文学的な彼女
タチバナ・アオイさんはショート・ボブの艶やかな髪と白線が三本入った紺色のセーラー服がとてもよく似合う物静かな高校生。肌が透き通るように白く、ぱっちりとした大きな目と桜色の唇が印象的だ。けれども鈴のように美しい声なのになぜかとても口数が少ない。先生やクラスメイトに話しかけられるとはにかみながら返事をしている。いつも視線を下に向けている。目立つことを極力避けているようだ。息を止めて気配を消しているのではないかとさえ思えるほどなので教室から突然彼女が消えても誰も気付かないだろう。
彼女は普段、教室のゴミ箱をそっと片付けたり、誰も綺麗にしない黒板消しのチョークの粉を吸い取ったり、朝早く来てみんなの机を拭いていたりする。詩や小説が好きで、教室の自分の席でひとりぼっち寂しそうに本を読んでいるか、そうでなければ長い廊下を本をいっぱい抱えて学校図書館に通っている。たぶんクラスには友達がいないんじゃないだろうか。同じ文芸部の物静かなハルカさんだけが唯一の友達なんだと思う。
僕の名前はウエダ・ユウキ。冬はとても寒けれど雪のあまり積もらない地方の高校二年生。血液型はA型、身長百七十五㎝の男子生徒。成績は中くらいで苦手科目は数学。得意科目は国語と歴史だ。英語はまあまあ。この高校の黒い詰め襟の制服は、嫌いではないけれど、窮屈だ。いつも第一ボタンを外している。高校を卒業したら東京の私立大学の文学部に行きたいと思っている。将来は小説家になりたい。女の子と付き合ったことは中学生の頃に一度きり。別々の高校に通うようになって自然消滅してしまった。今は彼女はいない。募集中ではあるのだけれど。
そんな僕がなぜアオイさんのことを書いているのか。それは、なんとなく彼女に惹かれているからだ。
あの憂いに満ちた黒い瞳にじっと見つめられて可憐な声で『ユウキくん、今度一緒に本を選ぶのを付き合ってほしい。男の子が読みたいと思う本を私も読んでみたいから』なんて言われたら、もしかしたら僕はいっぺんに彼女の虜になってしまうかもしれない。そんな予感がしている。彼女と僕はクラスも部活も一緒だから余計に気になる。
文芸部は年に一回、秋の終わりに『楓』という作品集を発行する。白黒印刷なんだけれども市販の文芸雑誌にも負けない体裁が自慢だ。もちろん中身も立派だと言われている。
部員の数が少ないのですべての部員の小説(ただし短編に限る)や詩を載せることができる。選考でふるい落とすわけではないけれど、掲載するには批評会というものを通過しなければならない。
夏休み明けには全作品のコピーを配って全員が全部の作品を読み込む。編集会議とも言える批評会に備えるためだ。
さわやかに晴れた日曜日。学校図書館三階の広いミーティングルームに椅子と細長いテーブルを並べて批評会が行われた。僕の作品の番になった。するとそれまでみんなの話を静かに聞いていたアオイさんがすうっと手を上げた。部長のノリコ先輩が「どうぞ」と促すとアオイさんは立ち上がった。
「ユウキくんの作品を読んで感動しました。特に主人公が想いを寄せている女性が他の男性のことを好きだと知った時の心理描写がとても丁寧で心に響きました。たとえばこの部分です。
【それを知った拓也は、しかし崩れ落ちることはなかった。けれど一筋の涙がその頬を伝った。彼は優華と写した唯一の写真を震える手で丁寧に壁から剥がした。胸の前に写真を掲げてじっと見つめている。拓也と優華が雪山の頂で頬と頬を寄せ合っている姿を信治が撮ったものだ。「優華」とつぶやいた拓也の涙が写真を濡らした。『俺はこれから先、あの日のように幸福な時を過ごすことはないだろう。君は今、あいつのことを想っている。俺の親友の信治、殺してやりたいほど頼もしいあいつのことを』】
この、『しかし崩れ落ちることはなかった』というところは、つまり、崩れ落ちかけていたということですよね。この表現の仕方がよかったです。まるで主人公が目の前にいるようで、気持ちだけで何とか立っているということが実感できました。そして、途中で三人称が一人称に変化していますが、その間に挟まれた『優華……』という呼びかけが、そこだけ宙に浮いているかのように不安定です。この女性が特別な存在であるということがわかり、また主人公の動作に注がれていた視点が心の中へとフォーカスしていくことを予感させます。そして、『涙が写真を濡らした』後、満を持して最初の一人称の『俺』が劇的に登場します。この切り替えがとても効果的です。ドラマが始まった、という感じがひしひしと伝わってきます…… 」
