6 文永の役、その概容(R15)
日付は現在の西暦、当時はまだ存在していませんがグレゴリウス暦によっています。
地名は日本語に準拠しております。
「クドゥンとヒンドは同一人物である」という説にしたがっております。
1274年11月9日
早暁、900艘と号された約120艘の軍船が、数回に分けて合浦を出航した。
引き潮と順風に乗り、船団は同日対馬に到着した。
11月11日にかけ、分散した船団は対馬の各所に停泊し、上陸。
射撃戦が展開され、対馬守護代一党が討ち死にした。
モンゴル・高麗は対馬を徹底的に収奪した。
三万と号した遠征軍一万数千人の糧食を支えるために。
大殺戮は無かったと思われる。彼らは無駄な殺戮を好まないから。
民は生かして拉致し、奴婢にするのであった。戦利品・献上品として。
モンゴルは決して野蛮・残虐ではない。功利的にして冷酷なのである。
11月19日
対馬を鎮圧したモンゴル・高麗軍は、航海一日にしてこの日壱岐に上陸した。
応戦した壱岐守護代は一旦降参するふうを装いつつ反撃するなど、粘り強く戦った。
が、洪茶丘、金方慶、その女婿らがこれを撃破した。
そして物資の略奪と人狩りが行われた。対馬以上に。
モンゴル、特に高麗人の意識において、対馬までは自国あるいは属国であった。
壱岐から先は敵国・日本領であると思われていた。
11月22日
壱岐を発ったモンゴル・高麗は、部隊を分けた。
出立する前に行われた、作戦会議に基づいて。
征東右副都元帥の洪茶丘は、同僚の劉復亨と上官のヒンドと共に、クビライが遣わした使者の言葉を聞いていた。
曰く、この戦役の目的は、第一に敵状視察であると。
次回以降の侵攻を容易にすべく、情報を集め持ち帰ることを以て旨とすべしと通達されていた。
「日本の抵抗が弱かった場合には現地を占領しても良いとの仰せである」
使者の語調は平らかであった。
ふたつの指示を併せれば、「つまりはいつも通り」であったから。
モンゴルは、草原の民は、敵に対して波状攻撃をかける。
勝てるなら進む、勝てそうに無いならいったん退く。
日本侵攻も、その姿勢で臨めば良いのであった。
かかるクビライの戦略に従い、ヒンドと洪茶丘、劉復亨は方針を組み立てた。
まず情報によると、日本国、九州と呼ばれる地域の中心は太宰府であり、その守りとして水城なる砦が置かれているらしい。
また外港として商業都市・博多があり、この博多を守るための砦が赤坂山に存すると聞かされていた。
……と、それらは伝聞ではあったが、地図を見るだけでも一目瞭然。
いつの時代に誰がどう見ても、博多湾の要は赤坂山なのであった。
上陸後の拠点(いわゆる海岸堡)としても、またこの地域を制圧しあるいは防禦するためにも。
「つまるところ博多か太宰府を落としてしまえば、敵地占領が可能になるということですな? そのためにまずは赤坂山を確保すると」
劉復亨が威勢の良い声をあげていた。
武将とはそういうもの、驍勇を以て知られた洪茶丘もその言葉に共感を覚えはしたけれど。
「劉左丞(征東左副都元帥)よ、気が早い。そのための地固めをこそ大カーンはお求めである」
穏健な教養人である主将・征東都元帥のヒンドがそう言ってくれたおかげで、茶丘も気兼ねなく口火を切ることができた。
「押さえるべきは、対馬――壱岐――志賀島の線ですね。赤坂山を攻めるために最も効率の良い航路かと思われます。次回以降のためにも、その航路を進軍して現地調査をすべきでしょう。あ、いえ……占領後、高麗からの増援や物資搬入のためと言うべきですか……」
口にしながら、それは無理であったなと茶丘は思い直した。
冬の玄界灘は波が荒い。船の行き来には困難を伴う。そのこと当然調査済みであった。
するとかりに戦局が理想的に推移し、博多か太宰府を占領できたとしても、補給は望めない。
春までは敵地に孤立することとなる。現地調達で過ごす必要がある。
モンゴル・高麗軍の実態は1万数千人。無茶という数字ではないし、そもそも現地調達はいつものことで慣れてはいるが……兵站維持のためにはそれなりの苦労を伴う数字ではある。
そして兵站という意味では負担になるその数字、兵力という意味では逆に心許なくもあった。半数は水夫ゆえ将兵は5~6千人。日本軍がよほど弱いならば別論、その数で孤立しているところに敵の増援があれば、苦戦は必至であろう。
