02. 寝坊と相棒
「……夢?」
なにか不思議な夢を見た気がする。
懐かしいような、そうでもないような。
あの後、白い聖獣になにをお願いされたのだろうか。
「…とりあえず、起きなきゃ。今日はいつもより早く出発しなきゃいけないし」
今日は人生で一番大事な仕事の日。
なんとか布団から出ると、体を伸ばして、眠気を覚ます。
そして、サイドテーブルに置いていた時計に手を取り、リアナは固まった。
「え?3時?」
3時にしては明るくなり始めたばかりの外に、時計を凝視する。
だが、その時計は手の中で何も音を発していない。
「もしかして、壊れたの?」
時計の背後にあるゼンマイを何回か巻いたが、なにも反応しない。
購入してからそんなに日が経っていないのだが、壊れてしまったのだろうか。
「かわいくて気に入ってたのに。残念だけど、また新しく買い……ん?」
時計を持ち替えた時、少しだけ違和感があった。
その違和感を確かめるべく、時計を観察して気付く。
「なに、この穴…?まるで、噛まれたみたい…」
買ったときには気付かなかったが、このように食べようとされた跡が残る見た目だっただろうか?
リアナの頭の中には疑問が浮かび、解消されることなく山になっていく。
不思議に思いながら、時計を元の場所に戻した。
「とりあえず、今は時間の確認。寝坊はしていないと思うんだけど」
窓に面した机の前に行き、仕事の時に使っている鞄を開くと、手を入れて物を探す。
「たしか、この内ポケットに入れてたはず。…あ、あった」
鞄にしまっていた腕時計を取り出し、時間を確認したリアナの動きが止まった。
「え、嘘でしょ。今、6時20分…?」
いやいやいや。
これは悪い夢では?きっとそうだ。
そう思い、リアナは頬を強くつねる。
「いふぁい…。ということは、もしかして現実…?」
清々しい朝は、どこへやら。
急に冷や汗が出始め、驚きで体が動かない。
本日の目的地への到着予定時刻は、7時30分。
一時間前に出発しようと考え、余裕を持って目覚まし時計をセットしていたのだが、まさかの事態だ。
仕事を始めるよりも前、最終的な打ち合わせを商会長である父と行うことになっており、その予定時刻が迫っている。
「寝坊しちゃった!ねぇ、急がなきゃ……あれ?」
いつも必ず自分を起こしてくれるはずの相棒の姿はなく、そのことにも少し疑問が浮かぶ。
しかし、それを考える時間も惜しい。
本日の出発予定時刻は、残り10分を切っている。
「…大丈夫。大丈夫よ、リアナ。今から急いで用意すれば、間に合うはず…」
自分に言い聞かせるように声に出したが、その声はか細くどこか頼りない。
しかし、言葉にすることで、少し希望が持てた気がした。
「よし」
頭を切り替え、寝巻きから仕事用の服に身を通す。
襟付きの白いシャツに黒のロングパンツ。
それに、今日は深緑色の上着を羽織った。
リアナは着替えると、まずネックレスを着ける。
そして、ほんの少し魔法を使用して自分の速度を上げ、家の中を走り回る。
この魔法を使う代償として、自分の周りに発生した風で部屋の物が散らかってしまうのだが、今は仕方がない。
更に上げた速度で、部屋はもっと散らかっていく。
「今日の目的地は、山を一つ越えて、街を抜けるから…」
今日の目的地までの道を頭の中で整理しながら、軽く化粧をする。
鎖骨の辺りで長さが揃えられた黒髪を後ろで一つにまとめていると、お腹の音が小さく鳴った。
「お腹すいた…。でも、昼まで我慢するしかない」
残念だが、今は朝ごはんを食べる時間はない。
それに、すごい速度で移動をするであろう相棒の速さに、胃がついていきそうにない。
化粧が終わると、箱に入れていた水色の石のついたピアスを身に付けた。
出発前、玄関の壁に掛けた鏡に映る自分の紫の瞳と目が合う。
母と同じこの紫の瞳は気に入っているのだが、周囲にあまりいないので、少し目立ってしまう。
でも、母がそばにいるように感じて、心強い。
「ピアスよし、ネックレスよし」
鏡の前で身だしなみを整えつつ、最終確認として、補助装置をつけ忘れていないか、目視と声出しで確認を行う。
「腕章もつけた。完璧ね」
上着にまだ新品に近い藤色の腕章を取り付け、鞄を肩にかけた。
「いってきます」
誰もいない室内に声をかけて、靴を履き替えると、玄関から出た。
中庭に向かいながら、鞄から出した風除け用のゴーグルを身につける。
山の中、ひっそりと立つこの家は、父が若い頃に初めて建てた家である。
その家を譲り受け、今は相棒とふたりで暮らしているのだが、どこにもその姿がない。
まずは、その相棒を呼び出さなければ。
上着の中に隠れていたネックレスを左手で優しく包み込み、意識を集中させ、魔力を流す。
「リアナ・フォルスターの名に於いて、契約を交わす獣を召喚す」
リアナが詠唱を終えると、風が吹き始め、視界が光に包まれた。