普段はほとんど何も言わないひっそりと静かなアオイさんが延々としゃべっている……。しかも僕の作品を褒めている。びっくりした。部長も驚いたようだ。
「アオイさん、ありがとう。あなたが感動したなんて話あまり聞いたことがないわ。でも、理路整然としてわかりやすい批評だった。この作品を何度も読み込んだって感じね。みんなはどう思うかしら」
「はい!」
あっ、サツキ先輩だ。覚悟しておかなければ……。
「読み進めていくと、結局はどの場面も主人公に都合のいいようにストーリーが進んでいくということがわかってくるため、意外性がゼロ。どんな困難にぶつかってもそれを乗り越えていくという展開自体は悪くないのですが、乗り越える方法が安易すぎる。他に方法はなかったのか。もっと勉強してください」
うーん、確かにそのとおりだ。けれど、きつい。結構へこむ。
「はい!」
後輩の、優しいアカリさんだ。
「人称が変化するのはいいのですが、揺れがあるように思えました。場面によっては誰が誰のことを見ているのか分からなくなることがあります。もっと厳密に表現するべきです。あと、完了形が多すぎて話に躍動感がないです。もっと語尾を工夫して時間の流れをテンポ良く刻んで欲しかったと思います」
うわあ、いつもはニコニコして「せんぱーい」と甘えた声で呼びかけてくるアカリさんも容赦ない。
「はい」
まだあるのか……。他の部員の批評もかなり手厳しかった。しかし、本音を言えばどれもとても参考になるものだった。素直にありがたいと思う。今後に生かそう。ちなみに、部長の批評は次のとおりだった。
「私はね、その他の登場人物の気持ちをもっと掘り下げて書いたら今以上にいいものになると思った。例えば、【明菜は拓也のことを好きだった。ただ、一途にそう思っていた】って所ね、これはどのように好きだったのかよくわからない。もっと具体的に書いた方がよかったな。あとね、前半、体言止めがちょっと多いような気がした。そうね、読後感はさわやかで納得できるものだった。ストンと胸に落ちたから、そこは個人的に好きかな。全体的にはユウキくんの気合いが十分感じられる力作ね。次の作品も楽しみだわ」
さすが尊敬するノリコ部長だ。うまくまとめる。僕もこういう人になりたい。
結論から言うと、その日からだった。僕がアオイさんのことを強烈に意識し始めたのは……。
普段から気になっていた上に、なにしろ僕の作品を何度も読み込んでくれたらしくて、その上理路整然と褒めてくれたのだから気にならないわけがない。きっとこの人とは気が合うはずだ。なんだかそんな予感がした。
それから数日後の夕方。
西日の差し込む部室でパソコンを立ち上げ、僕は一人で楓の表紙をデザインをしている。
そうそう、表紙だけはカラー印刷なので、結構凝った模様や書体を使って『芸術的』な雰囲気に仕上げようと思っている。今回も我が部の伝統に則って、楓の葉っぱを数枚配置しているんだけど……。
その時、立て付けの悪い木のドアが開いた。
長い夕日が部室の中に伸びる。誰かの小さな顔が茜色の夕日の逆光に透けて、この世のものとは思えないほどに儚く美しく見える。
よく見るとアオイさんが夢見るような表情をして立っていた。彼女は黒い瞳を潤ませて僕を見ている。ちょっとドキッとした。
窓ガラスにヒビが入った古くて狭い木造の部屋には二人だけしかいない。何か話したい。でも、きっと彼女から先に話しかけてくることはないだろう。こちらから話しかけてみよう。そうだ、今ちょうど手元にある僕のお気に入りの詩を話題にしよう。
ドアが閉まった。部室は白いカーテンが茜色に染まって、まるでバラ色の水を満々とたたえた、水族館にある大きな水槽のようだった。白いイルカが泳いでいるのではないかと思って辺りを見たが何も泳いではいない。
「アオイさんの作品、何度読んでもいいね。その中でも特に星や空や雪の詩が好きなんだ。たとえばこれ、【シリウス】っていう詩。【宇宙が太陽の死を知った時、私は知らない、銀河が流す涙の色を。なのにあなたは知っている、私が流す涙の色を。もしかしたら、あなたも知っていたのだろうか、次の太陽は青く輝く星、シリウスだということを……】って、とっても素敵だなあ。なんだか宇宙全体が響き合っていて最後は真っ青な光に包まれるような感じがいいんだよなあ」
「ありがとう。でも、私、あまり人に褒められたことないから……」
「君の作品には心の真実が込められているって批評会でもみんなに好評だったじゃないか。特に部長は、『どんな作品にもその人の心が入っているの。でも、アオイさんの作品には心の全部が入っている』って絶賛してたよね。そう、これだった【あなたへ】という詩。【迷子になった赤い糸。からまって、もつれて、ほどけない。あなたはそれを銀のナイフで切り刻み、口笛を吹く。わたしの心から血が吹き出す……】って、ぞっとするほどすごいよ」
