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8 一帯一路



 1276年、宋の都・臨安は無血開城された。

 


 クビライの下命、そしてバヤンの指揮により、宋攻略の最終段階はおおむね穏やかに推移した。

 最後は三宮(幼帝・皇太后・太皇太后)が、モンゴルに降った宋軍都統の洪なる者に説得されて降伏し、宋は滅亡したのである。

 この洪都統の受け入れに、また彼とともに三宮を大都へと護送するにおいても、「同姓のよしみ」を理由に洪君祥が活躍を見せたのであった。



 「残党も数年の内に片付くことでしょう」

 

 大都に帰還したバヤンの口調は平淡であった。

 伐宋の大事業も、この男にとってはさしたる難事では無かったのである。

 いや、バヤンに仕上げを任せる前に、モンゴルが理詰めの戦略で宋を追い詰めていたからであった。



 「いよいよ西だな。そのためにこそ我等は宋を手に入れたのだ」


 「遠くはジュチ・ウルス(キプチャク汗国)とフラグ・ウルス(イル汗国)の対立を仲介すること。近くはアリクブケの残党とカイドゥですね。彼らを従わせるために必要なもの、それは……」



 世界の支配者とその若き宰相は、目を合わせて頷きを交わしていた。



 「富をくらわせることだ。利益、それこそが我らモンゴルの、いや草原の民の国是……いかんな、どうも漢土の影響を受けすぎたか。国がどうという話ではない。利益こそが我らの行動原理である」


 クビライの偉大なる祖父チンギス・カーンが、なぜあれほどの大勢力たりえたか。

 「この人についていけば豊かになれる」と、草原の民にそう思わせたからだ。

 そして実際、つき従う人々に富を配分したからだ。


 旗揚げ以来、チンギス・カーンには敗戦も多かった。

 それでも勢力を伸ばし続けたのは、草原の民の行動原理を彼が体得し実践していたからに他ならない。


 「だがモンゴルは大きくなりすぎた。配るべき富が足りぬ……いや、皆が配分に不満を抱いている。それゆえに諍いを起こす」


 主導権争いの本質はそこにある。

 チンギス・カーンのおかげで草原の民は豊かになった。

 しかし生活水準が上がれば、それ以上の富が必要となる。


 「漢土では『すくなきをうれえず、ひとしからざるを患う』と言うそうですね。本来の意味とは違う使い方にはなりますが、そのほうが真実を突いています。足りていなければ耐えもする、だが同じ境遇の者が富んでいるのは許せない」 


 怒りを覚えているのは特にオゴタイ系……カイドゥの支持基盤である。

 彼らは大カーン位がトゥルイ系に移ったことで、「冷や飯を食わされている」。そのことが許せぬから暴れているのだ。



 「『足らざる者』の不満を抑えるためには……飾らず言えばバラマキが一番であるからな」


 シンプルな話である。カイドゥが提示している以上の富を配分すれば良い。

 そうすれば彼らはクビライを大カーンと、天なる存在と認めるであろう。


 草原を基盤としている限り、カイドゥは富を十分に配分できない。与えられるのは「自分が大カーンになった暁には」という空手形だけだ。対してクビライは「実弾」を大量に配分することができる。

 アリクブケ相手にもそれで勝利を収めたのだ。

 


 しかしバラマキにも技術が……政治力が要求される。

 クビライは苦笑いを見せていた。

 

 「だが新規参入者にばかり富を配っては、古くより我らを支えていた勢力が不満を覚える」


 そのゆえに配分すべき富は、政権の支出は、雪だるま式に増えていく。

 だからこそ、宋なのだ。


 

 「漠北、オアシス、ペルシャ、ここ河北。その全てを私は見てまいりましたが、断言できます。宋……江南ほど豊かな地域は、この世界に存在しません」

 


 だが豊かな宋を手に入れたとて、出費に際限がないのでは、いつか破綻する。

 それは漢族の官僚群がしばしば口にする懸念であった。

 そうした建言を笑顔で受け入れながらも、しかしクビライは、彼らの意見を取り上げることは無かった。


 「宋の連中は、その富の使い方をわかっていなかったのだ。富は留め置き貯めるものではない。動かす……運用するものだ」



 そのことを教えてくれたのが色目人であった。


 クビライが配る。モンゴル人が消費する(ここには誰も疑問を持っていなかった。草原の民には貯蓄の、資本蓄積の観念が薄いのである)。消費すれば富は社会に還元される。景気が刺激され経済が活性化する。その富を税としてクビライが回収すればむしろ財は、富は増えるのであった。


 「そのためにも、統一が必要なのだ。戦乱があっては経済活動が破壊されてしまう。流通の安全を確保できない。地域ごとに独立政権が存在しては、経済活動の障壁となる」


 「そして同族の不満を抑え大カーンの権威を高めれば、戦わずして勝つことができます。平和のもと安全と安心感により経済法制はより合理的になり、さらに経済が活性化します。螺旋階段を登るように我がモンゴルは繁栄していくことでしょう」


 それがクビライの、大元ウルスの基本方針である。

 幕僚一丸となって、その方針を達成すべく動き始めたところであった……いや、大カーン位を得る以前から、クビライはその構想を温め、動かし始めていた。



 「宋の、江南の富を漢人の官僚機構により管理する。色目人の機構により流通に乗せる。その建て付け全体を、我らモンゴルが政治・軍事の面で担保し主導するのだ」



 ついにその壮図に踏み出す時が来たのだ。

 共に構想を練った同志のひとりであるバヤンに、クビライは力強い目を向けて頷いていた。


 だがバヤンは、その構想に全面的には賛成できずにいた。

 なにゆえか、漠たる不安を抱いていた。

 


