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恋をしたけど 短編〜連載

恋をしたけど実らなくて、恋と知ったけど遅かったみたいです

作者: 藍生蕗


 治療院に勤め始めたのは十歳の頃だった。


 神殿では子どもの健やかな成長を願う祈祷があり、親は必ず訪れるものだ。その際に魔力検査なるものも合わせて行う者が多い。

 ロシェルダの親はどうでもいい事には面倒臭がりであった。

 両親共に魔力など無く、自分たちが子どものころ受けたそれも、検査するだけ無駄だったとぼやくような結果だったから、特に娘にそれを求める事も無かった。


 けれど、何度目かの祈祷のその日は、魔力検査の待ち時間が例に無い程少なかった。

 この後特に用も無かった事もあり、待たないならばと、両親はロシェルダの手を引き検査に臨んだ。


 結果ロシェルダには人を癒す魔力があると分かった。

 それは所謂(いわゆる)医療という、高等な働き口に繋がる能力で、平民として市井で暮らす一家には目眩のするほど幸運なギフトであった。


 神殿もまたその結果に歓喜し、娘を直ぐにどこかの医療機関に奉公に出し、国の為にその力を発揮せよと両親に促した。両親は娘への神託に打ち震え、言われるままにその場でロシェルダを神殿に差し出した。

 

 ロシェルダが未来に描いていたささやかな夢。父母と温かく過ごす下町のパン屋で、いずれ自分も二人のように上手にパンを焼けるようになりたいという望みは、あっさり断たれた瞬間だった。


 ◇


 あれから四年が経った。

 その間ロシェルダは、ただの子どもではいられなかった。

 町の中だけの小さなコミュニティでは済まない場に押し込まれ、礼儀や作法を徹底的に教え込まれた。

 ロシェルダが目指すよう神殿から仰せつかったのは、治癒士(ちゆし)と言うものだった。

 魔力を以って身体に巣食う病魔を打ち破る。

 とは言え、他人の体内に自分の魔力を込めるのは、患者にも負担になる。最初は魔力で身体を診察する事から覚えた。

 扱いに慣れてくると、直接治療行為が出来る様になった。

 重度の患者にはこれが有用であった為、魔力の扱いの、一層の研磨に励んだ。

 

 一端の治癒士になれたのではなかろうか。

 ロシェルダの通う治療院には、ロシェルダの他に先輩である治癒士が一人しかいない。その人はロシェルダに治癒士の指導をしてくれる人であるから、ロシェルダが一人前になれば他の新たな治癒士の指導者として去る事だろう。

 そう考えると寂しく思うが、自身の成長を喜んでくれる師の期待に応えられるのは、ロシェルダにとっても大いに幸せを感じられる時でもあった。



 ある日一人の貴族が治療院に運ばれてきた。

 彼は貴族が抱える持病を発作として起こす、その役割を担う人物だった。

 その病気には未だ明確な治療技術は開発されておらず、彼は侍医から処方される薬で、身体を蝕む病魔を紛らわしながら過ごす日々を送っていた。


 治癒士の先輩から目配せをされる。やってみろと。

 ……きっとこれは試験なのだ。ロシェルダが受ける最後の授業。

 ロシェルダは指先に魔力を集中し、患者の病巣を払った。


 ◇


 貴族の令息はとても喜んでくれた。

 ロシェルダは治療が上手く行った事、そして貴族という人種の、初めて見るその整った造形が作る笑顔に胸を高鳴らせた。

 毎日彼の為に治療を施した。彼が喜べば嬉しかった。

 笑ってくれれば胸が苦しくて、ロシェルダは必死に彼を看病した。


 やがて彼は完治した。

 そうすればあと少し経過を診れば退院となる。

 ……言ってもいいだろうか……

 彼は貴族だ。片恋なんて分かりきってる。でも、口にするだけなら、許されるのではなかろうか……


 ロシェルダはどきどきしながら、彼の病室へ向かった。

 彼は貴族であるから、特別な部屋を割り当てられている。

 緊張に足音を消し、忍ぶようにそこへ向かう。

 けれど、薄く開いたドアからは見たく無いものが飛び込んできた。


 彼を看病する看護士。

 治療院にはそういう人手が沢山いる。

 看護士────彼女は、親しげに彼と話していた。

 ただ、それだけ……

 けれど、自分が数ヶ月通ったあの部屋で、彼にあんな空気を感じた事はあっただろうか。

 愛しげに細められた瞳。幸せそうに緩む口元。

 あんなの……見た事ない……


 思わずよろめき、後ずされば、視界がぶれ、また違うものが見えた。

 繋がる二人の手────

 絡み付くように、しっかりと。


 どうして!

 私が治したのに!


 (くう)をかくように両手を振り回し、必死でその場から逃げた。

 足音を消すなんて、みじめな気遣いまでして……


 ◇


 ロシェルダは落ち込んだ。それしか出来なかったから。

 誰を責めるものでは無いと分かっている。

 勝手に期待して、舞い上がった自分が悪いのだ。



 令息と看護士の関係はあっという間に院内に広まった。

 二人は否定せず、恋人となった。

 二人は真剣だった。

 彼は貴族であったから、彼女もまた貴族にならねばならなかった。その為に養子縁組をし、彼女をその家の養女にするのだそうだ。

 治療院には貴族もいたが、彼女は今後忙しくなるからと、院を辞めて行った。

 後には貴族と平民による、熱い恋愛噂話だけが残った。



 塞ぎ込む思考に追い打ちを掛けるように、師である先輩に別れを告げられた。

 一人前になったから、お前はもう一人で大丈夫だと。


 (……あなたも私を置いていくんですね)