そもそも、矢が足りるかどうか。我らモンゴルの基本戦術は矢戦だが……。
いや、日本もまた武臣政権であると聞いている。
天皇・貴族と幕府が対立していると。また幕府の中でも仲違いがあると。
遠征により圧力をかければ、父(洪福源)のような投降者が出てくるかもしれない。そのまま味方につければ、物資調達も楽になる。
それが合理的な戦のやり方ではあるが、うまく行くか。内応を考えている者があるなら、博多の商人あたりから連絡があっても良さそうなものだが……。
頭脳を動かし始めた茶丘の目の前を、大きく動くものがあった。
劉復亨が大慌てで手を振っていたのだ。気を使わせたことを詫びるがごとく。
「確かに先走りすぎましたな。このままではまるきり猪武者だ。その先は私に言わせてください、洪右丞。『そしてその線を、帰路を確保するために敵水軍の本拠をも叩く必要がある』でしょう? ありそうなのは……ここかな」
地図に指で円を描いていた。
九州北部の各地にあった唐坊在住の商人たちがもたらす情報をもとに作成された、精巧な地図に。
洪茶丘とヒンドは大きく頷いていた。劉復亨の実力は確かなものであると。
東征が本決まりになった1273年になって高麗入りの命を受けた劉復亨とは異なり、数年かけて情報を精査済みであったふたりは知っていたのである。
肥前と呼ばれるその地域には、松浦党なる水軍が屯していることを。
かかる事前の打ち合わせにしたがい、11月22日に壱岐から出たモンゴルはいったん部隊を分けた。
本隊を志賀島に、もう一隊を鷹島・平戸島・能古島を含む肥前沿岸へと。
肥前でも激戦が展開された。
有力御家人を中心に、松浦党の武士が数多く討ち死にした。
モンゴル・高麗はここでも多くの住民を連れ去り奴婢とした。
11月25日
この日までにモンゴル・高麗軍は志賀島に再集合を終えていた。
夕刻、博多湾上陸作戦を開始した。
湾内に浮かぶ軍船から、強襲揚陸小艇が次々と繰り出される。
外洋航海中は大軍船の甲板に積まれていたその小舟、一度に十人前後(推定)の兵馬をピストン輸送するのである。
上陸作戦はセオリーどおり、満潮時に、砂浜を……早良郡は鳥飼付近(現代の福岡城跡の西隣付近)を目掛けて行われた。
満ち潮に乗って、数十の強襲揚陸小艇が順繰りに浜へと押し寄せる。
月明かりのもと闇にうごめくその気配を、陸の日本武士団は武者震いしつつ待ち構え、母船上の洪茶丘は爪立つような思いで望見していた。
爆音が茶丘の耳を打った。
投擲されたてつはうが弾けたのだ。接敵の証である。
同日22時頃、モンゴル・高麗軍の第一陣は上陸に成功した。
11月26日
早朝より昼にかけて浜に満ち行く波に乗り、モンゴル・高麗軍は、数箇所に分かれて第二次上陸作戦を展開していた。
一は東のかた博多と筥崎宮を目掛けて。
あるいは西のかた今津浜へと。
モンゴル・高麗軍は各地で勝利を収め、筥崎宮を焼き払った。
それらは日本軍の防禦を分散させることを目論む分遣隊に過ぎなかった。
本命はやはり鳥飼周辺、すなわち赤坂山の直下であった。
鳥飼でも上陸に成功したモンゴル軍は、赤坂山を攻撃するための陣を布いた。
だが日本軍には地の利がある。赤坂山が要であること、平安の昔より先刻承知であった。
御家人たちが集まり、激戦の末ついに肥後国御家人菊池一党が敵陣を駆け散らした(赤坂の戦い)。
赤坂の戦いに負けたモンゴル軍は南・西へと逃げた。
その主力は西の麁原山(現:祖原)へ、一部は南の別府塚原へと。
麁原もまた小山であり、要害のひとつとして兵が籠められてあった。
ここを落として拠点としていたモンゴル・高麗軍は、赤坂山下での敗戦を聞くや、再び陣を取り返すべく即座に進発した。
赤坂の戦いは、日本軍にとって前哨戦・先鋒戦であった。
続いて本隊が、大友頼泰に率いられた御家人衆からなる大部隊が移動してきた。
そしてモンゴル・高麗軍と激突したのであった。
大激戦となったこの衝突、鳥飼潟の戦いと呼ばれている。
勝利を収めたのは日本であった。
モンゴル・高麗軍は潰滅しかけた。
だが先手を担当していた高麗軍の指揮官・金方慶が必至で叱咤し、軍をまとめあげた。
そのまま追撃してくる日本軍を退け、麁原山へと引きあげたのであった。
日暮れと共に、双方兵を引いた。
