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下篇

 雨が降った。大雨だ。しかし街は濡れていない。濡れているのはわたしたちだけだった。

 朝から雨が降っていて、わたしたちは“買い物”に行くことを億劫に思った。いまは別の店を贔屓にしており、そちらは前の店より三倍も遠い場所にあるのだ。何故店を変える必要があったのかという顛末は缶詰と深い関わりを持っている。どうやら缶詰を盗む不届き者がわたしたちを除いても相当数いたようで、激怒した店長の手によって缶詰売場は有刺鉄線を張りめぐらされてしまったのだ。これでは良心的な客も入れないのではないかと思うが。

 雨は降り続けている。


 点けっぱなしにしてあるテレビから、お天気キャスターの声が流れた。

「本日は全国的に晴天で、まったくもって抱き枕カバーの天日干し日和……」

「ええ」天使が聞き咎めた。「晴天ん?」

「全くそうは見えんがな」賢者――別に彼の本名が賢者というわけではないが――も窓越しに外を見ながら呟く。「この街は全国に入っていないらしいぞ」

「お天気って」わたしも文句を言った。「この人の頭の中のこと?」

 しかし、彼女の言うことは正しかったのだ。間もなく賢者がその証左を発見した。

「あっ。あいつ傘を差さずに歩いておるな。よほど雨が好きなのか」

 続いて天使が発見。

「あっ。あの人も」

 そしてわたしも。

「ややっ。三人目」


 われわれはそろって首を傾げた。そういう冗談めいた仕草ができるのも、まだ事を軽く見ていたからなのだが。とにかく、外に出てみることにした。間違いなく曇天は雨を注いでいたが、それが濡らすのはわたしたちだけだった。通行人はピーカン照りのパントマイム。

「どういうことだ」賢者が唸った。「まるでわしらのような雨だ。人には気づかれない」

 そうは言っても不可思議な目に遭ってきた三人である。たまにはこういう日もあるさと言い合いながら家へ戻った。見たり触れたりした感じ、幽霊的な部分を除けば通常の雨と変わりない。それなら止まない筈はなく、止めば店へも行けるだろうさ。

 しかし、止まなかった。


 不快な気分で目が覚めた。耳に水が入ったようだなあと思っていたら本当に入っていた。既に五センチほど浸水していたのだ。飛び起きて外を見る。昨日の雨が可愛く思えるほど勢いは増し、不可視の水が遊泳可能なほど溜まっていた。

「ちょっと」思わず叫ぶ。「予報と違うじゃないですか」

 わたしの後で起きた二人も驚愕していた。雨は止むものだという認識が水に流される洗礼を受けたのだ(洗礼に水はつきもの)。

 テレビを点けてもやはりいつもの天気予報しかやっていない。お天気キャスターのはしゃぎ声。「少々天気は崩れぎみ……」崩壊しているぞ! 「ところによっては雨降りが……」ここのことだ!

 どんどん家の水かさは増してゆく。同時に外の水かさも増しているから逃げ場はない。明日は快晴と笑顔で告げるお天気キャスターはテレビごと水に浸かってしまった。天使は錯乱して気象庁に抗議の電話を掛けようとしているし、賢者は今から般若心経を暗記しようとしている。混乱のきわみの只中、わたしは何をしていたのかというと、ノアの真似事をおっ始めようとしていた。

 

「なにそれ」繋がらない電話をちょうど水面に叩きつけたところで天使が言った。「子供用プール?」

 水中での心得を羊水の中に置いてきたわたしにとって困難な探索ではあったが、何とか見つけ出したのだ。賢者もさっぱり捗らない暗記作業を中断し、こちらへやって来た。

「これ、膨らまします」チューブに息を吹き込みながら説明する。ふーっ。「すると浮きます」ふーっ。「乗ります」ふーっ。はあ。「助かります」

「そう上手くいくのか?」と賢者は始め訝っていたが、どう考えても般若心経を覚えるよりは有意義であると気づいたのか手を貸してくれた。

 夏に発売され冬にはワゴンに突っ込まれていたであろうチープなビニールを三人で広げ、間隙無く空気を注入する。わたしよりは水泳が得意だった天使がエアポンプを見つけてくれたおかげで、作業は滞りなく進んだ。水かさには滞っていてほしかったが。