 以前はきっと寂しくとも誇れた師との別れ。

 今はこんな感情しか抱けない自分にもまた、嗤えた。


 或いは師が旅立つ前に相談すれば良かったのかもしれない。

 けれどロシェルダは一人で結論を出し、それに納得してしまった。


 間違えたのだと。

 患者を好きになるなど治癒士失格だ。

 ただ一人を優遇するなど、神から与えられたギフトに対する冒涜だったのだ。だから────

 バチが……当たったのだ……

 辛いと感じるこの胸の痛みこそが、神の与えた罰なのだと────


 ◇


 師がいなくなり、その治療院にはロシェルダしか治癒士がいなくなった。

 感謝されるようになった。

 今までよりもずっと、ずっと────

 けれど誰に対しても平等で、同じように真摯で────

 ロシェルダは心がけた。

 誤解しないように。また、万が一にもされないように。

 もう馬鹿な真似はしないと、自らの心にキツく戒めて。



 やがてロシェルダは、腕はいいが、愛想のカケラも無い治癒士だと、揶揄されるようになった。


 ◇


 二年が経った。

 今日も治療院の一日が始まる。

 いつもと同じように、人に対しては平坦で、病魔に対しては治療技術を研磨する────そんな一日。の筈だった。


「ロシェルダ! 急患よ!」

 往診中のロシェルダに看護士が駆けてきた。

 ロシェルダは、ふと看護士に目をやるも、診察中の、或いは順番待ちをしている彼女の患者に思いを馳せる。

「急患ってどれくらい?」

 どこかそっけない物言いはいつもの事。

 そもそもお金に物を言わせて診察順序を繰り上げる、所謂富豪と呼ばれる者たちが多いのだ。急患を名乗る者たちの中には。

 中には真実急患の者もいるから、はなから全てを否定する事は出来ないが、ロシェルダの目は胡乱だ。

「馬鹿! 私も見てきたけど、全身が真っ黒く覆われて、呼吸困難と意識白濁。重態よ!」

「……全身が真っ黒……」

 言われてロシェルダは眉を顰めた。

 それは病魔だろう。恐らく貴族たちが引き受けている古の人の業。


 この国の貴族たちの中には、昔の穢れを背負う者がいる。そして治癒士の治療にはそれとの戦いも含まれる。二年前にロシェルダが治した貴族の病もそれだった。

 ただ貴族には、本来掛かる治癒士がいるのだと後から知った。高貴な身分を引き受ける治癒士とは、自身もまた高貴な者たちの事。

 以前平民が掛かる治療院に来た貴族は、お忍びの旅行中に病魔が発症したのだとか。それ故に最寄りのこの治療院に緊急で運び込まれてきた。今回もそうなのだろうか……

 ロシェルダは椅子から立ち上がり、待合室の患者を他の医師たちに任せた。


 ◇


 荒い息、霞む視力、胸を掻きむしるその腕も、その人は黒く(ただ)れており、確かに重症なのは一目見ればすぐに分かった。

 この症状は間違い無く病魔だ。

 稀に貴族の御落胤が治癒士の治療を望み、訪れる。彼らは表立って貴族を名乗れない、或いは認知されていない為そんな事も起こる。そう言った記録が平民の治癒士には共有されているし、ロシェルダは一度この病魔を祓った事があるのだ。間違いが無い。

 しかし、この手の治療に厄介なのは人手が望めない事だ。

 身体全体を黒く染めげるこの病魔は、感染るものと信じる輩が多い。また、医学的に否定されていると知っていても、これを目の当たりにして手を出せる猛者はなかなかいないものだ。実際前回の時も誰も手を出せず、ただただ目の前の病人に対し、恐怖に駆られるだけだった。

 ロシェルダはここまで彼を運んで来た貴族の従者に指示を出し、自らも手を貸しながら何とか彼を病室へ運び込んだ。


 自分を呼びつけた看護士が医療器具を持ってきてくれたが、足が竦むようで室内には踏み込めないようだった。

 彼は今ももがき苦しみ、けれど叫びたいのを我慢するように、身を捩って苦痛をやり過ごしている。

 ロシェルダは看護士から器具を受け取り、しばらく立入禁止だと告げ、部屋を閉めた。


 カツカツと靴を鳴らし、患者のベッドの横に立ち、見下ろす。ロシェルダは病魔を片手間で治療出来るような、高位の治癒士ではない。全身全霊を掛けて治すのだ。

 大きく息を吸ってそれを吐き出す。

 ────集中!

 目を見開き、ロシェルダは病魔を睨みつけた。


 ◇


 お貴族様というのは皆整った顔をしていらっしゃるようだ。

 治療が終わり、出てきたのは美しい青年だった。

 少年と呼ぶには些か成長している、かと言って大人のような力強さがある年齢にはまだ達していないような、そんな年頃。

 そして美人。男性にこの言い方は合ってるのかと内心首を傾げるも、彼にはよく似合っているようだったので、まあいいかと納得する。


 目を開けた彼は驚いていた。

 長年自分に巣食ってきた病魔の気配が身体から消えていると、とても喜んでいた。

 ロシェルダは経過観察の為、一週間程彼の主治医をやっていたが、特に問題も無さそうだったので、後は医師に任せた。

 彼の世話を焼きたい看護士たちが沢山いるとは人伝に聞いた。

 本来会える筈もない年若い貴族に、二年前のように自分が見初められるかもしれないのだ。浮かれ期待しない筈は無い。

 だがロシェルダはその事を思い出せば苦い思いが心を締める。

 女性として、何の価値も無かった自分。

 自分は治癒士で、それ以上でも以下でも無い。

 (……でも、今度は間違えないもの)

 同じ轍を踏まないだけ自分は成長している。

 自分の心の機微にほっと息を吐き、ロシェルダは自身の患者を診続けた。


 ◇


「……何してんのお前?」

 俯ける顔に追い討ちを掛けるように、ソアルジュは吐き捨てた。

「正直あれの何が良かったのかサッパリ分かんねーんだけど」

 以前、平民の学友を名乗り、笑いかけたら侮蔑の目を向けられた。

 目の前で顔を伏せる従兄は両手で顔を覆い、項垂れる。

「……分かってるよ……でも……」

「子どもが出来たんなら責任取れよ」

 ううとかああとか言う呻き声が、指の隙間から漏れ聞こえてくる。

「馬鹿な奴」

 遠慮なく切り捨てさせて貰う。

 こいつは平民の女に入れ上げて、孕ませた。

 数年前に真剣に愛し合っていると、必死に両親を説得しようとするも、こいつの賢明な両親は了承しなかった。

 どこの世に伯爵夫人に何の教養も教育も無い、ただの平民女を据える貴族がいるんだ?

 しかもあの女、泣いたり縋ったりするのは上手かったが、努力や根性という物は持ち合わせていないようだった。

 何の取り柄もないくせに努力もしないのか。

 なのに、自分が悪いのだとさめざめ泣いては、従兄の関心を引いて彼の立場を悪くした。

 従兄には自分が彼女を守るという正義感しか無かったようで、目も当てられ無かった。それだけ彼女が愛しかったんだろう。

 けど、まあ、きっかけは何だったか。

 確かこの従兄に弟が産まれた事だ。

 夫人は年が行っての懐妊に恥ずかしがったが、伯爵は喜んだ。喜んだついでにその子に爵位を譲るからお前は好きにしたらいいと、従兄を突き放した事だろうか。

 自分が爵位を継ぐ事を、当たり前として享受していた貴族の身分を、取り上げられると眼前に突きつけられ、彼はようやっと目を覚ました。真実の愛とやらが霞む程に、それはもうはっきりと。

 まあ、こいつも一時は真剣だったから女に手を付けたのだろうが、早まったのは否めない。自分ならもう少し上手くやるところだ。

 (馬鹿な奴)

 本気でそう思う。そして余計な事をした奴だとも。

 ……でも。

 良い事もしてくれたかと思い直す。例えば今回の事。

 先の事は分からないが出る杭は叩き潰し、粉砕しておくべきだろう。

「まあ、お前にはガキの頃構ってもらったからな。このまま二人仲良く平民落ちして野垂れ死ぬなんて寝覚めも悪い。しかも奥方は身重ときた。手を貸してやるよ。けど今回だけだからな」

