5 海洋進出を控えて
三別抄は江華島から珍島、耽羅へと逃れた。
鎮定には1270年から1273年まで、足掛け4年の歳月がかかっていた。
いや、モンゴルはあえてそれだけの時間をかけた。
上層部の意を承けた洪茶丘も、解決のタイミングを計っていた。
船を建造し三別抄討伐に運用することをもって、来るべき戦に備えるために。
1274年1月、高麗には軍船の建造が、茶丘にはその監督が命ぜられた。
とは言え建造の命はそれ以前より下っていたところでもあり、茶丘もまた軍需物資の蓄積等も含め準備を進めているところではあった。
……だが高麗人は、どうも私を誤解しているようだ。
洪茶丘には、その思いが拭えなかった。
「祖国なのに、なぜ血も涙も無く収奪するのか?」とか。
「我らを駆り立てるのは、高麗人に父を謀殺されて恨んでいるからだ」とか。
そんなことを考えているらしい。
父を漢人に殺された高麗人は、金宋の住民一億人を弾圧するのか?
父を隣人……高麗人に殺された高麗人は、同胞全てを滅ぼすのか?
バカバカしいと吐き捨てる気力すら、彼には湧いてこなかった。
茶丘が高麗の物資を収奪していた理由は、別にあったのだから。
日本に遠征するならば、高麗は前線基地となる。
したがって軍需物資を蓄積する必要がある。それが、モンゴルが高麗王朝の国富を、半島の物資を徹底的に収奪していた理由の第一である。
三十年にもわたって反抗を繰り返してきた高麗王朝を、モンゴルは信用していなかった。武臣が悪いのだと言いたいところであろうが、それは高麗の都合に過ぎない。モンゴルからすれば、「統治能力・当事者能力無し」と評価するほか無かった。
日本との戦争中に高麗が、あるいは武臣が造反する恐れが皆無であるとは、モンゴルには思えなかったであろう。
そして後背を脅かされては、外征など成立するはずがない。ならば開戦前に余力を奪い反抗の芽を摘むのも当然の話。これが第二の理由である。
しかも高麗王朝は、その立地が厄介であった。
漠北本土に近い。クビライを支え続けた権力基盤のひとつ、東方三王家の隣地である。遼東半島を挟んで大都・上都の隣でもある。
つまりモンゴルのハートランドと首都圏を守るためには、半島の安定は絶対条件とならざるを得ない。これが半島を鎮圧した理由の第三であった。
和州以北を割譲させた1258年の和約、崔坦の内附を許した1269年の勅命、1271年からの直轄領化。これらは全て軌を一にしている。
高麗王朝の政治的影響力を排除しモンゴルの安全を確保するという、長期的な視野に立った政策であった。
1273年、耽羅に逃れていた三別抄の鎮圧をもって、半島から反モンゴル勢力が消滅した。
三別抄に担がれていた高麗の王族については助命嘆願があったが、洪茶丘はそれを無視し、彼らを殺害した。
叛乱の首魁ゆえ、当然の処置ではあった。
王族をあまり残しておくと、またぞろ武装勢力の旗印にされかねないという理由もあった。
そして……。担がれていたふたりの高麗王族は洪茶丘の父・福源を謀殺した永寧公綧の親族でもあった。
茶丘の弟・君祥はこの時期、対宋戦線に回っていた。
兄に留守を、洪家を託して。
手紙でも父の仇を取れ、永寧公を許すなとうるさく言ってきていた。
動きの鈍い茶丘を語気鋭く非難していた。
が、茶丘にはそれができずにいた。
亡命高麗人の奪い合い・勢力争いの果てに洪福源を讒訴して死に追いやった永寧公綧は、1270年に公職から、管領帰付高麗軍民総管の地位から、引退していた。
容姿端麗にして話術に優れ、モンゴルの王族を妻に受けていた永寧公綧は、宮廷遊泳に長けた男であった。
洪茶丘と――父の地位を17歳で継ぎ、20代後半からは高麗行政を取り仕切る地位に就き、今後も出世間違いなしと謳われている若手将校と――争うことの危険を嗅ぎ分けたのであろう。
うまく逃げられてしまったが、そもそもモンゴル王族を妻にしている永寧公を殺すことは困難でもあったのだ。
だがその親族まで許しては、儒学を叩き込まれている君祥との兄弟仲が決裂してしまう。
そもそも国賊、助命する義理もない。
だから茶丘は永寧公綧のふたりの親族を殺した。
が、そこまでであった。
それ以上永寧公を強く追及することは、茶丘にはできなかった。
