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4 高麗の活路 ~世子諶(しん)の構想、金方慶の忠義~



 1271年11月、大元王朝が成立した。



 人質として入朝し、祝賀の儀式に参列していた高麗世子(しん)は、その盛大さにため息をついた。

 同じ王者でも、祖父と父の治世は苦悩と恥辱にまみれてきたというのに……そう思うと、顔を上げることすらつらく思われた。


 

 モンゴルの侵入を防ぐべく前線に武臣を、あの憎き洪福源を貼り付ければ真っ先に裏切り、王都への道案内を務める始末。

 堅壁清野の策のもと、勇敢に抵抗した我らに感銘を覚えた先代大カーンが……いや、いまや大元国憲宗皇帝陛下であったか……ともかく好条件で降伏を認めてくれるはずであったのに、武臣どもは見境なく抵抗した。

 文官と協力して宮廷闘争を繰り広げ、武臣の隙をかいくぐるようにして降伏しても、モンゴルからは国富を徹底的に収奪され。

 それでも耐える他に道は無いと、父が……かりにも国王陛下が屈辱に耐えているというのに。

 その心も知らぬ武臣どもが叛乱を起こし、そのたびにモンゴルに介入され。

 国土の荒廃は目を覆わんばかりであったが、それも三分割されてしまった。北に崔担、南に三別抄。高麗に残されたのは半島中央部だけ。

 いや、その中央部すらモンゴルの直接統治下にある。今や我ら高麗は寸土をも支配していない。

 重なる心労に父はやせ衰えた。

 私が国王の地位に就く日も遠くないかもしれない。



 その想念が不孝にあたることに思い至り、世子諶はあわてて首を左右に振った。

 だが顔を上げ視野を広げたそのせいで、胡服弁髪の若者が浮かべる屈託無き笑顔が目に入る。

 耐えられなくなり逃げるようにして、割り当ての豪奢な宿舎に駆け込んでいた。 


 高麗にあっても、ここ大元の大都にあっても、周囲には監視の目が光っている。

 不用意な発言をせぬよう自戒する日々を過ごすうちに、世子諶には、ひとり心中に思いを広げ想念を遊ばせる習慣が身に付いてしまっていた。

 この日もまた頭を抱えひとり思索に沈むその姿に侍臣たちは唇を噛み、静かに退室する。せめてお邪魔をせぬようにと、あるじのため彼らにできることは他に無かった。

 その心ひとつに慰めを感じ、世子諶はようやく背筋を伸ばし宙を仰ぐことができた。

 



 ……なぜこんなことになったのだ。

 モンゴルはかつて漠北の小部族であったと聞く。

 それが金を滅ぼし、西夏を滅ぼし、はるか泰西までを版図におさめている。

 

 いまや大元などと、おぞましくも中華風の国号まで立てて。

 容赦なく利を貪るあの冷酷な者どもがのさばる、天道はそれをお許しになるのか。


  

 大元、大元……。


 「哉乾()」ゆえ、「大元」か。


 これまで中華の国号は、発祥の地から名づけられていた。

 劉邦が漢中王だったから漢、李淵が唐国公だったから唐。

 しかしモンゴルは中土の内に発祥の地を持たぬ。

 ゆえに嘉名を以て国号と為したと聞く。


 「大哉乾元」。

 『易』の冒頭四字。


 あらためて『易』の経文を頭に呼び起こす。

 筆を執り、太極図を描いてみる。

 

 『易』は『詩』と並ぶ聖典である。

 易を知らぬ者に政治を任せてはいけない、詩を知らぬ者に外交官は務まらない。それは漢字文明圏われらの常識だ。

 易に書かれていること……占いを信じるかは別論として、少なくともその哲理は真実なのだ。

  