 はっと顔を上げる従兄の憔悴仕切った顔に笑いかける。

 感極まって泣く彼に、ソアルジュは内心意地悪くほくそ笑んだ。


 ◇


「……え? 具合が……悪いと?」

 気まずそうに医師が頷く。

 ロシェルダは困惑に瞳を揺らした。

 治療は完璧だった……筈だ。一週間経過を診て、彼もどこにも異常は無いと言っていた。

 それから一週間、また様子がおかしいとは……

「でも、病魔の気配……肌が黒く染まるような症状は出ていないのでしょう?」

 問いかけに医師は再度頷く。

 体調が悪いのは風邪でも引いたからではなかろうか。

 病魔を祓う際に彼の身体は隅々まで診たが、他に異常は無かった筈だ。

 こちらも心当たりが無いと顔を向ければ、医師は肩を竦めた。

「分からないんだ。俺たち医師はお前みたいに便利な治療法は持ってないからな。けど、患者の訴えを無視も出来ないだろう」

 相手は貴族。すこしばかりの僻みも交えて医師は口にする。

 お前なら行けば分かるだろうと。

「そうですね……分かりました。午後に様子を見に行きます」

 ロシェルダの返事に医師はほっと息を吐き、頼んだぞと踵を返した。

 なんだろう……。

 ロシェルダもまた疑問に首を捻り、歩き出した。


 ◇


「ディル・アイナス様」

 ノックと共に声を掛ければ、どうぞと返事が返ってくる。

 ドアを押し開ければ、いくらか懐かしいその部屋に少しだけ目を細めた。……二年前は、幸せな気持ちで毎日通っていた。

 ふと息を吐き気持ちを切り替える。

 ベッドに目を向ければ、あの時とは違う貴族の青年がそこに背を預け本を読んでいた。

「ああ……」

「こんにちは、アイナス様。遅くなりまして申し訳ありません。体調不良を訴えられていると聞きまして、少し見させて貰えればと……」

「ああ、うん。ごめんね、ありがとう」

 申し訳なさそうに眉を下げる青年に、いいえと答える。

「不安な思いをさせてしまい申し訳ありません。ただあの時確かに私の処置は正しく行われました。その後何か身体に変化があったのかも知れませんし、もう少し様子を見させて下さい」

 ロシェルダの言葉に青年は嬉しそうに目を細めた。

「ありがとうロシェルダさん」

「いいえ、仕事ですから」

 きっぱりと答えるロシェルダに、ディルは目を瞬いた。


 ◇


 ……変な奴。

 ディルは内心、けっと毒づいた。

 ただ優秀な奴だ。

 そう思うと少しばかり興味が湧く。

 自分を今まで診て来た治癒士は全て解雇してやる。

 何の結果も残さず、城をふんぞり帰って歩くあいつら。効きもしないまずい薬を散々飲ませやがって。おかげで死にかけた。許せない。


 イライラとベッドで立てた膝に肘をつく。

 そうすると、自分の腕が目に入った。

「……」

 この腕が黒く染まらない状態で目にするのは、果たしていつ振りだっただろうか。

 誰も彼もが嫌がった。触れる事も。近づく事も。

 お抱えの治癒士とて、治療時ですら触れもしなかった。

 なのにあの女────

 ちっと舌打ちが出る。

 少しばかり愛想良くしてやろうと笑いかけてやったのに、何の反応も示さなかった。面白くない。

 病魔が発症する前は、皆自分の興味を引きたがった。触れたがった。なのに────

 国は病魔を発症する貴族は国の誇りと讃える。そして医療費と称した多額の賠償金を渡すのだ。或いはこのまま断ち切られ、刈られる命に。

 軽度であれば、またそのまま進行が進まなければ遠ざかる者はいなかっただろう。

 だが全身を黒く染め、まるで火炙りの後の木炭のようなこの身は、誰からも唾棄された。

 忌々しい。

 吐き気がする。

 そして許せないと強く思った。

 自分ばかりが業を背負い、何故こいつらの為に死んでやらなければならないんだ。生きてやる────

 絶対に取り戻してやる。無くしたもの全て!


 ……そう思って、たのに……


 ◇


「お熱は無いみたいですね……」

 ロシェルダはぽつりと呟いた。

 せめて身体に何かしらの兆しが出てくれればいいのだけど……

 再びディルの主治医となった二日目。今日も彼の身体の異常に何も気づけない。

 困った顔でディルが笑う。

「すみません……病は気からって言うし……元気が足りないのかな……」

「元気……ですか。そうですね、何か趣味で持ち込めそうな物がありましたら、院長に相談しますよ」

「……えっと趣味、かあ……分かりました、何か考えてみます」

 そう言ってニコリと笑う患者に、ロシェルダは一つ頷いて、それではと退室の意を唱えた。

「え、もう……?」

 どこか戸惑ったようなディルの様子にロシェルダは眉を顰める。

「何かありましたか?」

「あ……いや……」

 ではまた明日と口にしてロシェルダは部屋を出て行った。


 ◇


「……」

 色々とおかしい。

 ロシェルダを見送り、貼り付けておいた笑みを消せば、残るのは憮然とした表情だけだ。

 あの女、何故自分に媚びを売らない?

 病魔を祓い美貌を取り戻した自分には、ここでもかつてのように人が群がった。高貴な身分、美しい姿。なのにあいつ……

 折角城の治癒士を全員追い出し、あの女を連れて帰ろうと思っているのに。この様子では全く上手く行く気がしない。このままここを去る事は簡単だ。だが、認めたくは無いが怖かった。もしまたあれがこの身を蝕み、あの苦しみを再び味わう事になったら……

 またここに来て、あの女に治して貰えばいいのかもしれない、けどもし、いなかったら?

