアから聞いたことがあるが、人を控えさせるのは初めて聞く。
「控えさせるのは、なぜですか?」
ダリアスの問いに、レオンは困った表情で答える。
「私はなにもしませんが。扉を閉め、未婚の女性と部屋で二人きりになるだけで、関係があると勘違いされる場合が多いからです」
そのような勘違いがあるのかと、少し嫌になる。
しかし、フーベルトと二人きりになっても、きっとデザインを描くのを好きなだけ見守れるのではないのだろうか。
ある意味、ご褒美だ。
それはそれでいいが、貴族はやはり大変なのだと再認識する。
「では、もしそうなった場合はどうなるのですか?」
「それは人によりますね。そのまま責任をとって召し上げる場合も有りますが、大抵、女性は傷物とされ、婚期は遠のきますね」
一応聞いてみたのだが、リアナにとって良くない答えが返ってくる。
今は仕事が楽しいので、傷物として婚期が遠のくのは構わない。
しかし、召し上げるということは、そのまま結婚ということである。
あまり知らない相手と、しかも貴族と結婚など、自分には考えられない。
「絶対に、気をつけます」
「そうしてください」
心に固く決意し、リアナはハルを呼び出せるネックレスへ触れる。
いざとなれば、ハルを呼べばどうにかなるはずだ。
そのリアナの様子を見ていたレオンは少し笑い、ダリアス達へ顔を向ける。
「では、私とリアナは隣室へ移動します。他は、ここでお待ちください。ハルとルカが退屈しないように、良いものを用意しておきました」
隣に続いている扉が開き、ワゴンの上に様々なスイーツが置いてある。
「こんなにたくさん!」
「美味しそう〜」
「お気遣いありがとうございます」
「いえ、なにかあればカイルへ」
ワゴンに乗ったスイーツが目の前の机に置かれて、ハルとルカは声をあげて喜ぶ。
その様子に微笑みながら、リアナは立ち上がる。
だが、カイルはこの部屋に残るらしく、少し心配だ。
しかし、ハルの目の前にスイーツがある限りは、大丈夫だろう。
「リアナ、頑張って!」
「頑張るわ。いい子に待っていてね」
リアナはルカの頭を撫で、食べ過ぎないように父へお願いする。
隣の部屋、執務室のような雰囲気の部屋へ案内され、互いに向き合って授業を始める。
「では、リアナ。最初に渡すものがあります」
最初に渡すものとして、レオンが後ろの本棚から本を取り出す。
よく使い込まれた本が三冊、机の上に置かれる。
「…これは?」
本は大変分厚く、間にメモ用紙のようなものが挟まっていることで更に厚みを増している。
「次までに、全て読んでおいてください。これを元にわからないところや実践を行いましょう」
「次の授業は…いつですか?」
「一週間後です」
この分厚い本を、一週間後までに全て読めというのか。
睡眠時間や休憩時間をかなり削らなければ、読み切ることが出来ない本に、少したじろぐ。
「リアナ、返事は?」
「…頑張ります」
レオンに返事を求められ、肯定できないことを許してほしい。
もしかして、レオンはかなりスパルタな先生なのではないのだろうか。
今後の授業を考えると、少し不安を覚える。
「よろしい。今日は、簡単なことを教えましょう」
「よろしくお願いします」
リアナは持って来ていた鞄から紙とペンを出し、授業の内容を書き込む用意をする。
レオンは一度姿勢を正すと、話し始める。
「まず、先程教えた通り、未婚女性は男性と二人きりになってはいけない理由は教えましたね」
「はい、勘違いされるからですよね」
「その通りです。ここで更に重要になるのは、相手が既婚の場合です。その場合も、気をつける必要があります」
「未婚の場合はわかりますが、既婚の場合であってもですか?」
未婚同士だと結婚になるのはわかったが、既婚相手でも気をつける必要があるのだろうか。
「貴族は庶民のように、一人だけを愛するのは珍しいです。やはり、後継ぎが必要なので。そのために、第二夫人や愛人もいます」
「第二夫人や愛人…」
庶民では一夫一妻が多いため、特に深く考えたことはなかった。
確かに、貴族では第二夫人や第三夫人は、珍しいことでは無い。
庶民からは考えられぬその世界に、自分がそれに連なるには避けたい。
「もちろん、私は生涯クレアだけですよ。たとえ、後継ぎが生まれなくとも、クレアがいてくれるだけで私は幸せです。しかし、そう言った場合もあるということを、しっかりと覚えておいてください」
「わかりました…」
クレアへの愛を宣言され、少し笑いそうになるのを耐え、持って来ていた紙に書き込む。
そんな世界があるのだと遠巻きに見ていたが、そろそろ自分もそういう世界へ少し踏み込むことになる。
しかし、貴族と結婚などしたら、こんな風に仕事はできなくなるだろう。
それを想像したら、自分には耐えられそうにない。
きっと、地獄の日々になる。
「では、次は相手が女性の場合ですね。同性だからと油断しがちですが、こちらも気をつけた方がいい場合も有ります」
「…私はどうすれば?」
少し待ってほしい。
男性が駄目なのはわかったが、それに加えて女性も駄目となると、一体なにを信じればいいのだろうか。
しかし、こういった場合の防ぎ方を考えつかない。
一番は会わないことだが、それは無理な話だろう。
「こういう場合は、既婚の場合は夫を、リアナの場合はダリアスかリックと言った男性を付き人として連れて行ってください」
「これからはそうします」
レオンのおかげで、なんとか防げそうだ。
貴族に召し上げられることは無さそうで、安心する。
付き人を頼むのは、父かリックさんが一番良いが、二人は忙しい立場で難しい場合もある。
こういった場合、フーベルトにも頼めるのだろうか?
あ、でも、彼も代表者で忙しいはずだ。
優しい笑みを浮かべる赤髪の友を思い浮かべ、少し笑みが溢れる。
付き人の件は、父へ伝えることにし、リアナは再び手を動かした。




