3 兄弟
洪茶丘の赴任先は、父の祖国高麗であった。
世に林衍の乱と呼ばれる高麗王朝の内紛を収拾するよう命ぜられたのである。
が、この任務は空振りに終わった。
翌1270年、当の林衍が病死したことにより。
しかしその残党・三別抄は解散しなかった。
三別抄、その名の意味するところは非正規採用軍。が、その実は高麗における近衛兵団兼首都警察の如き存在にして、高麗武臣政権の尖兵である。
彼らはモンゴルの支配に反発し、高麗の都・開京のすぐ下流に浮かぶ江華島から出ることを拒んだ。
官民の支持を失って後は江華島から逃亡し、半島の南西に浮かぶ珍島を占領した。
「ま、あとは時間の問題だ」
涼やかな笑顔を浮かべ、茶丘は弟の洪君祥に声をかけていた。
かたや鋭意がその眉宇にまで現れている青年、かたやそのまるい頬に温和な性を滲ませている少年。
まるで似ていない兄弟であったが、そのゆえにふたりはかえって馬が合った。
「当座は放置し、内政を固めるのですね?」
三別抄の勢いは必ずしも等閑視できるものではなかったが、モンゴルはあえて殲滅を焦らなかった。
半島の向こうは海、彼らに逃げ場は無い。北から順に統治を安定させれば良いのだ。その勢いは自然と弱まっていく。
「大カーンは崔担の内附をお認めになったそうだな」
林衍が病死する前の1269年10月、高麗の政局が混乱を極めるそのさなかであった。
高麗から半島西北部の守備を命ぜられていた崔担が独立し、60の城市をもってモンゴルへの内附(帰属)を申し出たのは。
「ええ、兄上。先だってのご下命も併せて慮るに、大カーンが半島西北部を高麗に返還されることは無いでしょう」
林衍の乱が収まる以前、1269年の12月にはすでに、崔担の内附を認める詔勅が出ていた。
また同月、茶丘にも「兵を率いて鳳州(朝鮮半島北部の都市)ほかの地に赴き、屯田総管府を設立せよ」との命が下されていた。
クビライは崔担から献上された朝鮮半島北部に兵を入れ、直接統治することを目論んでいたのだ。
「我らモンゴル、やがて半島全域を直接統治することになる。それゆえ『まずは鳳州からその下拵えをしておけ』と。それが大カーンのご意思であろう」
実際、1271年にはヒンドが鳳州経略使(屯田経略使)に任命された。
洪茶丘が整備した鳳州の屯田総管府を中心として、モンゴルの支配は半島全域へと広がりを見せることとなったのである。
「直接統治を行うならば、改めて高麗の地理風俗を調べねばなりますまい。モンゴルに生まれ育った私たちは、どうしても高麗の事情には疎いですから」
言われるまでも無く、茶丘は高麗の混乱と荒廃の原因を改めて調査していた。
歴史や社会背景まで含め、全てを徹底的に調べ上げるのが草原の民の、モンゴルの流儀なのだから。
茶丘と同じくトレンカに従って高麗入りした弟の洪君祥を呼んだのも、ともに資料を読み高麗の現状を研究するためであった。
この時(1270年)から45年前(1225年)のこと、高麗はモンゴルの使節を殺害した。
草原の掟では、これは許されてはならぬことである。
6年の準備期間の後(1231年)、モンゴルは高麗に侵攻した。
勝つ見込みが立ってから開戦する、それも彼らの常識である。
それゆえほぼ3ヶ月で、高麗の王都・開京を陥落させていた。
なお兄弟の父・洪福源が帰順したのは、この戦役の劈頭のこと。
高麗の中央政界に縁が無かった彼は、モンゴルとの国境にあたる危険な最前線に回されていた。侵攻が激化する中、予算も人員も送ってこない高麗政府に愛想を尽かしたらしい。