 そもそも折角良い治癒士を見つけたのだ。絶対連れ帰りたい。だが反応が芳しく無い。いや、まだ城に連れて行くとは言っていない。言えていない……何故だ。


 花や菓子をお礼と称して贈り、休憩室や診察室に顔が見たくなったと(うそぶ)く様子で会いに行った。

 けれど、どれも驚くか困るかの反応しか見られない。

 ……男が嫌いなんだろうか。しかし自分は女をも凌駕する美貌の持ち主だ。当てはまらないだろう。しかし……

 ディルは思わず頭を抱えた。


 仕方が無いので自分を世話したがる看護士の一人にそれとなく聞いてみる。治癒士に嫌われてるみたいなのだけれど……と出来るだけ殊勝に。

 看護士はふふ、と笑って肩を竦めた。

「隠しているようだけど、あの子、貴族の方に一度失恋しているんですよ」

「え?」

 思わぬ言葉にディルは瞳を瞬かせた。

「ディル様と同じようにここに運ばれて来た患者の方で」

 言いながらクスクスと笑い出す。

「治した自分が好かれる筈だなんて勘違いして、愛想も無いし、魔力以外何の取り柄もない子なのに、馬鹿みたいですよね。そんな理由ですから、ディル様が気に病む事なんて何もありませんよ」

 ね、と頬を染めて笑いかける看護士には、生返事しか出来なかった。


 思い当たった。

 自分がここに来た理由。

 平民に素晴らしい治癒士がいると。

 素晴らしいとはどう素晴らしいのか。

 腕か、人格か、容姿か。

 大して興味を持てなかったのは、その頃特に自分の体調に兆しが無かったから。

 けれどそれから暫くし、ディルは目も当てられない程に病魔に冒された。蝕まれ、機能停止していく身体。必死で治療を試みる王室御用達の治癒士を横目に、役立たずと回らぬ舌で罵った。やがて彼らは匙を投げ、ディルに蔑みの目を向けて来た。

 どうせもう治らない。

 そんな思惑が透けて見え、背中を悪寒が走った。

 ふざけるな……

 こんな、ところで────

 死んでたまるか!

 ディルは必死に頭を巡らし、過去に聞いた平民の治癒士の噂に縋ったのだ。

 従兄の────オランジュの病魔を祓ったと言われる平民の少女に。


 ◇


 オランジュが平民の女を連れ帰る奇行を行った事で、彼とはずっと疎遠だった。噂だけは聞こえて来たのだけれど。

 平民の治癒士についてそれとなく探りをいれてみたが、王家の治癒士は皆鼻で笑っていた。自分がその場にいれば治せたもの。ただ居合わせただけの平民に、余りある評価が美談として持ち上がったに過ぎないと。

 別にディルはその言葉を頭から信じた訳では無かったが、今の自分には必要のない情報だと流してしまった。或いは所詮平民。まあそれもそうかと得心したのもある。

 それでも今では少女を覚えていた自分を絶賛していた。


「失恋ねえ……」

 誰もいない病室でディルはひとりごちる。

 従兄は貴族らしく整った顔立ちをしていたが、別に有能では無かった。見掛け倒しだ。見る目も無く、今はうっかり出会った真実の愛とやらに手足を絡め取られ、身動きも出来なくなっている。

「ソアルジュ様」

 音もなく近くに佇む従者に視線だけ向ける。

 誰もいないという認識から外れた自分の護衛。

 ここについて来たのもこいつだけだった。なんだと視線で問いかけると彼は静かに口を開いた。

「いつお戻りになるのです?」

 ……それは城へ、という事だろう。

 自分だって分かっている。快復したのだ、さっさと戻りたいと思っている。けど、どうしてもあの少女を連れて行きたいのだ。

「治癒士の少女をお望みなら、命令されればよろしいのでは?」

 思わず頬が引き攣るのを感じる。

 ……それは、面白くない。

 何故か、彼女に自分から来たいと言わせたい自分がいる。

 だが、このままこうしてあれこれ画策したところで、少女が首を縦に振る気はしなかった。

 ……まだオランジュが好きなんだろうか。

 苦い思いが胸を占める。気に入らない。

 ……あの女に自分を望ませる方法。

 面白くは無いが、やはり権力を使わせてもらおう。その上で彼女自らディルを望めば、結果は同じ事か。

 ふんと意地悪く口元を歪める。

「そうだな、父上に書状を届けてこい」


 ◇


「城へ……?」

 院長室に呼び出されたロシェルダは、そこで告げられる命令に困惑した。

「ええ。今ここに入院なさっている方が、やんごとなき方だと言う事は、あなたも薄々気づいていたのではないかしら?」

 おっとりと笑う院長にロシェルダは眉を下げる。

 ……さあ?

 そもそも、あまり関心を寄せないようにしてきたのだ。知る筈が無い。

「それでね、あの方はもう戻らなければならないらしくてね。けれど今の体調を不安に思っているようなの」

「……」

 ロシェルダは唇を噛んだ。

 確かに彼の訴える、不調の原因を突き止められないでいる。

「ですが、私がここを離れたら……治癒士は私しかいないのに」

 ロシェルダは呟くように口にした。

「そんな心配をあなたがしないように。と、あの方が臨時で治癒士を派遣して下さるそうよ」

 ロシェルダは、はっと顔を上げた。

 その様子に目を細め、母親が言い聞かせるように院長は口を開いた。

「あなたにはひと月だけ城に滞在して欲しいそうよ」

「ひと月……ですか」

「ええ。だから大丈夫。誰もあなたの居場所を奪ったりしないわ」

 その言葉にロシェルダは、頬が熱くなる思いがした。

 院長には分かるのだろう。ロシェルダにはこれしかないのだ。だから今の場所を守るのに必死で、それだけが自分の生き甲斐で……失くしたく、無い事を。

 俯くロシェルダに院長はただ黙って待っている。

 ……この人がこういう時は、有無を言わせないのだ。分かっている。

「分かり……ました」

 諦めたように告げれば、院長は満足そうに頷いた。

「あなたは神殿で、一通りのマナー教育を受けていましたね。子どもの頃にきちんと学んだ事は案外身体が覚えているものです。ですが、一応復習しておいた方がいいでしょう。教師を用意しますから、よく学んでおくように」

 その言葉にロシェルダは瞳を揺らした。

「いつ、行くのですか?」

「三日後ですよ」

 にっこりと答える院長にロシェルダは瞠目した。


 ◇

 

「ソアルジュ。ディルはミドルネームなんだ」

 にこにこと機嫌が良さそうに告げる青年に目を向けてから、ロシェルダは頭を下げた。

「ロシェルダと申します、ソアルジュ様。今まで働いたご無礼をお許し下さい」

 やんごとない身分というのがどれ程のものかは分からないが、ロシェルダはあまり褒められた対応をしてこなかった。良い機会なので謝っておく。けれどその言葉にソアルジュは眉を下げた。