「あまり自信がないの。作品だけでなくて、自分自身に。成績は悪いし、身長は低いし、性格は暗いし……」
「君は物静かだけれど暗くはない。落ち着いて話をすることができる上品で淑やかな人だ。確かに決して背は高くないけれども目がくりっとしていて口元はいつも微笑をたたえている。とてもかわいいよ。素敵な詩を書くこともできるし、模試の結果だって数学は僕よりもかなり上だ。僕はうらやましいと思っているんだ。さあ、立ってないで、ここに座って」
彼女は素直に僕の左隣、毛布をクッション代わりに敷いた木製の長椅子に腰掛けた。ふんわりといい香りが広がる。日が暮れて、蛍光灯の明かりが僕たちを照らしている。彼女は僕の目を見た。
「ユウキくんにそう言ってもらえると嬉しいけれど、私自身が一番よく知っているの。自分はだめな人間なんだってことを」
「君がだめな人間だったら、僕なんて人間ではなくなってしまうよ。冗談はやめてほしいなあ」
「ごめんなさい。私みたいな女の子には関わらない方がいいのよ」
「どういうことかな。君とは話さない方がいいっていうことなのかい。今こうして普通に話しているのに……。君は僕と話すのは嫌なのかな」
「嫌じゃない。でも、私と話しても、ユウキくんのためにはならないの。なぜなら、私は決して誰にも心を開かないから」
「ハルカさんは君の親友じゃなかったっけ。彼女とは何でも話すんだろう」
「何でも話しているように見えるかもしれないけれど、心は開いていないの。私は私、ハルカはハルカ。だから私は詩や小説を書くのよ。心を開くことができるのはノートや原稿用紙だけ。決して人に心を開くことはないの」
彼女は俯いてしまった。
「そうなのか……。でも、ということはつまり、君が書いた詩や小説には君の心がそのままそこにあるってことなんだ」
「心がそのままそこに……。言われてみたらそうね、そのとおりかもしれない」
「僕は君のことをもっとよく知りたい。君の本心を知りたいと思うんだ。」
「本心を……」
彼女はびっくりしたように顔を上げた。
「そうだよ。君はきっと星や空や雪のような美しい心を持っているんだと思うんだ。君の書いた詩や小説を読むとわかるよ。なんていったって題名だけでも惹かれるものがあるからね。これなんか特にそうだよ【心の鐘が揺れて宇宙に響き渡るのはなぜなの? あなたに教えてほしい】って、なかなか思いつけないタイトルだよね」
「そんなことないわ」
彼女はゆっくりと首を横に振る。
「君がそう思い込んでいるだけなんだ。自分が本当はどういう人間なのか、自分でも分からないところがあるんだと思うな。そういう題名を思いつく時にはきっと心の鐘が揺れているんだと思う。高い尖塔を持つ教会の鐘のように荘厳な音色が遠くまで響くんだ」
「自分でもわからないところ……。そういえば……。書いているうちに思いもよらないことを文字にしていることがあるの。【きっと明日という日はお月様の涙で作られるのね】とか【この川が注ぐ海は塩辛い。川は塩を舐めるためにゆるゆるとその体をくねらせているのだろうか】とか【わたしはひとり。ただひとり。でもさびしくはない。わたしがわたしである限り】とか【あなたが夕日に向かうとき、わたしも夕日に向かう、二人の目が太陽を反射する。数千億分の一の光線が、その一瞬、確かに太陽に戻った。わたしたちはその瞬間、ジュッとひとつに溶けた】とか、なぜかわからないけれど……。でも、それが本心なのかな 」
「そう、きっとそれが君の本心なんだよ。自分でも気付かなかった自分。それこそが本当の自分なんだ。お月様の涙は、きっと君自身の涙なんだ。そして海はこの世、川は君自身がこの世に何かを求めているということ。夕日で一つに溶けたのは君と、君の将来の恋人を表しているんだ」
「そうかしら。ちょっと違うような気もするんだけれど……。でも、ユウキくんは面白いこと言うのね」
彼女は遠慮がちにニッコリ笑った。かわいい……。
「それにしても、書いているうちに次から次にわき出てくることって本当にあるよね、言葉がどんどんと……。ある言葉を書いたら、次の言葉が浮かんできて、そしてその言葉を書いたらまた新しいイメージが湧いてきて……。永遠に言葉が続くって感じだ」
「ええ、自分でも知らないうちに……」
「紙に文字を書いたりキーボードに打ち込んだりしていると、なんだかそういう、何かにとりつかれたようになることがある。それが何かはわからないんだけれど。もしかしたら神とか精霊とか妖精とかいうものかもしれない」