以後数日、麁原山のモンゴル・高麗軍は赤坂山の日本軍と睨み合った。
金方慶の働きを、主将のヒンドは褒め称えたと史書にはある。
「我らモンゴルは戦に習熟しているが、これ以上の戦ぶりを私は知らない。諸軍もともに戦うように」と。
その前のこと。
麁原山を確保したと聞いた劉復亨は、やや後方にあたる百道原から上陸した。
戦術判断としては間違っていない。征東左副都元帥の劉復亨は遠征軍の第三席にあたるのだ。拠点が確保されて後、後方から安全にそちらを目指すのは理にかなっていた。
しかし「麁原山が確保されて後、使者が海岸に出され、強襲揚陸小艇から母船に至り、再びバアトルに乗って劉復亨が百道原に至る」それまでのタイムラグの間に、麁原山のモンゴル・高麗軍は赤坂に向けて急遽進撃を行い、鳥飼潟にて戦となり、敗れていたのであった。
劉復亨が上陸したところに、鳥飼潟の戦いに敗れた友軍が乱入してきた。
統制を失う中、さらに日本軍が突入してきた。
劉復亨は乱れ飛ぶ矢に射られ重傷を負い、ふたたびバアトルに乗り込み軍船に戻ることとなってしまったのである。
日本軍は赤坂・鳥飼潟では勝利を収め、最重要拠点・赤坂山は死守した。
だがモンゴル・高麗軍の上陸と拠点確保は許してしまい、また筥崎八幡宮を焼かれるなどの事情もあり、心理的には強い衝撃を受けていたようだ。
消沈する者が多い中、気を吐いた者もあった。
この日22時頃、やはり満潮を利して二隻の船が博多湾へと漕ぎ出した。
志賀島に置かれたモンゴル・高麗軍の本拠へと乗り込み暴れ回ったと言う。
11月30日
この前後、麁原山に陣を築いたモンゴル・高麗軍は、軍船と連携して四方に兵を出していた。
一部の騎兵は南東へと駆け、11月30日、大宰府付近にて日本軍と交戦。
無理を避けて帰還した。
だがそろそろ潮時だ、洪茶丘はそう考えていた。
糧食も矢も乏しくなりつつある。博多も大宰府も占領できていない。
一方で情報を得ることはできたし、航路の確認も行った。
ならば本格的な冬が来る前に帰還すべきである。
軍議の場にて茶丘が退却を提案したところ、強い反発の声が上がった。
金方慶であった。高麗軍の代表者として派遣されていた彼には、モンゴル軍の意図は知らされていなかったのだ。
「兵法には、『敵地深くに入り込んだ軍の鋭鋒は、とても遮ることができるものではない』とあります。我らの兵は数こそ少なくはありますが、すでに敵地に入り込んでいるからには、無理強いされなくとも自発的に戦うことでしょう。これは渡河作戦を指揮した秦の孟明視が船を焼いて不退転の決意を兵に行き渡らせた状況と、また韓信が背水の陣を布いた状況と同じではありませんか。戦いましょう」
涙を流し、喉が張り裂けんばかりに声をあげていた。
が、茶丘にはその心が理解できなかった。
茶丘とて鬼ではない。
目の前の老将とは4年の付き合いになる。
中央から送られてきた監督役である茶丘と、その茶丘と現地の高麗人との間に立つ中間管理職・現場監督である金方慶と。衝突も多かったが、ともに高麗の内治に取り組み、遠征準備を重ねて来た仲でもあった。今や轡を並べる戦友でもある。
最先端の大戦艦を建造しようとした茶丘に対し、戦時の機動性や予算、資材の都合等を理由に小型艦へと計画変更をさせたのも金方慶であった。理路整然としたその主張に茶丘も満足を覚えたものであった。
泣き叫び党派争いばかりしている高麗文官とは違う男、実務を知る堅実なベテラン、合理的な思考のできる有能な軍人。それが茶丘から見た金方慶である。
自分のほうが三十以上も年下であるゆえ軽んじられたくはなかったし、こちらを嫌っていることも感じとれていた。それゆえ口にも面にも出しはしなかったが、茶丘は金方慶を嫌ってはいなかった。
この時までは。
おかしい、洪茶丘はそう思った。
国土防衛戦、あるいは追い詰められての守城戦などとは訳が違う。涙を流して戦を請うような場面ではないはずなのだ。
遠征軍の幹部となり、思う存分暴れ回った。主将に称賛される采配を見せ、手柄も十分。軍人の本懐であろう。
高麗軍の主将ともなれば、この男も奴婢や褒賞などを含め、莫大な利益を得る。
ならば命が惜しくなる、利益を確実に持ち帰りたくなる。それが戦場の人間心理であることを、戦ずれした茶丘はよく知っていた。
……利益でないとするならば?