「偽ったのは私の方だ。なのに不敬だなんて言う筈が無いだろう」

「いえ……ですが……」

「いいんだ」

「……はい」

 真剣な顔で告げられ、ロシェルダは一つ頷いた。

 馬車の中にはソアルジュとロシェルダ、それに彼に付き添って来た従者。

 城まで────王都までどれくらいかかるのだろう。

 ロシェルダはぼんやりと窓の外を仰ぎ見た。

 かつて自分の生まれ育った町から、この治療院に来るまでの距離と、どれくらい違うのだろうと。


 院を発つ事が決まり、ロシェルダは同僚たちからあれこれと話し掛けられた。まさかロシェルダが貴族に見初められるとは思わなかったのだろう。

 けれど、向こうの都合で場所を変えて治療をするだけだと話せば、今度は助手として自分を連れて行って欲しいと、多くの女性に懇願された。

 院長が叱咤しその騒ぎは収まったが、続いてネチネチと嫌味が続いた。出立の話を聞いて三日後というのは、どうやら僥倖だったようだ。

 規則正しい馬車の揺れに瞼が重くなる。

 昨日まで自分の患者への挨拶回りと引き継ぎ作業でくたくただった。

 重くなる思考に身を任せ、閉じた瞳の向かいに、困惑した顔のソアルジュがいた事には気が付かなかった。


 ◇


「本当に完治したのか……」

 玉座で父が驚いている。

 彼を囲む近衛や護衛たちも等しく息を飲む様に、ソアルジュはいくらか溜飲が下がった。

「ええ、ですがしばらく経過を見させて頂きたいのです」

 その言葉に父が眉根を寄せた。

「まだどこか悪いのか?」

「いえ、ですが、治療院のベッドの上で過ごすうちに、私は働きすぎだったと気がついたのですよ」

 ニコリと笑えば、父は顎を撫でつつ、ほうと呟いた。

「少し休みを下さい」

 息を吐きながら背をもたれさせる父は、探るようにソアルジュを見る。

「平民の娘を連れ帰ったと聞いているが」

「ええ、治癒士の娘です」

「……オランジュのような事は許さんぞ」

「まさか!」

 ソアルジュはありえないと笑おうとした。けれど何故か上手く笑えず、困ったように口元を歪ませる事しか出来なかった。

「良い腕を持っているのですよ」

 取り繕うようにそんな言葉が出る。

「そうか……まあいい許そう。よく戻ったな、ソアルジュ」

「ありがとうございます」

 鷹揚に頷く父にソアルジュは深く頭を下げた。

 下を向くその顔は笑っていたけれど、どんな顔を作ったのかは自分でもよく分からなかった。

 

 ◇

 

 自室として与えられた客間で、ロシェルダは呆けていた。

 (……何これ……)

 左右を見渡せばドアがある。入って来たドアは背後にあるから、あれらは何処に続くのだろう。

 入り口が三つある部屋なんて聞いた事がない。

 困惑するロシェルダを見透かしたように年嵩の侍女が声を掛ける。

「あちらは寝室。あちらはバスルームにございます」

 優しく微笑まれ、顔を俯けてから何とかお礼を言った。

 そ、そういえばベッドが無い……。そうか、貴族の部屋はこんなに広い上に続きに……ええ?! そんなものまであるの?

 混乱の元、得心しそうになって、ロシェルダの胸に嫌な予感が過ぎる。

 貴族……よね。

 おどおどと出入り口付近に立ち竦むロシェルダを、侍女はエスコートするようにソファへ導いた。

 そのまま流れるような所作で紅茶を淹れ、部屋の端で静かに佇んでいる。

「……」

 飲まないのはマナー違反だろうか……

 講師に習った作法を必死に思い出し、何とか形になるようにと、とにかく飲んだ。

 そのまま一息吐き、佇む侍女を振り返りロシェルダは聞いてみた。

「ソアルジュ様というのは……何者なのでしょう」

 その問いに侍女は僅かばかり目を見開き、そっと微笑んだ。

「この国の第二位王位継承権を持つ御方です」


 ◇


 ソアルジュは王の子だ。

 けれど所謂寵姫の子だった。母は妃では無い。

 幼い頃、正妃の嫉妬にこの身が危うくなり、父はソアルジュを王弟の養子にした。城から遠ざける為に。

 しかし王位継承権は剥奪されず、長年ずっと正妃からは疎まれていた。彼女は王女しか産まなかったので、継承権第一位は叔父であり義理の父だ。

 まあ、正妃が娘の一人を女王にするか、自分の傀儡となる次期国王を欲しているのは知っているが、どうでもいい事だ。

 以前ソアルジュが古の人の業を発症した際に彼女の興味は失せた。

 国として、それは栄誉の証と称えられるが、それを背負った者が王になった記録は無い。ソアルジュの継承権はまやかしだ。誰も本気にしていない。

 自身もまた王などに興味は無かったので、最初はこの病に感謝もしたものだった。

 気楽な役回りだった。

 容姿に恵まれ権力を持ち、業を背負った貴族と賞賛と畏怖すら手に入れた。

 けれどその病はそんなソアルジュを嘲笑うように掌を返し蝕んだ。

 ずっと好きにしてきた。

 与えられる物が多かった。

 誰も彼も自分を見た。

 羨望と嫉妬すら魅力とし、(おもね)り擦り寄ってくる者たち。

 ソアルジュはそんな者たちを嗤い、欠片も意に介さなかった。

 やがて一変する世界で、今まで自分が向けて来た眼差しで、奴らに見下ろされていると知った。暗闇に落ちていく自分を嘲笑う者たち。

 そうして自分は呆然と、闇に溶けた。


 

 はっと目を開ければ、見覚えのある部屋だった。

 けれど病室では無い事に動揺し、部屋を見渡す。

 何故────?

 何かを探すように首を巡らす自分に戸惑いつつも、戻る意識に帰ってきた事を思い出し安堵する。あの少女と一緒に。

 はっと笑うように息を吐き、ソアルジュはソファに座り直した。

 馬車の移動に疲れたのだ。

 それで謁見の後仮眠を取った。

 馬車では眠れなかったから……


 思い出せば苦い思いが浮かんでくる。

 密室で二人きりなのだ。この場合従者は数に入らない。

 移動の最中、診察やら勉強やらの為に、今まで割けなかった時間を補うべく、思う存分会話を楽しもうと思っていたのだ。

 少しでも彼女が自分に興味を持つように、いくらでも優しくしてやるつもりだった。なのに……

 未婚女性が異性の前で無防備に寝るな!