 陰極まれば陽生じ、陽極まればまた陰が生ずる。

 それは絶対の真理。


 陽剛を誇るモンゴルも、つい三代前までは零細であった。それがここまでの強盛に至ったならば。

 また再び陰に返るのも、理の当然ではないか。


 ……モンゴルも、いつの日か必ず弱体化するのだ。




 世子(しん)の胸に熱いものがこみ上げてきた。

 くじけがちになる心、悲観に押しつぶされそうになっていた胸に火が灯れば、体に力が湧いてくる。立ち上がり歩むことができる。

 体の一部である頭脳もまた然り。高麗国の王となるべく教育を受け、研鑽を積んできた世子諶の頭が回転を始めた。胸中に構想が湧き上がってきた。




 易理をただ暗記するだけならば、誰にでもできる。

 仮にも士(識字層)ならば、いや大夫(国政に携わる者)ならば。

 易理を応用敷衍し、国政に活かさねばならぬのだ。

 まして私は王になる身なのだから。


 月は満ちればまた欠ける。

 満月の訪れが早ければ、欠け始めるのも早くなる。

 全盛期が早く訪れれば、廃頽の訪れも早まるのだ。それが易理である。


 だからこそ、強盛なるものに敵対する時は、逆らってはならぬ。

 強盛をさらに後押しすべきなのだ。その転落を早めるために。

 それが易理の敷衍である。



 歴史をひもとけば、古来わが半島は、中華の帝国に圧迫され続けてきた。


 しかし中華の帝国が半島に手を伸ばすとき、必ずその試みは失敗に終わってきた。戦に勝利したとて、彼らの統治が長続きすることは無かった。

 遠征の負担が大きすぎるからだ。


 満月の欠け始め、十六夜月の闇こそが、我が半島。


 しかし今モンゴルは空前絶後の勢い。半島を蹂躙しつくしてなお衰えを見せぬ。

 なぜだ!



 ……足りぬのだ。


 モンゴルの強盛、その限界点は、まだ先にあるのだ。

 彼らは月では無い、じりじりと身を焦がす六月の太陽だと思ってかからねばならぬ。

 

 ならば夕暮れに向かい、モンゴルを駆り立てるのみ。

 陰に回り後ろから押すのでは足りぬ。

 己が身を焼き焦がしてでも前に立ち先導するのだ。


 事大……まずは大国に追従する。

 信を得て内懐に入ったならば、前に立つ。その国論を誘導する。

 大国が行動を起こす時は尖兵となり酷烈に働くのだ。利を掠め取り生き延びるのだ。



 そうだ、戦が良い。

 戦が激化すれば、モンゴルも敵も双方引けなくなる。泥沼化する。


 大国の鼻面を引き回し、戦に駆り立て消耗させる。

 我らも疲弊の極みに達するであろう。

 だがその焦土の中にこそ、再び祖国が浮かぶ目も見えてくる。


 

 ……ちょうどいまモンゴルは、日本招諭を試みているではないか。


 半島に手出しをしても、なお弱らぬならば。

 半島のその先にまで、手を伸ばさせてしまえば。


 開京の目と鼻の先にある江華島すら落とせぬ連中に、海を渡っての戦などできるわけがない。

 獅子に似るモンゴルを、豺狼の如き日本と噛み合わせて弱らせるのだ。


 そのためにできることであれば、何であれ……。

 私は高麗の王になる男なのだから。


 事大、一体化のためにできることとは?

 大元の国論を誘導できる地位に就くためには?


 そうして初めてモンゴルの隆盛は、陽剛は、ようやく陰柔に転ずるのだ。

 我が高麗の再興は、その後に成る。




 愁眉を開いた男は、この日より下を向かなくなった。

 