目の前の老人は、高麗王朝の忠臣と呼ぶにふさわしい男であるが。
なるほどモンゴルの意図は知らせていない。が、合理的に考えれば分かるではないか。
日本に残ったところで勝つことは至難の業。その死線を超えてでも……。
この男、何を求めている?
頬の筋肉がひくつくのを、茶丘は止められなかった。奥歯を噛み締める。
若者らしい率直に過ぎるその態度を目で軽く制し、ヒンドが静かに口を開いた。
「兵法には、『兵力の小さい側が戦線を堅持したままでいると、兵力の大きい側に捕捉されてしまう』とある。疲れ衰えた兵を鞭打つように駆り立てて、日ごとに増える兵と敵対するのは万全の策ではない。退却すべきだ」
総司令官・征東都元帥の言葉である。
方針は、決まった。
その日以来数日かけて、モンゴル・高麗軍は夜陰に乗じ少しずつ兵を軍船へ、志賀島へと移していった。
総退却が行われた日は、偶然風雨が強かった。その波浪を突いて、強襲揚陸小艇の水夫は――勇者を意味する舟の名に恥じぬ活躍によって――母船へと兵を送り返したのである。
赤坂山にあった日本軍も、その数日間の異変に気づいたかもしれない。いったん母船に引き揚げての「配置換え」、攻撃目標の変更と思っていた可能性も考えられよう。
あるいはモンゴル・高麗の偽装に、麁原山から兵が減っていることに、そもそも気づいていなかったかもしれない。
「風雨の夜が明けたら、モンゴル軍が消えていた」
その風説だけが、後世に伝えられた。
1275年1月2日
この日、征東軍は合浦に到着した。
順風なら3日の船路である博多~合浦を、モンゴル・高麗軍はひと月かけて慎重に進んでいたのであった。
低気圧、寒冷前線の通過があった玄界灘は、冬を迎えていた。北西風(向かい風)の吹きすさぶ日が増え始めた。
だがモンゴルは順風が吹くまで焦ることなく風待ちを続けた。
日本からの追撃、その有無の確認にも怠り無かった。
糧食や水を十分に補給した。
兵・民の造反の予防に万全を期した。
日本で得た情報を、奴婢を……「利」を、確実に持ち帰るために。
無理、すなわち不合理な行動を取ることはなかった。
高麗軍は、攻勢にあっては先鋒を、退却にあっては殿軍を務めていた。
嵐の中退却した兵も、その水夫も、みな高麗人であった。
「還らざるもの無慮1万3500余人」と史書にはある。
史書にありがちな数字の誇張ではあろうが、犠牲が大きかったのはモンゴルよりも高麗であった。
当時の軍船は母船の上に汲水船、揚陸船を乗せて外洋を航海したそうです。
「120艘弱の軍船が、小舟とあわせて360艘。それを900と号した。軍勢も120×100人で12,000人がひとつの目安、その半分が将兵ではなく技術職である水夫」……という説を参考にしました。
征東都元帥のヒンドが大将です。副将が洪茶丘と劉復亨。モンゴルでは左より右が上位ですので、順に次席、三席となります。
金方慶は高麗軍の代表で、形式的には洪茶丘と劉復亨に並ぶ地位のようです。
赤坂山:のちの鳥飼城、福岡城、現在の福岡城址。
警固所:防衛拠点・砦
早良郡:明治時代以降の早良郡ではなく、現在の福岡市早良区。東北は福岡城、東南は背振山、西南は金山、西北は生の松原、といった範囲内を指す。
別府塚原:別府。現在の福岡城址の南西。
麁原山:現在の祖原。福岡城址の西。
文永における元軍上陸地点については、「少なくとも石築地があるところには、文永の役で上陸した。あるいは上陸を目指した」ものとイメージしました。
参考文献として、特に、服部英雄先生の『蒙古襲来』(山川出版社、2014)、『蒙古襲来と神風 - 中世の対外戦争の真実 』(中公新書、2017)を挙げさせてください。
ただ、「肥前鷹島方面への進出は無かった」、また「文永は強行偵察ではない」という点については、私はそれぞれ「あった」、「言葉の定義の問題はあるかもしれないけれど、『波状攻撃の第一波』ではないか」と考えました。