「私は鉛筆でノートに書いている時にいろんな思いがわきあがってくる。何かが降りてくる感じかな。神、精霊、妖精、いえ、違う、もっと不思議な何かよ。たくさんの銀河が浮かぶ宇宙を絞って濾過した輝く光のエキスみたいな何か……」
「宇宙を絞るのか。強烈だな……。そのイメージ力、すごいよ。アオイさんは手書き派なんだね。僕はキーボード派だよ。ノートパソコンの液晶画面に次々と現れる文字を見ていると、その文字を起爆剤に新しい文字が爆発的に現れるんだ。うーん、イメージするとね、たとえばこういうことなんだ。コンピュータは1と0だけを使って計算するよね」
「1と0だけ……二進法ね」
「そう、光と闇、有と無、生と死、真実と偽りの二進法でね」
「光と闇……」
「そう、光と闇の世界、星の光と暗黒の空間。たとえるならばそれはこの宇宙そのものなのかもしれない。その宇宙の根源でもある光と闇を使って宇宙のあらゆる現象を人間の目に見えるものにしていくのがコンピュータなんだ」
「翻訳するみたいなものね」
「そう、そのとおり、ここにあるキーボードを打つと光と闇を文字に翻訳することができるような気がする」
「光と闇が文字に……。宇宙が文字になる……」
「そう、キーボードを打ち続けると光と闇でできている宇宙そのものが次々と文字になり、意味のある言葉が綴られて、そしてそれが最後には物語になるって感じかな。そうやって小説を書いていく。着地点は自分でもわからないんだけどね」
「なんだかサティのジムノペディを聴いているような不思議な比喩を使うのね。もちろんいい意味で言っているのよ。感心したわ。それでね、ちょっと気になったんだけれど、ユウキくんはプロットを立てないのかな」
「あんまりね。プロットやキャラクターを設定してから書くことは少ないんだ。書いているうちに勝手に人物が動き始める。あれは妙な感覚だよ。僕が書いているのに、僕に断りもなく喋り始めるんだから」
「そうなのね、私もプロットは作らない。ユウキくんと同じで、書いているうちに登場人物が自然に話しはじめてて動きはじめるの。でも、私の場合は小説というよりも散文詩なんだと思う……。どこから読んでもその世界に引き込まれていく文章を書きたいな、なんて思ってるの」
「散文詩か。いい響きだね。僕もいつか散文詩を書いてみたいとは思うけれど、あれは難しいんじゃないかい。韻を踏んだり文字数を揃えたりしてるけれど、大変だろう」
「うーん、大変というより、面白いの。ねぇ、ユウキくんは私の詩を読んで何が書いてあると思った?」
「曇りのない心で見た現実だよ。真実といってもいいかもしれない。例えばこの永遠の宇宙の物語。自然の美そのもの……」
「自然の美を言葉で表現できたらどんなにかいいだろうと思うわ。でも、それはとても難しい」
「そう、難しいよね。実際に自然の美に触れないとわからないこともたくさんあれば、心の中に思い浮かべるしかないものもある。でも、そのどちらも偽物ではなくて真実だ。そうだろう」
「ええ」
「例えば愛や喜び、憎しみ、恨みとかの感情は目に見えないし触れることもできないけれど、心の中に確かに存在する。文学ってどちらかというと目に見えるものよりも心の中にあるものを描くことが多いような気がするんだ」
「確かにそうだわ。心の中を描く、それが文学なのかもしれない。もしかしたら自分自身の本心を登場人物に託して描いているのかもしれない」
彼女と僕はそれからも延々と喋った。いつのまにか彼女は顔を紅潮させている。気がつくと夜も更け、午後9時になっていた。
「アオイさん、遅くなったね。そろそろ帰ろうか」
「そうね、でも、また話をしたいわ」
「僕もだよ。家まで送っていこう」
「ありがとう」
学校から歩いて5分くらいのところにある彼女の家まで二人並んで歩いた。彼女の家は古いアパートの二階だった。お父さんは早くに亡くなり、小さな町工場で事務をしているお母さんと二人暮らしなのだそうだ。
「楽しかったわ。おやすみなさい」
「僕も楽しかったよ、じゃあ、またあした」
家に帰って、今日の事を振り返った。天使のような微笑み、白くて綺麗な歯をチラッと見せながら懸命に話す口元、小さな白い手、身振り手振りを交えて喋っている時にふわりと揺れる髪、黒くて深い瞳……。
夢の中の出来事のようだった。いつも静かにひっそりとしているアオイさんとは別人だった。快活で、楽しそうで、笑顔が輝いていた。
けれど、次の日教室で会った時、彼女はいつもの彼女に戻っていた。
「アオイさん、おはよう。きのうは楽しかったね」
