プロローグ
「…どうして、こんなことになっちまったのかな」
涙で歪んだ視界の中で彼はそう言った。
薄暗い月夜に煌々とした炎が揺らめく。
僕は何も言えない。
「……誰もが幸せに暮らせる未来ってなかったのかな」
僕は首を横にふる。
温かい涙が一つ、滑り落ちた。
冷たくなった彼の手は動かない。
嗚咽が漏れる。
「.....あったよ、きっと」
蚊の鳴くような声で言うのが精一杯で。
それでも、彼は笑った。
青白い顔で、脂汗がいっぱい流れて、わかっているはずなのに、それでも笑ってくれた。
僕を、元気づけようとして。
「………悔しいよ、もっと、生きたかった」
彼の今にも消えてしまいそうな声は、その言葉を皮切りに聞こえてこなくなった。
僕の手を弱々しく握っていた重みが滑り落ちた。
涙が止まる。
...彼の命の残り火が、かき消えてしまったことが、わかった。
「…嫌だ、」
待って、いかないで、おいていかないで。
「いやだ、いやだいやだ、やだぁぁ...!」
その事実を受け止めきれないまま、必死に彼の体を掻き抱く。
重力に逆らうことのない腕が、だらんと垂れ下がった。
虚空を見つめるその瞳はもう、何も写してはいない。
目の前が真っ暗になるのがわかった。
…嫌だ、と呟く。
頭が、心が、体が、どんどん侵食されていく。
...嫌だ、嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ...........
「あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛!!!」
自分が発したとは思えない咆哮が、燃え盛る楼閣を突き抜けた。
一人にしないで、おいていかないで、そばにいて。声にならない言葉が涙になってこぼれ落ちる。泣きじゃくりながらひたすらに彼を抱きしめた。吹き出した命の源が足元を濡らしていた。
心の内から身を焼きつくすような衝動が理性をこの場に止めていた。
そうでなければ、とっくに気が狂っていてもおかしくなかった。
それほどにまで僕は、この人たちのことを大事に思っていた。
轟々と音を立て崩壊していく部屋の中、その中心に風もなく現れたのは、一人の少女だった。
真白の水干に草履を履き狐の面を付けた、まだ幼い背格好。
僕の唇がようやく動いた。
「…貴女たちの理想の通りになりましたよ」
満足ですか、と怒りを抑えぬまま問えども、少女は何も言わない。
まとわりつく火の粉には目もくれず、凪いだ水面下のように静かな気配を漂わせる狐の面に、憎しみを込めて叫んだ。
「王家は崩壊、その血を引くものは失脚郎党皆殺し!妖界は大混乱に陥り、この有様……これで満足ですか!?」
「……あぁ、御姫様は大変満足しておられる」
「…っの、女狐の奴隷が!!」
「口を慎め、愚か者」
ゴキリと右腕が鈍い音を立てる。
焼けるような痛みが身体中を突き抜けた。痛い。目だけをそちらにやれば、捻れるようにして手のひらがあらぬ方向を向いていた。ひくりと喉が鳴る。
「…くっ…うあぁぁ………!」
「御姫様のことを悪ぅ言う者は、何人足りとも許さない。その痛みを持ってして戒めとするがよし」
「この…外道が……!」
「ウチのことは何を言おうと構わない。元々畜生のような扱いも同然の身であったからな。お前と違うのじゃ」
畜生、という言葉がいやに耳に残った。
腕を押さえながら目の前の少女を見上げる。淡々と話す狐の面には同情の欠片も見えない。額に汗が滲み出る。
「御姫様には反乱分子は即刻排除せよとの命を受けている。しかし流石我々に楯突こうと思うただけはあるな。送った影兵をすべて打ち消してしまうとは」
「…でしょうね。自慢の…家族でしたから」
僅かに狐の面が揺れたような気がした。奥に見える瞳が動揺している。僕が例の反乱分子たちを家族だと表現したことに驚いているのだろうか。なぜか泣きたいような気持ちになった。しかし、そんな少女の表情もやがて消え失せる。
「これから先、妖界を治めていくにはお前らは邪魔じゃ。いや、もうすでに一人か、生き残りはお前のみ」
「…………そうですか」
僕が鼻で笑うように呟いた言葉に、狐の面が反応する。もう少し。
「何が可笑しい。反乱分子の敗北は既に決定している。今さら何かしようとしたところでもう遅い」
「僕は、何も...しませんよ、行動を、起こすとすれば……」
この世界の民たちでしょうね、と少女の目を真っ直ぐ見据え言い放った。少女の瞳が見開かれたことを知らぬ振りをして、続ける。反乱分子と呼ばれた人たちは皆、妖たちに好かれた者ばかりだった。
「君が、慕う御姫様...に、殺されたと、なっては、黙っては、いない...でしょうね。果たして、本当に、平和な世界がっ...築けるのか、どうか....」
「黙れ!」
少女が叫んだ瞬間、一気に闇の匂いが濃くなった。皮膚がピリピリする感覚にどこか懐かしさを覚える。少女の感情が解放されたのがわかった。
「黙れ黙れ黙れ!御姫様は何も間違えてない、全部全部正しい! 御姫様はウチを救ってくださった。誰からも必要とされなかったウチを、大切な存在だと言ってくださった!それを否定する奴等は皆敵じゃ!裏切り者じゃ!消えればいいんじゃ!」
「御姫様は、正しい、...だから、それに仕える、貴女も...正しいってこと、ですか?」
「……な、ならば何じゃ」
「本当に、正しいこと、なんて、誰にも、わからないんですよ。…僕が、正しいと思った、ことで、君を...救えなかった、みたいに」
「…っれ、黙れ黙れ黙れ黙れ!黙れぇぇぇ!!」
怒りにまかせて少女は手に影の矢を作った。こちらを目掛けて飛んできたそれが、俺の身体の中心を貫く。僅かな時の中で交錯する視線。少女の目が驚愕に染まる。なんで、と溢れた言葉の粒に、気づかない振りをした。
膝をつき、無機物と化した彼の上に倒れこむ。
身体中に響く痛みとともに、少女の心に渦巻く悲しみが伝わってくるようだった。真っ黒な世界に呑み込まれないように、同情しないように僕は言った。
「たとえ血の繋がった兄妹であったとしても、僕は君を絶対に許さないよ、笑美」
「……その名はもう棄てたよ、兄様」
繋がりかけたと思った糸は、簡単に断ち切られた。笑いあい、交わした視線はもう二度と交わらない。
視界が混濁する。紛れもない死の予兆がすぐそこまで来ていた。吐き出された赤はやがて炎に飲み込まれていく。その視線の先に、少女はいない。
…笑美は、僕に止めをささなかった。
その優しさに少しだけ、心が救われるような気がした。
「………嘘吐き」
笑美が最期に笑ったことを、僕は知らない。
*
いつだって最善を、最悪はいらない。
君が君でいられない世界なら、僕は何度でも君を救うよ。
それが君にとっての最悪でも、それが僕にとっての最善なんだ。
君が笑顔でいてくれるなら、僕は何だって出来る。
嫌われたって、憎まれたって構わない。
さぁ、目を開けて、前を見て。
君の先にあるものが、どうか幸せでありますように。
眩しい朝日とともに、意識は現実へ引き戻される。