 「海路もまた、その構想の一環に組み込まれますか」


 「経済の動脈は水にある。陸路よりも早く、大量に物資を輸送できるのは海路であること、世界を広く見て回ったお前こそよく知っている話ではないか」



 この話になると、いつも議論は平行線をたどるのであった。

 


 「大地の安全保障は、我ら草原の民のよくするところ。しかし海の安全保障まで我らの手に負えるでありましょうか」



 「海の安全保障……海軍力は、技術が全てだ。そして最新の技術は常に豊かな経済から生まれる。我ら以上にやれる者がどこにある? そもそも江南を手に入れた以上、いやモンゴルがこうして世界に広がってしまった以上、水路・海路を無視した政権運営など不可能であろう? やらねばならぬのだ」



 熱弁を振るうクビライ。

 その表情に、バヤンは、久しぶりに会った若者を……いや、今や男と呼ぶべき存在に成長した俊英を、秀麗なその横顔を思い出していた。


 

 「そのための茶丘、ですか。先鋒として、大カーンの目として」


 茶丘はクビライを見て育った、憧れを抱いていた。それはバヤンも知っていた。

 だが二世の生き様というもの、それほど生易しくはない。 


 同族から疎まれ……いや、己の存在に不確かさを覚える中で、モンゴルと、クビライと一体化することに己の存在意義を見出し、人格を形成していった男。

 バヤンの目に映った洪茶丘はモンゴルの、クビライの映し身であった。

  

 

 「洪将軍とは呼ばぬのだな、バヤンよ。……茶丘を哀れと思っているならば、それは誤りである。私も茶丘も、喜びを覚えているのだ。なにも家臣の媚態を喜んでいるのでは無いぞ? 茶丘とは同じことを思い、同じ視線で語ることができる。絶え間なく動き変わり続ける世界の先端に轡を並べ、まだ見ぬ未来を目掛け疾走することができるのだ。その喜びは何ものにも代え難い」



 バヤンが抱いた感情は、哀れみでは無かった。


 政治とは、権力とは冷酷な作用である。

 バヤンとて幾度と無くその冷えた作用を手に取ってきた。

 洪茶丘を哀れむような繊細さなど、とうに失っていた。


 そのバヤンが洪茶丘とクビライの間にあるものについて感じたのは……ある種のいびつさ、グロテスクな何ものかであった。



 政治とは、権力とは冷酷なもの。

 その頂点に立つ帝王とは孤独なもの。


 茶丘が人並み優れた男であることは確かだが、その身分は軽く、そして若い。

 まだ重荷を背負っていない軽輩の中に、王者が自分と同じものを見るはずが無いのだ、本来ならば。



 「……泰西に、アレクサンドロスという大王がおりました。戦には必ず勝ち、一代でインドまでを自らの領地となしたそうです。以来、泰西の王者はみなアレクサンドロスを夢見ました」


 ……そして見果てぬ夢を追いながら、みな中道に斃れたのです。

 その言葉を、バヤンは飲み込んでいた。 



 唐突な話題の転換に何を感じたものか。

 クビライは乾いた笑声をあげていた。その鋭い目をバヤンに据えながら。


 「ははは。これより後、世界の王者は我が偉大なる祖父、チンギス大カーンを夢見るであろう」



 大カーンよ。

 あなたもチンギスカーンを夢見ているのではありませんか?

 その後継者たらんと、二世たらんと。

 

 大地を果てまで支配したチンギスカーンの後継者として。

 偉大なる祖父に並び、追い越すために。

 

 ……世界の海を支配せんと。



 「いえ、これより先の王者はクビライ大カーンを夢見ることでしょう」


 「らしくないな、バヤン。そのような媚言」



 世界の支配者、クビライ。その視線が鷹の如き鋭さを帯びた。

 だがバヤンもまた、視線を逸らしはしなかった。

 

 「媚言ではないのです、わが天なる大カーンよ」


 

 アレクサンドロスのやまい

 権力者が陥りがちな誇大妄想、自意識の肥大。


 それはこじれを引き起こし、数多の王者を打ち倒してきたのだ。

 己はアレクサンドロスに及ばぬという劣等意識コンプレックスによって。



 バヤンには予感があった。

 陸と海をともに己が手中に収め、ひとつの世界に統合しようとするクビライの試みが、困難を極めるであろうことに。

 


 止められぬならばせめて、クビライ自身の大業として。

 偉大なる祖父の影を追うのではなく、新たなる道を切り開く者として。

 若き茶丘と語らうのではなく、導く者として。


 孤独に耐え雄々しくひとり立つ、真の帝王として。



 「わが天なる大カーンよ、大業の一翼を担うこと、私にお命じください。伏してお願い申し上げます」

 

 バヤンもまた、その大業を己のものとして受け入れたのであった。




 モンゴルの経済政策については、特に杉山正明先生の『クビライの挑戦 モンゴル開城帝国への道』(朝日新聞社、1995)ならびに『クビライの挑戦 モンゴルによる世界史の大転回』(講談社学術文庫、2010)を参考にしております。



都統:宋の高級軍人、その一般名称


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