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風吹く、あの緑の丘へ  作者: 鳥遠かめ
あとがき
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あとがき

最終日は最終話+あとがきで更新をしています。

最終話がまだの方はもう1ページもどってね。

 風車(ふうしゃ)が回ります。

 ぐるぐると回ります。


 (おか)に、どしんと立つすがたは父のようで、

 風を受け止めるすがたは母のようで、

 両腕(りょううで)を広げて走る子どものようでもあります。


 風車は風の日も、雨の日も休みません。

 はげしい(あらし)がたたきつけても、整備士(せいびし)が手入れを|わすれても、そこにあります。


 風の()く緑の(おか)では、風車が静かに回り続けています。



 完ぺきな大人なんていません。

 けれど、だれだって、上手な大人でありたいと願っています。

 でも、色々なできごとがじゃまをして、うまくいくことはめったにありません。

 うまくいっているつもりでも、じつはそうじゃないことだってあります。

 それは、何が正しいか知っていようが、知らなかろうが同じです。


 完ぺきな子どもだっていません。

 それは、“良い子”としても、“子どもらしい子ども”としてもそうです。

 子どもにも、子どもの都合や事情があります。子どもたちなりの社会をきずいています。

 ときに、大人になりたがりますし、大人でも思わないようなことをしでかしたりもします。

 かれらはそれだけでも両手をいっぱいにしているのに、そこに大人の都合が乗せられてしまうのです。

 本当は、夢や希望を抱きかかえなくてはいけないのに。


 それから……、自分が大人なのか子どもなのか分からない、分からなくなっている人たちがいます。

 大人のように見える子どもや、子どもなのに大人をやらされている子どもたちです。

 かれらは助けてもらうどころか、しかられたり、今日も誰かを手伝い続けたりしているのです。



 とつぜんですが、ぼくには父も母もいません。

 いえ、両親とも生きていますし、血もつながっています。

 これを書いている今は、実家でいっしょにくらしているので、あいさつくらいはしますし、別に仲が悪いとか、にくみ合っているとか、そういうこともありません。


 それでも、ぼくにとって“いない”のです。

 ぼくは、心の中で、親を切りすててしまっています。

 

 小さなころ……小学校に上がるよりも前のころに、家庭に“良くないこと”が起こりました。

 小さすぎて、そのできごとの全容は知りません。

 分かっているぶんでも、ここでお話しするには不向きでしょう。

 とにかく、そういうことで、父はほとんどいっしょにいられなくなり、母は家政婦(かせいふ)のようになり、ぼく自身は子どもであることをうばわれて、毎日ひどい目にあわされてきました。


 それから何年かして、そんなくらしが終わります。

 ぼくにようやく、子どもにもどれるきかいがやってきたのです。

 ところが、母がぼくに求めたのは、“子ども”というよりは、“兄”であり、ひどいくらしの時と同じ“協力者”でした。

 母は母なりに、弟や妹で母親としてのやりなおしを(はか)りたかったのでしょうけど、あのころのぼくは、とてもさびしかったのだと思います。


 色々あって、大人になって、こういうおはなしを書いてみたわけですけど、だからといって、ココロ先生のような人でもありませんし、サイディアさんやベンのお父さんのような人でもありません。

 王さまだってちがうし、悪魔(あくま)のペーポのようにもなれやしない。


 フラハと比べたら、ぼくは、まったくもって良い子ではありませんでした。

 どちらかというと、ミミクに似た子どもだったと思います。

 ですが、どの登場人物にも、ぼくに似たところがあります。


 本当はもう、ぼくには、あのころのぼくくらいの(とし)の子どもがいたっておかしくないのですけど、ぼくはいまだにひとりです。

 ひとりなのですけど……じつは心の中に、女の子がいます。

 それは、つらい日々の中の、あるひどいできごとで生まれたかわいそうな子で、ぼくが大人になるまで、ぼく自身にも無視され続けてきました。

 じつは女の子のほかにも少年や、老人もいます。老人が生まれたしゅんかんがいつなのかも、今でははっきりと分かっています。


 その中でも、いちばん大切にしているのが、女の子です。

 だからでしょうか。いくつもおはなしを書いてきましたが、その子のような女の子がよく登場するのです。

 その子を遊ばせてやり、自由にしてやり、苦しいことを乗りこえてもらって、最後には幸せになってほしいのです。

 書けば書くほど、あのころのぼくの記憶(きおく)や、この女の子の正体がはっきりとしてくるのです。

 くり返し書くほどにはっきりとするので、今回のおはなしは、これまでに書いたおはなしたちに少しづつ似ています。


 ところで、この子どもや老人というものは、だれにでもいるものです。

 子どもでも、心の中に老人が住んでいる子もいますし、おじいちゃんやおばあちゃんの心にも、子どもが残っていることもあります。

 それはフラハやミミクに似た子かもしれませんし、クローディアかもしれません。

 もちろん、それはあくまで例えで、心の中にいますよ、わすれないでくださいねっていう、“おはなし”です。


 ぼくはもう、今さら子どもにもどることはありません。

 ひどいことをした人に復讐(ふくしゅう)をしても、社会に文句を言っても、二度ともどることはできません。

 たとえ、父や母に泣きついたって、二度ともどることはないのです。


 だから、その代わりに、ぼくはおはなしを通して、ぼくの心の中に取り残された子たちをすくえないかと試しています。

 そして、おはなしを通して、ぼく以外の“子どもをちゃんとできなかった人”や、“今まさにできていない子”に「だいじょうぶ? いける?」って聞いてあげたいのです。

 分かっていない大人たちには、問いかけてやりたいのです。


 本当は、直接手助けができればよいのですけど、そこまでりっぱな人間でもありません。

 りっぱどころか、世界がにくくてしょうがなくなることだって、よくあります。


 ひょっとしたら、ぼくのほうが、にくまれているかもしれません。

 おはなしの中で登場人物たちをつらい目にあわせたりしたから、「もうやめて! あんたはいやなやつだ!」と思われたかたもいるかもしれません。


 だけど、つらいことや悲しいこともなしに、「だいじょうぶ?」も「ああ、良かった!」もないと考えています。

 親身になって、切に願うこと。それには、大きな犠牲(ぎせい)がともなうのが現実なのです。


 えーっと、つまり……要するにです。

 ぼくはこういった方法で、だれかの、あなたの幸せを願っていたいのです。

 ぼくの勝手なお願いです。

 あなたが、あなたにとってのフラハを見つけてあげれて、あなたにとってのココロ先生とであえるように。


 あなたたちがちゃんと、幸せになれるように。



 ――風の吹くあの緑の丘から 2021年某日 みやびつかさ

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