上篇
人に気づかれなくなってしまった。鏡やガラスには映るから透明となったわけではないはずだ。しかし歩く人も走る車も構わず向って来る。外出はしばらく控えようと思う。
何故こうなったか考えると昨日の夢が思い出された。奇妙な夢。モノクロで空気すら陰鬱。病院の屋上に立って街を見ていた。足元の建物が病院であると理解していたのだ。夢見にままあることではある。
目の前のビルが燃えていた。おそらく金が焦げ付いたのであろう。粉飾決算の灰が舞っていた。また月が落ちてくるのを見た。神酒の海が滴り落ちている。その滝が落ち着いた道路には巨大な肝臓が駈けつけしきりに飲んでいた。かわいそうに。あの肝臓の持ち主はもう長くなさそうだ。そう思った途端、どこかで何かが倒れる音がした。相当な大きさであるらしい。腹に響く鈍い音だった。衝撃で地面は激しく揺れ、病院はわたしを支えきれなくなり地面へ落とした。激突に恐怖したが、あくまで夢であるためそれなりの恐怖だったのであろう。痛みはやはり感じずに目が覚めた。これも夢見にままあることだ。
するとごみ集積場にいた。家から最寄りのところだ。何故ここで寝ていたのか首を捻っていると誰かの手がふかふかした不燃ごみの袋を腹に積載。既に気づかれなくなっていたのだ。
一日経ったがまだ信じられない。それこそ夢を見ているようだ。そう思って先程から百回も頬をつねっているが、この現実は揺らがない。そろそろ受け入れたほうが良いのだろうか。
夢が原因だと思うのはそれがかつてないほど奇妙で、細部まで思い出せるからだ。もしかすると更に妙な夢をかつて見ていたのかもしれないが、もう覚えていないのでやはりあの夢が最も特異だったのだと思う。
生活は不便になってしまった。何せ誰にも気づかれないのだ。買い物すらできない。実家へ戻っても親にすら気づかれない。今までは変わらぬ日常を退屈と嘆いていたが、現状はさらに嘆かわしい。戻れるものなら戻りたい。
家にある食料が尽きてしまった。仕方なく外へ出る。意識を研ぎ澄まし衝突を未然に防がねばならない。……よし。脇を通り抜けた。……おっと。もう少しでぶつかるところだった。
店が見えたがまだ気を抜いてはいけない。何と言っても駐車場が一番危険に満ちているのだ。姿が見えている者ですらしょっちゅう事故に遭っている。まして存在を認知されないとくれば一層危険は高まっている。だが幸いにして無事店内に入れた。車と比べれば人にぶつかられることくらい何ともない。だから他の客に何十回接触されようと平気な顔をしていられた。
陳列棚から缶詰を取り袋に詰め込む。窃盗である。許せ。他にどうしようもないのだ。自分の姿が見えなくとも手に持った物は見えるのではないか、という試みは昨日行っている。まるで気づかれなかった。身に着けた物にまで性質は伝播するようだ。缶詰を選んだのはせめてもの良心だと自らに言い聞かせる――長期保存ができ、つまりそれだけ再犯までの期間を延長できるのだ。
帰り道で天使に出会った。白い羽。光輪。あれが天使でなくて何だろう。振り向くと少女だった。目が合う。おそらくこちらが見えている。そしてわたしと同じくらいに驚いていた。どうやら似た状況下にあるようだ。
彼女もある日唐突に気づかれなくなったという。その日はわたしがごみ集積場にいた日と同じだった。そのことを話すもふしぎがられる。彼女は家で目覚めたそうだ。そしてその日からずっと外で過ごしているとも言った。
「家には帰りたくないの」
彼女は俯いた。その理由は先程からちらりと見えていた腕や足の痣と関わりがあるのかと思ったが、口には出さなかった。その代わり、別の言葉をあてがった。
「良かったら家へ来ない?」
消費者が二倍になると当然食料も二倍で減る。というわけで間もなく再犯へ向かわねばならなくなった。天使――本名が天使なのだ――は自分が行くと言ってくれたが、危ない目に遭わせるわけにはいかない。肝が氷に変るような体験を幾度もしたが、また何とか無事に駐車場へ辿り着いた。
すると賢者が居た。老人。古めかしいローブ。杖。白い髭。あれが賢者でなくて何だろう。彼は車に轢かれかかっていた。慌てて救出に向う。
「助かったぜ小僧」
彼は深遠の響きがある声で礼を述べた。わたしと同じ目的で店へ来たらしい。要するに窃盗だ。
「わしに気づくやつがいたのだな」
彼の事情も天使と同じだった。しかも外で目覚めたという。だがそれは彼が元々外で寝起きしているためであった。ホームレスなのだ。
「堂々と食い物をかっぱらえるのは便利だがな」
彼はそう言って笑ったが、少々淋しげな含みがあった。それにより、言おうか言うまいか迷っていた言葉を口に出す決心がついた。
「良かったら家へ来ませんか?」
狭さには目をつぶってください。
消費者が三倍になると当然食料も三倍で減る。あっという間だ。冷蔵庫の空虚に身震いする前科二犯のわたしは再び犯罪歴の行を増やさねばならなくなった。しかし今度は共犯者がいる。天使と賢者だ。彼彼女も店へ行く理由はただ一つで、そのほうがより多くを盗めるからである。
夢、ゴミ集積所、不可視化、天使、賢者。意識野に残っていた処女地にこうした未経験を五本もぶっ込まれ、わたしは半ば酸欠になりつつもまだ正気を保っていた。しかし店へ行く道中、その道端に狂気を発見してしまった。「こんにちは」と声をかけてきたその人には、え、あ、首、首が無かったのだ! わたしは幽霊というやつが昔から非常に苦手だったのを思い出した。
ぎゃっと叫んで飛び退る。天使もそうした。賢者はそうしなかった。生者へのそれと同じ調子で「こんにちは」と返答したのだ。紳士的で立派で褒められた行いだが相手は首が無いのだぞ!
「危ない!」という声の突風。わたしと天使の後ろから車が迫っていたのだ。その声のお陰で、彼女の手を取り脇へ避難するというアクロバットに成功した。この感謝の気持を伝えるべき相手とは? そう、幽霊である。あの声は彼(幽霊は男だった)が発したものだったのだ。五秒足らずの出来事であったが、わたしの幽霊に対する懐疑と恐怖とを払拭するには事足りた。天使と共に何度も礼を言い、もう墓地から帰還しても玄関に塩を撒かないことを誓った。
それからしばらく奇妙の共同生活が続いた。奇妙が集って生活しているのだから奇妙の共同生活である。その奇妙たちはだいたい家の中にいて、テレビを見たり互いに話したりしていた。あ、その二つの割合が等しいような言い方をしたが、そんなことはない。あり得ざることがあり得ることを知ってしまったわたしたちに、少々番組は退屈。ということで、喋ってばかりいた。たまに幽霊の客人が訪ねたりもして、愉快な時間を過ごすことができた。
ついこの前まで存在していることすら知らなかった人たちだ。しかし話ははずみ笑いは絶えなかった。どうしてこんなにも心地良いのだろうと思う。おそらく、みな同じ気持を抱えているからであろう。形状や質量の違いはあれど、その部分が架け橋となって間を取り持つのだ。わたしたちは誰にも気づかれない。無視されているに等しい。しかしこれはいまに始まったことではないのだろう。初めて明瞭に現れただけであって、きっと、もっと以前から……
明日の下篇は二倍くらい面白いはず。