「おはよう……」
彼女はそう言ったきり自分の席に座って、堀辰雄の『風立ちぬ』を開いて読み始めた。とりつくしまがなかった。どうしたんだろう。きのうはあんなに楽しそうにしていたのに……。放課後、僕は重い足を引きずりながら部室へ行った。
ガチャ ギギー―
壊れそうなドアを開ける。今日はテスト前の部活休止期間なので誰もいないはずだ。でも、僕は明日までに楓の表紙を完成させなければならない。
誰もいなはずの部室に、何かが動いた。ど、泥棒か。でも、ここには盗むものなんて何もないはずだ。パソコンはかなり古いし、部の宝は創刊号からある楓だけだ。でも、それは誰も持って行かないだろう。
よく見ると、そこにはアオイさんがいた。長椅子にちょこんと腰掛けて僕の方を見ている。どうしたんだろう。
「アオイさんじゃないか。今日は部活休みだよ」
「ええ、知っている。でも、ユウキくんと二人だけで会いたかったの」
「えっ、僕と二人で」
「そう。朝はごめんね。私、みんなのいる所で話すのが恐かったから……」
「そうだったんだね。だから素っ気なかったんだ。よかった。嫌われたのかと思ったから……」
「嫌いだなんて、そんなことないわ」
「安心したよ。でも、今日はテスト休みだから帰って勉強しなくてはいけないんじゃないかい。僕は表紙の締め切りが明日だから仕方なく出てきたんだ」
「邪魔はしない。少しだけ話したらすぐに帰るわ」
「邪魔なんてことはないんだ。僕も君と話をしたいと思っていたんだ。そうだアオイさん、話を戻すようだけれどね、ふと思いついたんだ、本心を知りたいって話だけれど、僕が君に手紙を書いて、それに返事を書くっていうのはどうだい。紙に書くのなら本心を打ち明けることができるはずだよ」
彼女は少し首を傾げた。
「ユウキくん、話を元に戻すようだけれど、私なんかに過剰に興味を持っても時間の無駄になるだけよ。普通に話すことができたらそれでいいの」
「無駄になんかならないよ。一度試してみないかい。君に手紙を書くよ。返事をしたくなかったら無視しておいていいんだ。僕が勝手に書くんだから」
「無視……。本当に無視するかもしれないのよ。それでもいいのかしら」
「いいよ。本当だよ。今、書くから受け取るだけでも受け取って」
「わかった。ユウキくんて案外強引なのね。でも、私、強引にされるのが好きかも知れない……」
彼女は微笑んだ。
「僕はね、君に作品を高く評価してもらってとても嬉しいんだよ」
「あの小説の中には本当の気持ちが書かれていたからよ。私はね、人の本心はよく分かるの。嘘が含まれているかどうかもすぐに分かる。なんだかね、嘘は言葉が黒く濁っているの。それが声であっても、文字であっても、自分でも恐いくらいわかる。私は本当に信頼できる人を見つけたいんだけれど、そんな人はなかなかいない。みんな嘘つきだから……」
「みんな嘘つきだなんて……。嘘も方便って言葉があるじゃないか。人は心をむき出しにしてでは生きていくことができないんだよ。傷付けたくないし、傷付きたくない。だから事実にほんの少しの嘘をラップみたいに被せてその人だけの真実を作るんだ」
「……」
「君が言うとおり、僕の作品には確かに本当の気持ちが書かれている。それは、今の気持ちの真反対ですらそれが僕の気持ちだと仮定したらの話だけれどね。何を言いたいかっていうと、その人の本心と無関係に嘘を付くことはできないってことなんだ。嘘ですら、その人の『本心』なんだ」
「ええ、言っていることはなんとなくわかる。そうね、確かに嘘もその人から出たものである限りはその人の『本心』なのかもしれない。たとえば、『私はユウキくんのことが大っ嫌い』っていう言葉も、嘘だからこそ言える。それが嘘だということが私の本心だから……。ということでしょう」
「参ったな……。僕の言いたいこととはちょっと違うかもしれないけれど、ほとんど君の言っているとおりだよ。つまり、僕はね、事実プラスほんの少しの嘘がその人の真実ってことが言いたかったんだ」
「ええ、とてもよくわかった。そういう意味だったら私は単なる事実ではなくて真実を言葉にしているんだと思う。私は真実が好きよ。真実が含まれていない物語なんて、物語じゃないわ」
「そうか、君は真実が含まれている物語に無上の喜びを見いだすんだね。そしてそれを何度も読み込んでいく、そして書く。でも、それはなんのためだい」
「文学を志す人間だったら当たり前のことだと思っているの。文章の中に真実を込めること、それはつまり美を表現することなんだってことはユウキくんだって知っているでしょう」
彼女は身を乗り出してきた。
