75 狂犬
みき、喫茶店『テト』のドアをあけると、ちょっとさがして、すぐに見つけた。いつものテーブルまであるく。
「お、きたね」と、みい子。「昨日はおつかれさま」
「ありがとうございます」と、会釈して、「見にきてくださってたみたいで」
みき、となりのテーブルにすわって、ブレンドコーヒーとチーズケーキを注文する。みい子は、さっきまでパソコンとにらめっこをしていたみたいで、つかれたかおをしている。
「新曲ですか?」
「そうなんだよね、納期がちょっと」みい子、ほんとうに憂鬱そうに、「もうやだ、学生時代にもどりたい……」
「た、たいへんですね……」
コーヒーとチーズケーキがはこばれてくる。みき、コーヒーに手をのばそうとして、
「あ、そうだ。わすれないうちに」
ちいさな紙袋をとりだして、みい子に手渡す。
「なにこれ?」
「クッキーです。うちのクラスが文化祭でだしたものなんですけど、けっこう好評で……よかったら、と思って」
「えー、ほんと? めちゃくちゃうれしい!」みい子、よろこんでくれて、「昨日、意外と時間なくてね。文化祭まわれなかったんだよね、ほとんど」
「そうだったんですか?」
「なんか急に打ち合わせがはいってさ。昼にはおわってくれたからよかったけど」
「忙しいんですね、ほんとう」
「ありがたいことにね」
それから、みき、熱いコーヒーに口をつける。ほどよい苦味と酸味がくちのなかに広がる。
「そういえば、大元さんって、前田先生とお知り合いなんですよね」
「え、うん。あおばにきいたの?」
「はい。バンド組まれてたって」
「あはは、そうだね。まぁ一年だけ」みい子、ずいぶんたのしそうに、「あおばと、わたしと、あとふたり。ベースとドラムね。けっこういいとこまでいったんだよ。いろんなとこからスカウトもされたし。まぁぜんぶ断って、さっさと解散したけど」
「え、それは……」
「いや、ぜんぜん仲たがいとかじゃないよ? きぃちゃん――あ、ドラムの子ね、海外留学したから。べつの子さがすのも面倒くさいし、プロでやる気はハナからなかったしね」
「えっと、なんというか……」みき、ちょっと困惑して、「おもいきりがいいですね、みなさん」
「たはは、たしかに!」
しかも、前田先生は音楽をつづけず、いまは高校の教師になっている。スカウトされるほどの腕前をもっていたのに、である。
それは、おもいきりがいいというか、なんというか。みき、ふしぎにおもっていると、察したのか、
「いや、あおばはね」と、みい子。「音楽つづけてるんだよ、実際」
「そうなんですか?」
「うん。きみたちを育てること」
「えっと……」
「いつかわかるよ。うたって楽器やるだけがぜんぶじゃないから」
「そういうものですか?」
「わたしは、そうおもうよ」
たしかに、みき、まだよくわからない。チーズケーキをくちにはこび、ちょっと考える。うん、やっぱりわからない。チーズケーキがうまいことしかわからない。
しばし沈黙がながれて、みき、
「むかしの前田先生って、どんなかんじでした?」と、訊いてみる。
「いやいや、そりゃもう〈平川の狂犬〉だよ。マッド・ドッグ」
「え?」
「うそ、しらない? 〈狂犬〉伝説」
「初耳です」
「あちゃー、もう伝わってないんだ。まぁ十年前のことだもんね」
「あの、そもそも〈狂犬〉って?」
「前田あおば、通称〈狂犬〉。その伝説は数知れず、ギターで暴漢百人斬り、ライブハウスをアンプで粉砕、2tトラックを素手で受け止めたなど……」
「え、冗談ですよね⁉」
「ほんとだよ。ぜんぶ実話だからね。わたしはこの目で見たし。こんどあおばに訊いてみたらいいよ」
「えぇ……」
どこまで本気なのか、まったくわからず、みき、ただただ戸惑うしかなかった。
【大元みい子 シンガーソングライター】
新進気鋭のシンガーソングライター。
前田あおばとは学生時代からの知り合いで、バンドも組んでいた。
バンド解散後は音楽活動をやめていたが、留学していたメンバーの帰国を機に再開。現在はその子をマネージャーに迎えてがんばっている。