 そして完成した。


 ほとんど天井に迫るほど水は溜まっていた。窓を開けベランダから脱出。さらばわが家よ。しばしの別れ。空き巣を入れることなかれ。

 表は凄絶だった。一兆本のホースを一兆口の蛇口に繋ぎ、バルブを締め忘れて旅行に行ってしまったような有様と言ってよい。全ての景色が磨りガラス越しのように見えた。だがわたしたちにしか見えず、触れられない水なのだ。現に、今海底ではゴミ回収が粛々と行われている。

 降り注ぐ水が既に溜まっている水を叩く轟音以外、何も聞こえない。賢者が何か呟いていた。読唇術の心得があるわけではないが、多分こう言っていたと思う。

「方舟に乗るのがこれだけじゃ、世界は終わりだな」

 いやほんとにね。


 水位の上昇は留まることを知らない。いやちょっと、知らなさ過ぎではないか?

 このままでは雲に突っ込んでしまうぞ。

 地上に聳えるあらゆる建造物、山を遥かに超えてしまい、もう見渡してもあるのは海のみだ。息苦しいほどすぐ上に雲がある。画材店の絵の具を片っ端からパレットにぶちまけかき混ぜるとこういう色になるのだろう。つまり真っ黒だ。

 わたしたちは三人とも、押黙って何も言わない。というのも何か言ったとしても聞こえないからだ。天使と賢者が何を考えているかは分からないが、わたしはこんなことを考えていた――飛行機が来たらどうしよう。

 そしてとうとう雲に突入した!


 雲中の出来事について、実はあまり語ることがない。真っ暗で何も見えなかったのだ。その代わり、雲上について語ることは山程ある。その山はオリンポス山よりなお高い。

 不可視の水に押し上げられた、子供用プールで遊泳中のわれら三人組。やがて雲すら突き抜けたその先で見たものとは……?

 空。それから太陽。そしてもちろん隕石。

 隕石。

 そう、隕石だ。

 雲を抜けた途端宇宙的スケールのパノラマが視界に入った、わたしたちの驚きようをちょっと想像してみてほしい。いや、やっぱりしなくていい。どうせできないだろうから。とにかく、仰天したのだ。


 隕石の表面は痘痕のようなクレーターで覆われており、集合体恐怖症患者が見たなら即死するだろうと思われる。その巨大さについては再現が容易い。オレンジを持って眉間に乗せれば良い。それくらいの大きさだ。こんなものが頭上にあると知っただけで全人類は精神的ストレスにより絶滅するであろう。しかしそうなってはいない。話題にならない筈がないにも関わらず。ということは、これも、ああ!

「わたしたちにしか見えないんだね」天使がため息をついた。

 黙示録のページに付け加えよ。「見よ、天から巨石が迫り来る。しかしこれを見るのは幽霊、天使、賢者、泳ぎが苦手な青年のみである」


 下は海、上は隕石。かなり絶望的な状況であるように思えるし、実際そうなのだが、どういうわけかわたしはそこまで暗い気持に囚われてはいなかった。それどころか実に奇妙なことに、唐突に現れた真実が胸を打つのを感じていたのである。

 見えないとはいえ、この隕石は突如として現れたわけではあるまい。明らかに急ごしらえされた物ではないからだ。あの灰色は、宇宙でも最も古い灰色の一つに違いない。無数のクレーターは数限りない衝突の出来事を示唆していた。そして丸と四角の定義を合成したような形状そのものも、悠久の時を歩き擦り切れた旅人の趣がある。遥か前から、わたしが生まれるどころか、地球が着床する前から飛行し続けていたのだ。

 わたしが知らなかっただけで。


 そしてそれに気づいた瞬間、我が「無知」の象徴たる隕石は消失した。これ自体は喜ばしきことだが、問題は板子(ビニールプールだけど)の下の水すら消えてしまったところにある。水が消えてしまうと、後には落下だけが残ることになり、それはちょっとまずい。