お茶を濁したと言えなくも無い。
……彼らの父・洪福源が讒言によって死んだのは茶丘14歳の時。
洪福源の勢力――かりに洪軍団と称するが――洪軍団は、高麗からの亡命者で構成されている。儒学の影響が強い高麗の風習によれば、冤罪が雪がれた後の継承者は長男になるはずであった。
だがクビライは次男の茶丘が17歳になるのを待ち、彼に父の地位を、その軍団を継承させた。
その洪軍団の本拠・勢力圏は、遼陽・瀋陽に置かれていた。
上都・大都と周辺都市で構成されている大元ウルスの首都圏、その東隣である。
29歳になった茶丘は、理由を理解できるようになっていた。
父の弁疎が聞き入れられなかった理由を。
当時漠南漢地大総督であったクビライが、兄の大カーン・モンケに口添えしなかった理由を。
父が殺され……その地位が自分に授けられた、その理由を。
永寧公を父の仇として糾弾することが、究極的にいかなる意味を持つことになるか。
彼には理解できていた。
茶丘には永寧公を害することができなかった。
あの日以来、茶丘が父と頼むのは大カーン・クビライただひとりなのだから。
「永寧公に父を謀殺されたことで高麗に怨みを抱き、ことあるごとに害を為した」と非難される洪茶丘を、弟の君祥はただひとり弁護していたと史書にはある。
「兄は永寧公を怨んではいませんでした。高麗を裏切る意思など持っていませんでした。高麗のために利をもたらし害を除こうと、力を尽くしておりました」
その言葉を口にする時、君祥は温和な頬に苦いものを浮かべていた。
浮かべつつも、茶丘が非難された時には必ず反論していた。反論せずには己を許せぬかのごとく。
が、それははるか後年のこと。
この時期の茶丘は多忙であった。余事に思い耽る余裕は無かったであろう。
ヒンドを上官にいただきつつ屯田(直接統治)を半島全域に及ぼし、三別抄鎮圧に乗り出すのと並行して、茶丘は軍船建造の監督に取り組んでいた。
その督促は厳しかった。
史書には高麗の恨みが綴られている、けれども。
文永・弘安の両戦役を通じて、外洋を渡った彼らの軍船には当時最新鋭の技術が用いられていたと聞く。
そのため高麗・モンゴル連合軍には被害が少なかったとも。
高麗の職人の腕が良かったから、徴用された民が必死で働いたからと言われる。
それは事実であろう。
だがいくら優れた腕を持っていたにせよ、その時代の職人が世界最新の技術や軍事機密に触れられるものであろうか。
技術指導だけではない。大量の資材を調達する必要もあれば、品質管理も労務管理も必須であったはず。
日本に攻め込んだ最新鋭の大軍船、その数は百艘を越えていた。
その建造は(珍島制圧から数えて)わずか4年、本格的に取り組み始めてから1年で成し遂げられている。
誰よりもモンゴル人たらんとしている洪茶丘は、すなわち合理主義、効率主義、功利主義の男であった。
洪茶丘、すなわちモンゴル人の管理監督が厳格であったことは確かであろう。
いや、冷酷ですらあったろう。
だが一面では、その厳しさ冷たさが堅牢な軍船を生み、多くの将兵の命を救うことにもなった。
「高麗を裏切る意思など持っていませんでした。高麗のために利をもたらし害を除こうと、力を尽くしておりました」
身近にあった弟の君祥による、それが兄の茶丘に対する言及であった。
茶丘は軍船建造に取り組んでいた。
史書に恨み言を書き連ねられるほど熱心に。
クビライが江海を強く意識していたがゆえに。
長江に守られ、海路を通じて各都市が連携を取っている宋を攻略するためには、水軍の力が必須である。
いや、ことは軍事活動に、対宋戦役に限らぬ。西を押さえるためにも必須であった、のだが。
ともかく当面は宋であった。
だからこそ手始めに、日本国を招諭する必要が、聞き入れられぬなら叩く必要があったのだ。
その日本の所在は宋の南東海上、軍事的にも支援を行える位置にあるという噂があった。いや、噂どころか文献資料、史書の倭国伝などにもしばしばそうした記述がある。文字通りに読めば、だが。
その情報は間違いであろう。だが確認の必要はある、茶丘はそう考えていた。
あやふやな噂だけではない。確定的に明らかな事実も存在していた。
日本は宋に対し、軍需物資を大量に輸出していたのである。
