少しでも俺から遠ざかろうと尻で後退っていた
「なあほら、金がないならさ、俺が全部出してやるからっ。もっとマシなものを食いに行こうぜっ」
多分、普通なら高校生だろうか? 角刈りのそいつが野太い声で話しかけるのが聞こえた。外に並んだテーブルに座る子を、しきりに誘っている。
戦後直後じゃあるまいし、今時、メシで女の子を釣ろうとは。
ただ、連れの女の子二人は、なぜかそいつの身体にベタベタ触って喜んでいる……人気者なのかもしれない。
俺の知ったことじゃないが。
「いえ、お構いなく。あたし、実家に仕送りしなきゃいけないので、わざと節約しているだけですから」
声を掛けられた方は、俺と同じくらいの年代で、美人だけど生真面目そうな子だった。髪を片方に寄せた、変形ポニーテールが似合っている。
ただ今は、誰が見ても嫌そうに顔を背けてるが。
お陰で俺が、安心して割り込めるってものだ。
「誘う相手を間違ってないか?」
俺が話しかけると、なぜかそいつら三人とテーブルの仕送りの子、それにそこら辺の通行人まで足を止めた。
「なに、この静けさ? あんた有名人なのか?」
首を傾げて訊いたが、なぜか相手はひどく戸惑っていた。
「どこの馬鹿だ?」
そんなセリフを吐き、俺の前に立つ。
……うわ、身長高いな。俺だって低い方じゃないのに。
「新入りか? 俺が誰か知らないのか?」
制服の肩口を指で示したが、チェスのコマに似た記章があるだけだ。
そんなの、知るか。
「知らないし、知りたくもないし、どうでもいいし、多分、聞いてもすぐに忘れる。いいから、みっともないナンパはやめろって。見ていて気分よくなかったぞ」
「ははは、笑えるっ」
「うはははっ」
相手が笑って左右を見たので、俺も真似してみたが、途端に向こうはぎろっと睨んできた。
「なにがおかしい?」
「いや、思ったより弱そうな馬鹿だと思って――ととっ」
おお、気が短い。即座に殴りかかってきたぞ。
一応、掠らせたから、これでオーケーだろう。
「向こうが先に殴ってきたよな?」
そばに立つ由美に、わざと掠らせた頬の部分を指差して尋ねる。忠実な彼女はしっかり頷いてくれた。
「大振りで、隙だらけのパンチでした」
「だよなあ。これで正当防衛になるといいんだが」
「くそっ、こいつっ」
その間も、相手は怒り狂ってどんどん攻撃してきているのだが、この程度なら避けるのにそんなに苦労はしない。
そろそろ反撃してぶっ飛ばすか。
しかしそこで、俺が助けようと思った子が、いきなり叫んだ。
「やめてっ。彼、本気で怒るとギフトを――」
あいにく、警告は遅かった。
俺じゃなく、彼にとって。
丁度その瞬間、こいつは運悪く、間近から俺の目をまともに覗き込んでしまったのだな。
これでも普段は抑えているから、さほど感じないはずだが、今は俺も多少の殺気が出ていた……多分、そのせいだろう。
相手はいきなり息を呑んだかと思うと、立ったままぶるぶる震え始めた。
俺の瞳の奥を覗き込んで、なにを感じたのかはわからない……しかし、喧嘩相手がこうなるのは、これが始めての経験じゃないので、相手が恐怖に襲われたのはわかる。
気の毒に、本能で心の方が先に音を上げてしまったらしい。
うん、目を合わせたのは悪かったかもしれない。
今回、自制が十分に利かなかった。
経験上、このまま放置するとゲロ吐いた挙げ句、失禁して意識が飛んじまうとわかっているので、先にそっと奴の肩を押してやった。
ゆらりと傾いで、簡単に尻餅ついた。
今頃になって連れの女子生徒達が騒ぎ出したが、俺は無視してそいつに近寄ってみる。
「く、くるな……頼む」
こいつに、もう戦意はなかった。
相変わらずガタガタ震えたまま、少しでも俺から遠ざかろうと尻で後退っていた……むう、臭ってきたぞ。結局、失禁は避けられなかったか。
俺は肩をすくめて、彼女を振り返った。
「もう大丈夫じゃない?」
「丈さま!」
由美が俺の袖を握って、あらぬ方を指差した。
警察官……じゃないだろうが、制服着た奴がこっちへ走ってくる。
「警備隊が来ちゃったわ」
仕送りがどうのと言ってた女の子が頭を抱えた途端、制服の連中が怒鳴った。
「なんの騒ぎだっ」
なぜか、俺に向かって。
……最初の食事なのに、いきなり野郎の失禁に遭遇した挙げ句、食事もお預けになりそうだ。
「事故を装って、全員殺しますか?」
小声で問うた由美の額を、俺はこつんと小突いた。
「人に言えた義理じゃないが……自制しろ、馬鹿」