 1271年6月、世子(しん)はモンゴルの皇女を娶る許可を得た。

 同年、世子諶はその衣冠をモンゴルふうの胡服辮髪に切り替えた。



 翌1272年、世子諶は日本征討を上奏した。






 高麗に帰国した世子(しん)を迎えた宿将の金方慶は、深い悲しみに沈んでいた。


 金方慶は忠臣である。


 武臣でありながら高麗王と宰相李蔵用に、文官に協力し続けてきた。

 宮廷に居座る高級武臣たちの視野の狭さをともに嘆いてきた。


 ただ嘆いていたばかりではない。

 金方慶は軍人らしい実務家でもあった。

 屯田制が高麗全土に布かれた1271年には経略司の総責任者・経略使ヒンドと交渉し、総経略司(本部)を鳳州から開京へと移転させることに成功した。

 元の屯田とは、「兵に土地を耕させる」という意味ではない。「兵を現地に駐屯させる」といった意味あいである。その駐屯費用は高麗の負担である。

 つまりこの交渉により、高麗は糧秣その他の費えを鳳州へと運搬しなくて済むようになったのだ。負担が軽減され、高麗はひと息つくことができるようになった。

 地味に見えて大きな意味を持つそうした仕事を黙々とこなしてきたのが金方慶である。



 その金方慶が、いや高麗の百官が、深い悲しみに沈んだ。

 高麗の衣冠を捨て胡服辮髪で開京入りした世子諶を目にして。


 魂を売ったかと嘆く者もいたが、金方慶ひとりがそれは違うと思っていた。

 世子の目に力が宿っていることを彼は見抜いていた。


 しかし彼には、世子諶の構想までは見抜けなかった。

 大元を後ろ盾に頼み、現体制を改革する。武臣を排除した上で国力増強を図る。そういうおつもりであろうと考えていた。



 「お若いな」


 ひとり胸中につぶやいた金方慶は、この年60歳。

 高麗王のもと古き良き高麗を復活させようと不断の努力を重ねる男は、人質生活が長く高麗の現場を知らぬ世子に頼りなさを感じていた。

 

 「それでは権臣がモンゴルに代わるだけ。直接統治を受けたままの現状では、改革ではなく改悪、国が滅びてしまう」


 お若い、お若い。

 間違っても口に出さぬよう下を向き口を覆うその姿は、世子諶の屈辱的な姿をともに嘆くものとしか見えなかった。


 「そもそも高麗王の御位は、何かを為されるためにあるものではない。拱手南面される(かつがれる)ことこそがそのお仕事。……私にお任せくださればよいものを」



 忠臣の志操とは、堅固なものと決まっている。

 新奇な思想に染まることなどありえない。


 金方慶は古き良き高麗の復権を目指していた。

 それは自身が実務を仕切る武臣政権なのである。


 「だが殿下のお心も分かる。歴代の武臣は忠というものを知らなかった」


 彼は崔氏・金俊・林衍の輩とは違っていた。

 その一生を通じて高麗国王を蔑ろにすることなど絶無であった。

 その心は忠義と愛国心に満ちており、それゆえに国王と高麗を踏みつけにする武臣に反発し、モンゴルに憤慨してきたのだ。その心を決して面に現さず、高麗王国の栄光を掴むために苦闘し続けていたのだ。

 



 翌日のこと。

 高麗王と世子諶が百官を呼び集め、方針を訓示した。



 「なるほど、日本征討に積極参加ですか」


 謹厳な態度を崩さず、忠臣金方慶はただひと言を発して後、沈黙を貫いた。

 実務経験が長く沈着な彼は、その胸中を軽々に明かすことの愚かしさをよく知っていた。

 百官が争論を始めるなか、ひとり構想を胸中で練っていた。



 ……モンゴルは水に弱い。

 江華島も落とせず、敗残の三別抄が立て籠もる珍島は総攻撃をしかけてやっと落としていた。どちらも陸から一里(400m強)と離れていないというのに。

 あまつさえ討滅を果たせず、残党をさらに沖合いの耽羅に逃がす体たらく。


 日本征討となればモンゴルは――いや、合理的な軍人であればなに人であれ――高麗に尖兵を担当させるに決まっている。

 忌々しい話だが好都合だ。軍人としては下賎の仕事である兵站をモンゴルの連中に担当させ、高麗の力で日本国を征討するのだ。


 そして九州と言ったか、そこに私が領地を得れば良い。荒れ果てた今の高麗よりは豊かであろう。国王になる世子殿下にお移りいただけば、高麗国の再興はその時に成る。高麗王陛下さえおわせば、そこが高麗国なのだから。

 大陸とは海を挟む九州は、江華島・珍島・耽羅とは違う。今度こそモンゴルになど手出しはさせぬ。国王陛下は、高麗の国体は、私が支えてみせる。


 そう、宿敵モンゴルの力を用いて領土を増やすのだ。

 国土を削られてきた失意の日は終わる。

 そして力を蓄え、またいつの日か半島の実権を取り戻し、開京に凱旋するのだ。

 



 朝議果てて後、金方慶は物陰で囁いていた。


 「殿下、いまは忍従の時です。日本征討、必ず成功させましょう」

 

 世子(しん)もまた、力の籠もった目で頷きを返していた。

 

堅壁清野の策: 焦土戦術。

崔氏: 高麗で長らく政権を担当していた武臣の一族。

金俊: 崔氏没落後に政権の座に就いた武臣。

耽羅: 朝鮮半島南西部に浮かぶ島。いまの済州島。半島からの距離は約50km。

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