 流石にどうすればいいのか分からず、暫く顔を凝視してしまった。

 従者に目を向ければ、こちらもさっさと目を閉じ、我関せずを貫いている。ソアルジュは馬鹿馬鹿しくなって自分も寝ようと腕を組んだ。

 けれど少女を連れ出せた事実が急に実感出来、嬉しくなって全く寝付けなかった。揺れる馬車で一人、黙って少女を眺めていた。


 ◇


「殿下、ご快復おめでとうございます」

「殿下、祝賀会などを催すご予定は?」

「殿下、城に美しい王子が戻ったと、令嬢たちが大喜びで────」

「殿下、うちの娘などは、殿下の快復祈願に神殿へ日参しておったのですよ。親の贔屓目を抜きにしても、本当に気立ての良い子で────」

 また人が寄って来た。

 ソアルジュは以前のようにフワリと微笑む。

「私などが皆様のお心を煩わせていたなんて、それだけで心苦しく思います」

 空々しい台詞は以前と変わらない。

 なのにあの頃よりもずっと虚しく感じるのは何故だろうか。

 あの頃はこんなやりとりも楽しかった。人格者の仮面を被り、人を嘲るのが堪らないと繰り返していた。

「騒ぎ立てる必要などありません。皆様の善意に感謝し、健やかであるようにと、神に祈りを捧げたいと思います」

 儚く笑む美貌に、貴族たちは顔を赤らめ、ありがとうございますと去って行った。


 ◇


「つまんねえな」

 仕事を放棄した為する事が無い。

 思わず出たつぶやきは、品性の無さから従者に咳払いをされた。

 それもこれもあの治癒士の少女のせいである。

 ……こう言っちゃなんだが、あまり構ってくれないのだ。

 自分専門の治癒士だと言うのに、何をやってるんだ、あの娘。

 イライラと机を指先で叩いていると、呼んでいた人物がやって来た。失礼致します、と下げる頭を見ながら机に肘をついて彼女を見た。

「お呼びですか? 坊っちゃま」

「坊っちゃまはやめろ」

 彼女はリサ。ロシェルダの侍女を任せている。ソアルジュの乳母だった人物であり、従者アッサムの母でもある。────信用に足る人物だ。

「彼女はどうだ?」

 そう言うとリサはクスクスと笑った。

「とってもいい子で。正直坊っちゃまがあんなかわいい子を連れて来るなんて思いませんでしたから、意外で嬉しくて。本当に、今までのお嬢さん方なんて────」

「今何をしてるんだ」

 被せるように口にするソアルジュに、リサは肩を竦めて苦笑した。

「図書室で読書をしておりますよ」

「何だと?! またか?」

 ここに来てからロシェルダは、図書室に通い詰めている。……自分への往診は午前中に一度、僅かな時間だけ。なのに図書室では城の侍医を見つけ出し、交流を深めたりしているらしい。

 この城では医師を数多く抱えている。貴族の持つ病に怯えるが故の、国の特性だろう。彼らの担当はそれぞれ違っているが、城では城下に住む平民も診るべく門戸を開いているのだ。

 侍医の中にはそれに参加しない気位の高い人物もいるが、彼らを分け隔てなく診る医師も当然いる。

 ロシェルダが親しくなったのはそう言った人物だった。見識が深まるのだとか言っていた。その人物の診察に付き合っている為忙しく、ソアルジュとの時間はほぼ無い。

 ……彼女は確かソアルジュの為に登城したと思ったが。

 最初その話を聞いた時は……驚いた。

 どうしてそんな馬鹿な事をするのだ? 与えられた境遇は素晴らしいものの筈だ。何故それを享受し、大人しく囲われていない?

 だがそんな明け透けな言葉を口にするのは、何となく憚られた。だが平静を装い理由を聞いてみれば、ソアルジュの為だと返された。

「殿下の不調の原因が分からないのです。私の出会ったことの無い病気なのかもしれません。ハウロ医師のご指導を受け、少しでも見識を広げたいのです」

 眉を下げそんな言い方をされれば駄目だと言える筈も無い。

 それとなく他の医師に掛かってはとも勧められたが、あんな奴らに触られたく無い。必要無いと断っておいた。

 そしてそれ以外は図書室で読書────もとい、勉強。

 ……自分の為だそうだ。

 自分の為と言われても、全く嬉しく無いのは何故なんだ。

 何より交流出来なければ、彼女をここに留め置く事が出来ない。猶予はひと月しか無いと言うのに。くっそう。

 項垂れるソアルジュにリサは困った子を見る目でため息を吐いた。

「殿下、好きならそう言った方がいいですよ?」

 その言葉にソアルジュは固まる。

 は?

「ロシェルダさんは全く気づいてらっしゃらないようですからね」

 ……何を言ってるんだ

 困惑したまま目を向ければリサは楽しそうに口元を綻ばせた。

「あら、無自覚だったんですか?」


 ◇


 図書室で勉強していたら、何故か雨が降って来たようで全身水浸しになった。

 ロシェルダは、はあと重い息を吐いた。

 自分が城に来て一週間が経った。

 治療院を出発する頃の嫌味など瑣末(さまつ)なものだったと思う程、貴族というのは嫌がらせが得意なのだと思い知った。

 第二位王位継承権を持つソアルジュは美しい青年だ。それは貴族の基準でも当然そうだった。……というか、人間ならば等しくその容姿に目眩を覚える程に美しい人なのだ。

 ロシェルダはソアルジュが連れてきた平民の娘。

 嫉妬に駆られた令嬢たちから、嫌がらせを受けるのは当然で、しかも平民の為手加減は一切され無かった。

 何とか被害を免れた本を胸に抱えて、いつもの道をとぼとぼと歩く。

 ロシェルダは与えられたあの部屋が好きでは無かった。分不相応で居心地が悪い。だから図書室で過ごしたかったのだが、こんな事が続くのならその選択は愚の骨頂である。

 仕方が無いのでハウロ医師の元へ向かう。

 彼は身分差を気にしない快活な医師で、ロシェルダに治癒士のイロハを教えた師とどこか似た人物でもあった。そのせいで何だか甘えてしまって恐縮しているが、本人もまた世話焼きな人物で、平民の身分で城に放り込まれたロシェルダを案じ、よく声を掛けてくれた。

 彼は爵位を息子に譲った後、看護士である奥方と二人診療室を城から賜り、その続きの間で暮らしていた。

 そこを目指し歩いていれば、たった一週間で見知った顔に声を掛けられた。

「あら、どちらにお急ぎ?」

 思わず身を固くするロシェルダを、令嬢とその取り巻きが一斉に囲んでくる。

 今まで取り巻きが傍らで説明していた話を繋ぎあわせれば、ロシェルダの眼前で仁王立ちになっている彼女は公爵令嬢で、ソアルジュ殿下の婚約者なのだそうだ。

 ……でも他の取り巻きが、それは既に破棄していると余計な一言を付け加えていた。

 それはともかく、だから何だと言いたい。

 平民のロシェルダには関係の無い事だ。

 だが、ソアルジュが自分を連れ帰ったせいで、公爵令嬢を蔑ろにしているから責任を取れとか、目障りだから去れとか散々文句を言われている。

 言われなくてもひと月経てば帰るのだ。だが貴族への発言には許可がいる。貴族たちが自分より高位の貴族に気安く話し掛けてはいけないのと同じように。

 しかし、この令嬢たちにいちいち許可を得て話しかけたところで、話が通じるとも思えない。仕方が無いので今までやり過ごしてきた。暴言は聞き流し、暴力も酷いもの以外は受け入れた。

 見つかったが最後、彼女たちの気が済むまでこれを繰り返す事は、既に身に染みている。

 顔には出さずロシェルダは内心で盛大に嘆息する。

 (早く帰りたい)