硫黄。
鉄砲。これにモンゴルも苦しめられていた。
モンゴルも宋を攻撃するために火砲(大砲)を使用していた。
その鉄砲・火砲を製造するために、硫黄は必要不可欠である。
そして江南には、いや江北、河南河北、広大なモンゴル領まで含めても、大陸には火山が乏しい。
――日本には「火国」と呼ばれる地域があり、そこでは林立する火山が大量に硫黄を吐き出している。その硫黄を、日本は宋に輸出している――
宋に、博多に遣わした密偵から、出入りする商人から、モンゴル中枢部にはその旨報告が上がって来ていた。
宋を、江南を、モンゴルは吸収しなければならない。西を押さえるために。
それはクビライにとって絶対の命題であった。
それゆえにクビライは何度と無く日本に使者を遣わしたのであった。
時勢を見よ、我らに協力せよ、つまりは宋を見限れと。
日本にとっても悪い話ではないはずだ、モンゴルはそう考えていた。民間も含めた交易は滞りなく続く、それどころか拡大する。大国であるモンゴルは、より大量の木材・硫黄を欲しているのだから。
だが日本国はモンゴルの国書に対し黙殺を貫いていた。
ならば軍事力の行使による他ない。うまみが少なくとも。
そう、うまみは少ないのだ。
「あの国が黄金の国だと? 馬鹿げている」
……情報を珍重する我らモンゴルがそのような見込み違いをすることはない。
揃いつつある軍船を眺めつつ、茶丘は頬を冷たく歪めてひとりごちた。
「黄金の国」の話を持ってきた商人……いや山師と呼ぶべき男の顔を、憎々しく思い出していた。
……大カーンは情報をもたらす者に温顔をお見せになる。
つまらぬ話にも一面の真実が、取るべきところがあるからだ。集めて分析すれば、民情に経済、政局に軍機すら知ることができる。
だからと言って曲者が、大カーンのご厚情を良いことに愚にもつかぬ与太話を。
貿易の内容、規模、あるいは額を見れば、その国の経済は知れる。
色目人を通じ、我らモンゴルはその知識を得た。
硫黄・木材を輸出している日本が、その売り上げで宋から必死に買い集めているのは銅銭である。その旨調べはついている。
銀本位こそが至高だとまで言うつもりは無いが……少なくともあの国の経済は、銅銭の鋳造・流通にすら難がある段階ということだ。
「狼勇にして殺を嗜み……其の地を得るも富を加えず」という評価こそが真実であるはず。
その経済規模は宋はもちろん、滅ぼされた金にも遠く及ばぬ。高麗とどちらが上かといったところ。
そして経済規模は、そのまま国力を示す。
金を滅ぼすまで23年。高麗は20年、6回。
日本征服を成し遂げるには何年、何回かかるであろうか。
難点と言えば海を挟んでいることだが……いや、だからこそ大カーンは日本遠征の成功を熱望されているはずだ。
そう。
大カーンは、海洋進出をお望みなのだ。
これまでモンゴルが得手としていなかった海洋進出、その困難を打開する先駆けに、責任者のひとりに、この私を選んでくださったのだ。
耳を打つせわしげな靴音の響きにより、茶丘は現実に引き戻された。
下僚が外征準備の完了を告げに訪れていた。
一瞥も与えず、手を振って退出させた洪茶丘。
軍船の舳先を、海原を望むその澄んだ瞳には、隠しきれぬ熱が浮かんでいた。
モンゴル帝国とクビライのいわば「性格」については、おもに杉山正明先生の著作群を参考にしております。
文永・弘安の役については、おもに服部英雄先生の著作群を参考にしております。
東方三王家: 興安嶺沿いに領地を持つモンゴルの諸王家。チンギス・カーンの3人の弟の一族。これを左翼とし、チンギス・カーンの3人の息子の一族である西方ウルスを右翼となし、チンギス・カーン本人と後継者である末子トゥルイの一族を中央とする、遊牧騎馬民族によくみられる三部編成をモンゴルも採用していた。
大都:ほぼ現在の北京。大元の冬の首都。
上都:金蓮川(現在の北京のほぼ真北275km)に建設された、大元の夏の首都。大都―上都の周辺に各種の都市が配置され、大元の首都圏となっていた。
大元ウルス:クビライ政権。いわゆる元王朝。これを中華風に表現する時には大元(王朝)、モンゴル風に表現するときには大元ウルス……としております。