「今日もよろしくね、ハル」
「…んにゃ?」
なにも無い空間から、風と光と共に、一匹の黒猫が現れた。
自分の召喚獣であるハル。
大切な家族で、頼れる相棒である。
全身もふもふの真っ黒な体に、丸いほっぺ。
お腹に白い毛色もあり、そこもチャームポイントだ。
こちらを見つめてくる瞳は、まるで宝石が入っているかのような美しいオレンジ色をしている。
「んー!」
呼びだされたハルは、今は体を伸ばしている。
その姿は、普通の猫と大差はない。
それを見守りながら、リアナは上着の下にあるネックレスに触れる。
「いつ使っても、このネックレスは便利ね」
先程、ハルを呼び出す際に使用したネックレスは、召喚獣を召喚するための魔導具になっている。
本来は、魔術式を専用の紙に書き込んで召喚獣を呼ぶのだが、このネックレスには既に魔術式が書き込まれている。
そのため、魔力を流すだけで、召喚時間を短縮して発動することができる優れものだ。
「よいしょっと!」
変な掛け声と共に、ハルは人間を乗せられるほどの大きさに変化した。
召喚獣は、別名、聖獣とも呼ばれている。
聖獣には、ハルのように大きさを自在に変えられる子もいれば、歌で魔法を補助する子もいる。
「ハル。今日もよろしくね」
「はいは〜い。準備はできてる?」
「大丈夫よ、ありがとう。そういえば、どうして部屋にいなかったの?用事?」
「ちょっとね〜。やなことがあったの」
他の人には、『にゃ〜』としか聞こえないのだが、リアナにはしっかりと言葉がわかる。
召喚獣と契約者は、最初に互いの名と名による契約が結ぶ。
そのおかげで、言葉が通じるようになる。
夢の中では聖獣と話せていたが、きっと夢だったからであろう。
契約の恩恵としては、その召喚獣が得意とする魔法を、少し力を分けて貰い、使用することができる。
先程、部屋の中が散らか……急ぐことができた理由も、ハルの魔法を借りたからである。
「いや、僕のことはどうでもいいんだよ。それよりも、リアナ。どうしたの?予定した出発時刻は過ぎてるし、なんだかもう疲れてるし。本当にただの寝坊なの?」
「ごめん、ハル。これは本当に寝坊してしまっただけなの。なぜか時計が動いてなくて…」
心配そうに聞いてくれたことに少し罪悪感を覚えつつ、理由を正直に説明する。
すると、ちょっとだけ呆れた様子で、ため息をつかれた。
待って欲しい。
時計が壊れていたのは、自分のせいではない。
ハルはそのまま移動する前の準備運動として、身体を伸ばしていたのだが、急に動きを止め、うつむいて考え込む。
「あ、もしかして。リアナが言ってた時計って、あの赤くて硬い、りんごみたいなやつ?」
「りんごではないのだけど…」
確かに、壊れた時計の見た目は、りんごに似ている。
それよりも、なぜ、あの時計を赤くて硬いりんごという認識をしているのだ。
「あれってやっぱり、りんごじゃなかったんだ。味もしなかったし、ただ硬かっただけだもん」
「味…?硬い…?」
うつむいたハルは、とても嫌そうな表情をしている。
しかし、その感想はなんなのだ。
疑いの目を向けるリアナに気付いたハルは、嫌そうな表情から、ニヤリと口角を上げ、牙を出して笑った。
「えへへへ〜」
ハルがこの表情をする時は、なにかを誤魔化そうとしている時の、昔からの癖。
ということは、もしかして自分のせいではなく、ハルのせいなのでは…?
先程のハルの感想。そして、時計のあの噛まれたような穴は、ハルの牙によるものだと考えられる。
これは、確実にクロだ。
「ねぇ、ハル。ちょっと話があるのだけど」
「待って。それより急ごうよ!遅刻しちゃう!」
誤魔化せきれないと思ったのか、ハルは話を変えようと焦っている。
いつもであれば、ここでしっかり問い詰めるのだが、今は時間が惜しい。
仕方がないが、ここは素直にハルの意見に従うしかないようだ。
リアナはハルの背中に乗ると、しっかりとしがみつく。
「じゃあ、今日の仕事が終わったら話そうね。絶対に」
「い、いつもより急ぐから!頑張って、つかまっててよ!」
「…お手柔らかにお願いします」
ハルはその場で一度だけ飛び跳ねると、一歩進むごとに、急速にスピードを上げていく。
目にも止まらぬ速さで駆け出し、ハルと共にリアナも風になった。
ハルは風の加護を受けているため、早く駆けることができ、言葉通り、風になれる。
ハルの風のような速さに耐えながら、しっかりしがみついているのだが、なかなかの強風だ。
ただ、先程の話に焦っているのか、いつもより速度が早い気がする。
思い出して、ハル。
今、私、乗っているから。
そんなリアナの思いは言葉になることなく、強風に耐えるしかない。
この速さには、いつ乗っても慣れないが、予定時刻より早くに着けそうだ。
体に受ける風に吹き飛ばされぬよう、リアナはハルに更にしっかりとしがみついた。