「美を表現する……か。確かに文章の中に美を表現するには真実を描くという方法もあるよなあ」
「文学にとっての真実は感情だと思うの。感情がない文章は死んでるわ。文学が芸術であるためには感情が込められていて、それを読んだ人がその感情を再現できる、いえ、再現じゃない、それを読者の心の中で再構築して、元々文章の中に込められていた感情よりも多くの感情、つまり感動を得ることができる、それこそが美しい文学なんだと思うの」
「美しい文学か。君はすごいことを言うね。なんだか文芸評論家みたいだ。そんな君に褒められた僕はとても幸せ者だよ」
「あなたを褒めたわけじゃないの。勘違いしないで。私は人を褒めることはないのよ、決して。なぜなら、人は裏切るから。でも、作品は裏切らない。なぜならそれは一つの作品として完成されているからなの。だから評価することができる」
「わかるよ」
「けれども『人間』は決して評価できない。その人がもし亡くなった後だったとしても、何百年経とうが『人間』は完成しないから。だって、後からいくらでも逸話ってものが出てくるし、新事実っていうものが発見されるでしょう。だから『人間』の評価は定まることはないの」
「でも、文学作品だってかなり後になって再評価されることがあるんじゃないかな」
「ええ、そういうこともあるわ。でも、よく考えてみて、それは後からその作品に言葉を書き加えたり削除したおかげで再評価されたわけじゃない。けれども『人間』の評価は違う」
「どうしてだい」
「あることないこと付け加えたり、隠したりして再評価するの。つまりね、『人というあやふやなもの』を、『ある意図をもった人』が評価したいように評価するってことなの。そしてね、これこそが『歴史』なの」
「なんだか難しいね。それって、現時点では一応の評価であっても将来に亘っての絶対の評価ではないっていうことなのかな」
「そうなのよ。歴史なんて人間が作ったもの。後から書き加えたものもたくさんあるし、事実ではないこともたくさんある。隠されていることはもっと多いかもしれない。その時の情勢によってどうにでもあっという間に変わるんだから。それは歴史が証明しているでしょう」
「そうか……」
「だから私はそのままでは歴史を信用しない。自分で考えるの。評価済みと言われる歴史であってもあらためて自分で評価しないことには安心できないわ」
「そうだね。君の言うとおりだ。いくらでも書き換えられる。本当のことなんて誰にもわからない。君は歴史家でもあるんだね。自分で判断して組上げていく。でも、なんだかすごく大変そうだね」
「いいえ、とても面白いことなのよ」
「君は将来どんな大人になるつもりなんだい。文学の道を進むのかな、それとも歴史家なのかな」
「私は本心を文字にして書いていく。自分が感じた本当のことを記録してくの。それが私がやりたいこと。私は将来小説家になりたいと思っている。歴史小説だって書いてみたい。私の家は貧乏だから大学には行けない。でも、働きながらでも書くの。いつかきっとデビューしてみせるわ」
目に力が入っている。
「小説家か。すごいね。君がそんなふうに考えているなんて知らなかった。そうか、君は書くことによって自分の真実を記録する。本心を文字にして表すんだね。だから真実を表現する職業を選びたいと思っている。いや、もうすでにそれに向かって進んでいるってことなんだ」
「そうなの。でも、こんなこと打ち明けたのはユウキくんだけなのよ。ハルカにも言ったことはないわ。内緒にしておいてね」
「わかった。決して誰にも言わないよ。実はね、僕も将来は小説家になりたいと望んでいるんだ。誰にも言っていない。君に打ち明けるのが初めてなんだよ」
「そうなのね。あなたも小説家……。なんとなくそんな気がしていたわ。とても嬉しい」
「そうなんだね……。僕たち、友達になれないかな」
「友達……」
「そう、君と僕は友達になれると思う」
「友達ってなるものじゃないわ。いつのまにかなっているものよ」
「僕たちはまだ友達じゃないのかな。お互いの秘密を打ち明けたのに」
「ふふっ。そうね。あなたが言うとおり友達だわ、私たち」
「じゃあ、早速手紙を書くから、待ってて」
「ええ」
僕はボールペンを取り出してノートに短い手紙を書いた。
《アオイへ
君と友達になれてとても嬉しい。同じ文学の道を志す者どうし、遠慮のない意見を交わしたいと思っている。そうだろうアオイ。美を表現するために僕たちは書くのだから。美への奉仕者と言ってもいいのかもしれないね。これからどうぞよろしく。 ユウキより》
「君への手紙だよ、読んでほしいな」