 黙っているのも彼女たちはイラつくようで、今日もロシェルダは、容赦なく突き飛ばされた。


 ◇


「何をしてるんだ!」

 聞いた事のある声にはっと息を飲む。

 周りの令嬢たちからもまた、動揺に身を竦めるような気配を感じた。

「君たちは何をしているんだ! 大勢で寄って集って! 恥ずかしく無いのか!」

 怒鳴る声に令嬢たちが震え出した。

 正直彼女たちは言い訳のしようもないほどやりすぎていた。

 ロシェルダは今うつ伏せにされ、踏んづけられていた。

 上に乗っていた足がサッと取り払われるも、このタイミングでは流石に遅いだろうと思う。

「君! 大丈夫か!」

「大丈夫です」

 ロシェルダは即答し、直ぐに身を起こした。

 泥まみれの顔と服を見られたくなくて、声を掛けてきた人物から目を背ける。

「いいからこちらを向きなさい」

 有無を言わせず顎を取られれば、あの人の顔が目の前にあった。

 眉間の皺が気になるけれど、二年経った今も優しげで温かい雰囲気の、陽だまりのような人。……なのに自分はこんな惨めな姿で、今でも変わらず……

 ロシェルダは恥ずかしさに唇を噛み締めた。

「やめなさい、唇が切れている。悪化してしまうよ」

 咎める声は固く、それでも労るような視線がロシェルダに向けられていた。

「へ、平民の女が不敬を働いていたのです! だから、躾を……躾をしただけです!」

 裏返る寸前の声はやっと絞り出されたもののようで、ただの子どもの言い訳のようだった。

「躾が必要なのは君たちのようだが? 僕も貴族の端くれだ。君たちの家名くらい覚えている。今後実家の沙汰があるまで謹慎でもしている事だな。処分が寛大になるかもしれない」

 ひっと息を飲む声が聞こえたかと思えば、令嬢たちはバタバタと立ち去って行った。

「立てるか?」

 頷き、差し伸べられた手は取らずに自力で立つ。

 何と答えるべきか逡巡していると、思わぬ声が割って入った。

「あら? あなたロシェルダじゃない?」


 ◇


「知り合いか?」

 彼の優しい声にロシェルダは震えた。

 声のした方へ振り返る事は出来ない。この声もまたロシェルダの中に残り続けた記憶だったから。高く、甘い声。

「ええ、あなたもご存知でしょう? 治療院で治癒士をしていた娘だもの」

「……えっ」

 (……どうして)

 ロシェルダはきつく目を閉じた。

 (どうして言うの?)

 こんな無様な姿なのに。

 何も持たない平民の娘なのに。今更、何を、どうして……。

 ……それでも恋心だけは消えてくれない、無為の存在なのに……。

 だが彼は喜色を浮かべロシェルダの肩に両手を置いた。

「そうか! 君が! 会えて嬉しいよ! 退院時に挨拶が出来なくて、お礼もまともに言えなかった事、心残りだったんだ。あの時は本当にありがとう……でもその前に、その格好を何とかしないとね」

 ロシェルダをこのままにしておくのは如何なものかと思ったようだ。自分は一体どんな有り様かのか。慌てて被りを振る。

「いえ! 大丈夫です! お世話になってる方がいますので、そこに行きます! それに治療は……私の仕事ですから……神に賜ったギフトを人の為に扱う事は、治癒士の義務です」

 何とか口元に笑みを浮かべる。

 そんなロシェルダの様子に彼もまた目を細めた。

 けれど後ろの彼女は思わずといった様子で吹き出した。

「オランジュ! それは可哀想よ? この娘はね、あなたの事が好きだったんだから」

 はっと目を向けた先には、綺麗に着飾った令嬢がいた。

 確かに治療院で一緒に働いていた看護士。

 けれど今は見違えるように美しくなり、そして、お腹の辺りはそれと分かる程張り出していた。

 ロシェルダの見開いた目を見て彼女は勝ち誇ったように口元を吊り上げた。

「あ……お子様……が……」

「あ、ああ」

 少しだけ困惑した様子でオランジュは口籠る。

 一つ息を吐いてから、ロシェルダは笑顔を向けた。

「おめでとうございます」

 その顔に一瞬驚いた顔をした後、オランジュもまた笑顔を見せた。

「ありがとう」

 ロシェルダはほぼ意地で笑顔を作った。

 踏みつけられボロボロの自分。過去の苦い失恋。

 誰よりもそんな自分自身から目を背けたくて取り繕った。

 けれどオランジュはそんなロシェルダに優しくふわりと笑いかけた。

「その……君の気持ちに気づかなくてごめん。僕は、実は以前君に嫌われていると思っていたんだ。だから最後に会ってくれないのかと。……応える事は出来ないけれど、その気持ちはとても嬉しい。だからありがとう。そして君にも良い出会いがあるように願うよ」

「……」

 折角取り繕った表情から力が抜けるのを感じる。

 どうして彼は……いや、だから彼を、だろうか。

 ロシェルダはそのままくしゃりと顔を歪めた。

「オランジュ様。私はあなたに会えて、幸せでした。私こそ、本当にありがとうございます」

 そういうとオランジュは少しだけ困った顔をして、うんと口にした。

 だが次の瞬間彼は横に飛んでいった。

 はっと息を飲む間も無いままに、彼は先程のロシェルダのように地面にうつ伏せで倒れている。

「……なっ」

 慌てて駆け寄ろうとするロシェルダの腕を、後ろで誰かが捕らえた。

 その誰かを見たであろう、オランジュの妻の顔が喜色に染まる。

「まあ! ソアルジュ様!」

 思わず振り返れば、怒気を孕んだソアルジュの顔が間近にあった。


 ◇


「ソル……?」

 うつ伏せのまま顔だけ持ち上げ、オランジュは口にした。

「オル! ここには来るなと言った筈だ! 忘れたのか?!」

「まあ、ソアルジュ様。何を怒ってらっしゃるの? お久しぶりですわ、サレリアです。以前あなたに美しいと言って頂いた。その節はそっけない態度を取ってしまって申し訳ありませんでした。私はまだ貴族の作法には慣れておらず、あなたに王族の血が流れているだなんて知らなくて。それに熱のある眼差しに、つい勘違いしそうになってしまったのです」

 恥ずかしそうに扇をいじり、サレリアは少しずつソアルジュに、ロシェルダに近づいてきた。

 だからこそロシェルダは困惑した。オランジュが、彼が害され未だ倒れたままなのに、妻であるサレリアは彼で無くソアルジュしか見ていない。

 ロシェルダはオランジュに駆けつけたい衝動のまま、身を捩ってなんとかソアルジュの手を解こうとした。なのにソアルジュはロシェルダの腕をしっかりと握り締め、その力は全くぶれない。

 睨みつけるべく振り向こうとした瞬間、ロシェルダの頬に衝撃が走った。

「は……」

 息を吐くように声が一つ落ちる。

 見上げればサレリアが扇を握りしめ、冷たい目でロシェルダを見ていた。

「いい加減その見苦しい姿をソアルジュ様に晒すのをやめなさい! ……ソアルジュ様、この者の処遇をあなた様自らが行う必要はありませんよ。この女はつい今程私の夫を誘惑していたいやらしい婢女(はしため)なのです。全く、こんな見窄(みすぼ)らしい娘。あの人は本当に人がいいんだから」

