知性場相対性理論
DeadEnd承前2
知性場相対性理論
2015年 01月01日 簑笠府 千兎畝
はじめに
私は知性の発生には誤解があると断言する。そうでなければ説明がつかないか、偶然が重なりすぎるのである。
1:知性の因果
我々は知性とは、人間の脳が他の生物として大きいから、人間の社会が設立したから、成立したと思いがちだが、此処まで来るには運の要素が大きすぎる。もっと世界は必然的に知性と、その環境を整えるのではないかと思われるのである。
ハードがまず完成して、その上でソフトウェアが成立する。この順序を逆にすれば「世界には物理法則として知性が在る」という前提を受け入れるだけでこの世界は容易に成立するのである。
2:場の知性の本質
第二の前提として「知性とは賢い」「知識がある」を知性活動と認めないことである。
真の知性とは賢者と愚者と序列ではなく、此等の役割が潤滑に移り変わることである。
3:ネットワークに因る知性場
第三の前提として、知性の場において「賢くなること」と「愚かになること」は同じ現象を2つに見えるだけに過ぎない。何故なら賢者の言うことを愚者が僅かなりでも理解して、それを実行できることこそが知性という活動の最大の世界への貢献であるからだ。だが、そう考えるとこれらの両者を離れて観測したら、賢者も愚者もまるで知性という場に支配されていて、クオリアが無いが知能は在る存在、いわゆるゾンビに見える。これを哲学的ゾンビという。だが此等には主観も有り、感情も在る。だからこれを相対的にクオリアに強度(エゴの強さ)により、相対的にクオリアがあったり、無かったり見えるのである。
終わりに
世界は、知性は「生まれようとして生まれる」と言うならば、世界に結末が有るならば「もう終わりでいい」として世界の、宇宙の意志が在るのではないか?
もしも、知性全体が「終わり」に向かうならば、其処には終わりが溢れるのではないか?