 今さら自分が地上から数千メートルも離れた場所にいることに気づきパニックに陥ったらしいビニールプールは、わたしたちを差し置いて西方の方角へ逃走した。極楽に着けば良いのだが。しかし今心配すべきなのはもちろんそんなことではない。

「落ちている」この状況にあるわりに、賢者は冷静だった。その証拠に、前言を訂正さえした。「いや、墜落している」

「あのさあ」天使は笑っていた。やけくそなのだ。「高いとこ苦手なんだよね」

「うん」わたしは何故か空気抵抗を減らそうとして、自分を鉛筆だと思いこむ努力に勤しんでいた。「落ちたらヤバいもんね」

「もう落ちてるよ」

「だからヤバいって言ってんの」

 この世の誰か、直ちに我らを救けよ。


 当然そんな幸運は望むべくもないと知っていたわたしたちは、コンクリートジャングルに咲く三輪の彼岸花となる前に打開策を発見しようとした。そんなことを言ったってそれこそ望むべくもない幸運というやつであって、若干の諦めが三人の間を偏西風を隔ててなお漂っていた。だから天使がぼそりと言った一言を、諦念を表すものに過ぎないと当初過小評価したのも無理ないことだった。

「飛べたらいいのに」

 その言葉を三人は飲み込み、しばらくしてから口の中に戻し、そうやって幾度か反芻するうちに、ようやっとしみ出してきた栄養素が一つ。その化学式を言語化すればこうなる。

「飛べるじゃん」

 天使の天使たる所以が、彼女の背中でひらめいていた。


「重い」わたしと賢者を上に抱えた天使はうめいた。「BMIの数値は?」

「やせ」わたしたちは即答した。天使はため息をついた。

 どうやら彼女の羽は本物だったらしく、わずかながらも落下速度が減衰したことを感じられた。あと一時間くらいこうしてから地上に降りれば、なんとか内臓破裂くらいで済みそうだ。助かったぜ。

「それは助かったと言わないぞ」賢者がぼやいた。「しかし他に手もないな」

「どっちにせよだめならさ、降りてくんない?」天使が怒って言った。「汗だくで死にたくないの」

「どうせ血まみれになるんだし」わたしも投げやりに言った。「同じだろ」

 そう言い合う間にもどんどん落ち込む我らのフィート。そろそろ生存確率が小数点第一位を切ったのではないか? だが諦めはしない。この世には天使も賢者も幽霊も見えない人も水も隕石もあるのだ。も一つそこに希望を加えても良い筈だ。


「そうでしょう? 賢者さん」

「は?」彼は何が何だかわからないといった表情。「すまん、何も聞いとらんかった」なら仕方ない。

「賢者のかっこうなんだから、魔法くらい使えませんか?」

「おお!」既に我らを放り出した天使の目も輝いた。「そうだよ、わたしの羽も本物だったんだからさ」

「あんまり自信ないのだが」頬を掻いて賢者は言った。「ま、やってみて損はなかろう」

 彼は一つ咳払いをし、呼吸を整え、集中した顔つきとなった。頼む。我らを救けてくれ。ただのコスプレでないことを証明してくれ。

「%#●☆※!」

 賢者が突然わけのわからないことを呟いた次の瞬間、わたしは月面に到着したと思った。下(と思われる方向)から吹き上げる風は和らぎ、一瞬呼吸が止まる。地球が拘束の手を緩めたのだ。

「わあ」天使が歓声を上げる。「ふわふわするね」

「重力を弱めましたか」わたしも頷いた。「さすが賢者と呼ばれるだけはありますね」

「お前らが勝手にそう呼んでるだけだろうが」賢者は笑った。「しかし、助かったな」


 いつの間にか雲は退き、陽光に道を譲った。わたしたちはその中を緩やかに降下し、降臨の絵画の如き一場面を演じていたに違いない。モザイクのように見えていた地上、その街が次第に細部まで高解像に変わりゆく。ああ。二度とは帰れぬと思っていた。そこに、あと、もう少しで……

 

 太陽が月に舞台を譲る頃、ようやく我らは地上に降り立った。そこは街の真ん中で多くの人が行き交っていた。サラリーマン、学生、若者、老人、目のあるものは全てこちらを向いた。

 見えるようだ。


 

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