「ありがとう。こうして手紙をもらうと嬉しいものね。私も早速返事を書くわ」
彼女は目をつむってしばらく瞑想していたが、鉛筆でノートにさらさらと書き始めた。
「返事を書いたから読んでみて」
「ありがとう」
《ユウキへ
お手紙ありがとう。手紙というより、あなたの決意表明ね。でもいいわ、私も同じ気持ちだから。
あなたとはこれから色々な話をすることができるような気がする。私はなかなか本心を明かさないけれど、あなたには明かしてしまった。これは予期していなかったこどだけれど、結果としてはよかったと思っているの。あなたと話ができて、昨日も今日もとても楽しかった。こんなに楽しい気持ち、初めてかもしれない。私は家でも学校でもあまり話さないから……。これからも一緒に話をしましょう。あなたの文学の友、アオイより》
「文学の友か。いい響きだね」
「ユウキくん、約束して。私とは生涯、文学の友になってね。それと、私と話したことや、やりとりした手紙の内容は生涯誰にも明かさないでね」
「誓うよ」
「指切りしましょう」
「そうしよう」
僕たちは小指を絡ませて誓いあった。彼女の細い指はなぜかとても温かかった。
この日からアオイさんと僕は秘密を共有し合う友達になった。
テストが終わってからは、すきま風の吹き抜ける部室に毎日のように残って二人で話をした。
主に文学と歴史の話だった。どんな本を読んだとか、最近どんなものを書いているとか、昔の英雄や神殿のこととか、その他とりとめもないことを延々と話したのだった。
実はアオイさんはとても話題が豊富で、僕が聞き役になることも多かったのだけれど、それはそれは楽しかった。
彼女の鈴の音色のような声は心地よく耳に入り、彼女の息づかいが聞こえてくるほど近くで、時々お互いの冷たい手を握って暖め合った。
時には駅前の喫茶店に入って続きを話した。そこまでの道を二人で手を繋いで仲良く歩いた。舗道に積もった落ち葉がカサカサと鳴った。
「アオイさん」
と呼びかけると、
「なぁに、ユウキくん」
と甘えた声で返事が返ってきた。そして彼女は僕の腕にぶら下がるようにして体を寄せてくるのだった。僕はそれがとても嬉しかった。
冬の足音を聞く頃になると土日も喫茶店で会うようになっていた。
私服のアオイさんもとても可愛らしかった。古着屋で安く買ったという、シルエットが崩れかかった年代物の青色のプリンセスコートも、彼女が着るとお姫様の衣装のように見えた。
僕たちはいつも向かい合っては座らず、部室と同じように隣り合って体をくっつけるようにして座った。
彼女はとてもいい香りがした。それは香水ではなくて、アオイさん自身から薫っているようだった。
こうして二人だけで会うって、世間でいうデートというものではないのだろうか。一時はそう思ったこともあったが、彼女にとってはそれはデートではないようだった。
思い切って聞いてみると、『秘密を共有する大切な友達との懇談』というのが彼女の『解釈』だった。
彼女は時折、湿った紅い唇を少し開けて、黒い瞳でうっとりしたように僕を見つめた。僕はドキッとした。
なぜ彼女は僕を見詰めているのだろうか。友達のはずなのに。どうしたことだろう。ひょっとして僕のことを好きなのだろうか。などと思ったこともあった。
そして、そう思うと僕は胸の高鳴りが止まらなくなるのだった。夜、ベッドに横になってアオイさんのことを思うと胸がときめいて眠れなくなった。
部活が終わってみんなが帰った後、、学校指定の紺色のダッフルコートを被り、一本のマフラーを二人で巻いて、毎日二時間くらい二人きりで話をした。さらに土日も二人だけで会うという生活をしていたら、十二月の中頃には、周りから僕たち二人は恋人どうしだと思われるようになっていた。
僕はそれがとても嬉しかった。できたら本当の恋人になりたいと思った。周りからどう見られているか、それはきっと彼女も気付いているはずだ。
けれど、彼女は時々僕を潤んだ瞳で見詰めるだけで、恋をしているような言葉は全く口にしなかったし、一言も書かなかった。やはり最初に言っていたとおり、友達なのだろうか。
彼女は教室での物静かな様子とは違い、僕と会うときはとても楽しそうに快活に話をする。これが本来のアオイさんの姿なんだろうな。では、なぜ彼女は教室であんなに静かにしているのだろう。
「君はなぜ教室ではあんなに物静かに振る舞っているんだい。僕と話しているときはとても生き生きとしているけれど。教室でも僕と話すようにクラスメイトと話したらいいんじゃないのかな」