 困ったように笑い出すサレリアをソアルジュは眉間に皺を寄せ見下ろした。

「そのお人好しの夫は後ろで転がったままのようだが? お前は手を貸してやらないのか?」

「そんなの貴婦人のする事ではありませんわ」

 にこにこと笑いかけるサレリアにロシェルダの腹に怒りが込み上げた。

 こんな、女に……

 歯を食いしばった瞬間、ソアルジュがロシェルダを両腕で囲い、きつく抱きすくめた。

「オル……お前とは長年良い親類関係を築いてきたと思っていたが、それも今日限りだ。……もう二度と会わない。会いたく無い。私の前から消えろ」

 耳元で唸るように口にするソアルジュがどんな顔をしているのかは分からない。けれどオランジュの顔が驚きから悲痛なものに変わり、ロシェルダの心も軋んだ。

「そんな! ソアルジュ様!」

 喚くサレリアには目も向けず、ソアルジュはロシェルダを抱えるようにしてその場を後にした。


 ◇


「ソアルジュ殿下!」

 引きずられるように歩きながら、ロシェルダは声を張って彼の名を呼んだ。

 全く反応が無かったその呼びかけに、ソアルジュはようやっと気づき、はっと身を竦めた。そのままどことなく気まずそうにロシェルダに視線を落とし、ぎょっと目を見開いた。

「なんだその格好は?」

「はあ?」

 あまりの言いようにロシェルダは間の抜けた声を出す。

 そもそもロシェルダは、ソアルジュが勘違いをしているのだと考えていた。

 あの場では、見ようによってはオランジュがロシェルダに暴力を振るったと……そう思ってしまったのも無理が無いのかもしれないと、急いでソアルジュの誤解を解こうとしていたのに。

「君をそんな目に合わせた奴には必ず罰を与える」

 据わらせた眼差しでソアルジュは口にした。

「いえ……それは、オランジュ様が……」

 続きの言葉を紡ぐ前に、ソアルジュはロシェルダの顎を荒々しく掴み、叫んだ。

「その名を口にするな!」


 ◇


 どうして! どうして!! どうして!!!

 もう二度と会わないように遠く離れた領地と小さな爵位を与えてやった。

 余計な真似をしたあいつ。

 彼女から恋心を奪って行った。

 自覚した途端にこれだ。リサのせいか、彼女を罰するべきか。

 どうして? 自分とあいつの何が違う?

 同じ病に罹り、同じ場所で会って、身分だって同じ貴族だ。

 どうして……まだあいつをあんな目で見るんだ。

 あいつは温厚なだけの甘ちゃんで、他に取り柄なんてない。自分で蒔いた種を自分で刈る事も出来なかった。見る目だって無い。なのに……

 今まで抱いた事が無い、こちらを見ない者に対する憤り。

 目眩が起こりそうな程腹が立っているのに、どうして胸の内だけはこんなに苦いんだ……


 ◇


 自室に戻ればリサが血相を変えて近寄ってきて、ソアルジュの腕からロシェルダを攫い、あれこれ世話を焼いている。

 改めて見ると彼女は酷い有り様だった。

 後ろ盾の無い平民を城に放り込めばこんな事になるのか。

 ソアルジュは唇を噛んだ。

 上等な部屋を与えたつもりだった。そしてそれを彼女が喜ぶ筈だとも。だからこそ護衛なんて気が回らなかった。

 そもそも何でもないと、あの時父に告げた自分の言葉に偽りは無かった。気づかなかっただけで。

「ロシェルダ……」

 途方に暮れた思いで名前を呼べば、怯えたようにその肩が強張った。

 リサがそっと肩を撫で、ロシェルダを宥める。

 恐る恐る振り返るその顔は、眼差しは、先程従兄に見せたものとはまるで違う。先程の憤りはどこへ行ったのか、ソアルジュの心は暗く沈んだ。


 ……あの時、全てが無くなった。

 積み上げて来たもの、与えられてきた幸運。

 最後にそれら全てを取り上げられ、全く顧みられない、唾棄される存在に成り果てた。そしてそのまま閉じる筈だった自分の人生。

 走馬灯のように流れるそれらの記憶の中で、触れた事の無いそれが自分を救った。

「もう大丈夫ですよ。私があなたを治します」

 黒く染まった、元の姿など見る影もない自分の身体に、その人は恐れる事なく触れて来た。

 そうして温かい手で、慈愛の眼差しで、懸命な処置で、自分は救われた。

 (救われたんだ……)

 暗闇から引き上げられたのは、身体だけでは無かった。

 光に触れたのは心の方だった。

 気づかなかった従兄は馬鹿な奴だ。

 けれど感謝もしている。彼女を自分に引き合わせてくれたから。

 もう自分が闇に囚われるのも、光の祝福を受けるのも、彼女次第。けれど……

「すまなかった」

 ソアルジュは儚げに微笑んだ。

「勘違いしたんだ」

 その言葉にロシェルダは僅かに身動ぎした。

「君が……怪我をしているようにも見えたけど、オランジュに掴まれていただろう? 困らされているのかと思った」

 ロシェルダは少しだけ瞳を揺らし、思い当たるように顔を俯けた。

「でも……蹴らなくても……」

「走った勢いで足が出ただけだ」

 ケロリと口にすれば、従者の親子が何とも言えないような顔で口を引き結んでいる。

「後で謝るよ」

 そう口にすれば、ロシェルダはホッと息を吐いて表情を緩めた。

 ソアルジュは意を決してロシェルダに近づく。

 けれど一瞬見せた彼女の怯えるような表情は面白く無くて。

 そのままロシェルダの元で跪けば、更に困惑も加わり彼女の顔は益々強張った。けれど今は……

「本当は君を庇ってくれたんだろう? 自分の従兄の事なのに頭に血が上って分からなかったんだ。君にも迷惑を掛けて申し訳なかった」

「え、ええ……」

 そう言うと彼女は少しだけ意外そうに首を傾げ、小さく笑った。

 今はまず信頼を得ないとならない。手遅れになる前に。

 受けいれる事しかして来なかった自分が、初めて歩み寄りたいと思った人。警戒を解いて、気を緩ませ、自分に向ける眼差しをあれ以上のものにしたい。

「良かった。ありがとうございます殿下」

 そう言って笑うロシェルダの目元が優しげに細まり、ソアルジュもまた嬉しくなって笑った。


1/6(水) 19:00に後編を投稿します。

この短編を前編とした、「連載」区分での投稿です。

続き読んでも良いよ。という方は是非お立ち寄りください(´-ω-`)


※ 短編界隈にあるルールを知らず投稿してしまい、事故ってしまった方へのお詫びの気持ちです。ご容赦下さい。


【完結】恋をしたけど実らなくて、恋と知ったけど遅かったみたいです

https://ncode.syosetu.com/n1924gs/

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