「ユウキくんはそう思うのね。でもね、私は友達はそんなにたくさんほしくないの。表面的な友達なんていないのと一緒なのよ。私はね、心の底から私のことを大切にしてくれる人にしか心を開かないの」
「そうなのか」
「ユウキくん、あなたは私のことを心の底から大切に思ってくれているでしょう。それがわかるの。だからあなたのことが大好き。とても好きなの……。もちろん、友達としてね」
好き、と言われた……。
が、それはあくまでも友達としてなのだということらしい。僕も言いたい、『アオイさん、好きだ』って。でも、それは彼女が言う『好き』とは別の意味の『好き』だ。
「好きって言ってもらって僕はとてもうれしいよ。でも、友達として好き、か……。友達としてじゃなかったら例えばどんな選択肢があるんだい」
「友達以外で好きって、それっていったいなんなのってことね。もちろん、それはユウキくんにもわかっているよね。わたしとあなただったら恋人という選択肢もあるわ」
「恋人……」
やった。ついに核心に近付いた。『恋人という選択肢もある』ならば、僕は迷わずそれを選ぶ。
「そうよ。でもね。わたしはあなたのことを恋人以上だと思っているの。ユウキくんも男女の友情を信じているでしょう」
男女の友情……。それは確かにあるのかもしれない。でも、普通は友情よりも恋の方が上なんじゃないか。『恋人以上』だなんて……。
「もしかして君は男女の友情は恋よりも上だと思っているのかい」
「そうなの」
「うーん、そうなのかなあ」
「おかしいかしら。友情の方がより純粋にその人のことを思うことができる。純粋な気持ちを邪魔するものが何もないのよ」
それは友情というよりもプラトニックな恋なのではないのだろうか。
「恋をしたら純粋な男女の友情は壊れてしまうってことなのかな」
「そうよ。友達じゃなくなって、ありきたりな、ただの恋人どうしになってしまうの」
ただの恋人って……。恋人って至高の存在だと思うんだけれど……。
「恋することは悪いことなのだろうか」
「いいえ、とても魅力的なことだと思う。現にあなたのことを思ったり姿を見ると胸が高鳴るの。ドキドキして苦しくて、抱きしめてほしくなる……」
「えっ、僕を見たら胸が高鳴るって……。僕もだよ、君を見たら胸が高鳴るし抱きしめたい。これってお互いに恋をしているっていうことだよね」
「……」
「だろう」
「そうかもしれない。いえ、きっとそうだわ。でも……」
「でも?」
「私はあなたとは恋をしないと決めているの」
「どうして」
どういうことなんだろう。恋に落ちているのに恋をしないだなんて、ありえない。
「恋人よりも、もっともっと素敵な友達でいたいから」
「そうか……。友達……。そうなのか……。じゃあ、この胸のときめきはどうしたらいいんだろう」
僕は胸を押さえた。冷たい金ボタンが手のひらに当たる。その奥では心臓が高鳴っている。
「ユウキくん。これは物語を書くチャンスよ。人は昔からときめきとかやるせない思いを糧にして物語を書いてきたでしょう。それと同じようにあなたも書くの。私も書くわ。きっと魅力的な作品ができるはずよ」
「僕はそんな作品よりも、今目の前にいる君と恋人どうしの会話を交わしたい」
正直な気持ちを打ち明けた。そう、僕は君と、ありきたりでいい、普通の恋人になりたいんだ。
「だめよ、あなたは小説家になるんでしょう。小説家にとっては書くことと物語の世界の中に生きることは一緒なのよ。あなたとわたしが書く小説にわたしとあなたが登場して愛を語り合えば解決するはずだわ……」
「……」
「さあ、もう一度わたしたちの友情を確認しましょう。世界で一番好きなユウキくん、お願い、きっと書くって約束して。私も書くって約束する、私たちが恋したらきっとこんなに素敵だろうなっていう物語を」
なんだかだんだん頭が痺れてきた。ぼ、僕はどうしたらいいんだろう。ああ、僕は体よく振られてしまったのだろうか、それとも、恋よりも素敵な未知の世界に足を踏み入れたのだろうか……。
「アオイさん、文字の中ではなくて、現実の世界で、恋をしようよ」
彼女は大きな目をパチンと閉じてウインクした。なんて魅力的なんだろう……。
「ユウキくん、これから私の本心を言うから、よく聞いてね」
「わかった」
「文字の中ほど幸福で満ち足りた世界はないの。最高の友情を維持したまま、現実世界が霞んでしまうほどの至高の恋愛を物語の世界で体験する。これ以上素晴らしいことはないわ。こんなこと普通は絶対にできない」
「そうだ、絶対にできないよね」
「でも、私とあなただったらできる。ねぇ、そうでしょう。だって、私たち二人はお互いに誰よりも大切な『文学の友』どうしだから……」