「高麗は、その王は、武臣に頼らねば国の統治も回せぬくせに武臣を疎ましく思っているのだ」と、茶丘はそのこと耳にたこができるほど聞かされてきた。
なおその福源は、モンゴルに帰順して幸福な日々を送っていた彼らの父は、高麗の王族である永寧公・綧の讒言によって死を賜った。
兄弟と彼らの母は、首かせをつけられる屈辱に甘んじた。
「父上の仇だけは取らねばなりません、兄上」
温和な君祥が珍しく頬を紅潮させ、高声を発していた。
ああ、そう言えば君祥は儒者に学んでいたのであったな……と、茶丘はそのことを思い出した。
茶丘とて父の無念を晴らしたくはあったが、それを至上命題とすべきではないとも思っていた。
復讐も戦争も行政も同じ、何事も合理的効率的に為されるべきだ。それがモンゴルの流儀であると。
いま大切なのは任務だと自らに言い聞かせ、茶丘は再び資料に目を落としていた。
一度は逆らった新附の地域には鎮圧官を置いて支配する。
これもモンゴルの通例だ。
翌1232年、モンゴルが軍を引き揚げるや、高麗が叛旗を翻した。
鎮圧官を殺害し、江華島に遷都して抵抗した。
ここまで検討して、意見を交換すべく顔を上げた君祥が息を呑んだ。
兄の表情に冷えたものが浮かんでいたから。
茶丘は怒りを覚えても激昂することがない。ただただ頬に冷えを浮かべるのであった。
父の憤死には冷静さを保つことができた洪茶丘。
だが高麗王朝には怒りの表情を浮かべずにいられなかったのである。
その愚鈍、卑劣、そして何より……その非合理性に。
戦に際して、モンゴルは十分に準備を重ねる。勝てると確信できた時にのみ開戦する。
勝てそうにないならば逃げる、あるいは降参する。それは恥でも何でもない。
その見極めがつかぬ者こそ愚鈍にしか見えぬのである。
そして一度降った者に、彼らモンゴルは手厚いのである。
兄弟の父・洪福源が好例であるが、降参した高麗の王や大臣、将軍たちも優遇されていた。
一命を許されるどころか高麗の支配者としての地位まで保証されていた。
にも関わらず、なぜ叛いたか。
それが茶丘には理解できなかった。
勝負がついた後で、恭順を誓っておいて、さらに勝ち目のない戦をしかける。
これを卑劣と言わずしてどう呼べば良いのか、茶丘は他に言葉を知らなかった。
当時の戦役に携わっていなかった茶丘すら、怒りを覚えたのである。
そして「誰よりもモンゴル人たらん」と心掛けている彼が許せないと感じているならば、当時のモンゴル人、その大部分も許せないと感じていたに決まっているのだ。
20年の間、六度にわたり、モンゴルは高麗を侵略した。
モンゴルが侵攻すれば高麗の王朝は降伏を誓う。だが軍が去れば再び背く。
そしてまた侵攻を受ける。高麗の宮廷は江華島に避難する。国土は蹂躙を受ける。その繰り返し。
彼らがようやく完全服従を誓ったのが、12年前(1258年)のこと。
高麗国王が代替わりし、江華島から出てきたのだ。
まあひとつの目安ではあろうと、冷静さを取り戻した茶丘がつぶやく。
モンゴルが金王朝を滅ぼすのに費やした年月が23年間である。
高麗はそこまでの大国・難敵ではないけれど、多方面に侵攻しつつの片手間であったのだから。
胸を撫で下ろした君祥も、顔を見合わせ頷いていた。
検討すべき歴史はあと10年強、もう少しだ……と楽観しそうになって、そうではないということに気づく。兄の鋭い視線を避けるべく、慌てて資料に目を向けていた。
完全服従を誓ったと見たから許し、1260年には鎮圧官も引き揚げた。
だが恩恵を与えたにもかかわらず、高麗王は大カーンからの「入朝すべし」との命に背き続けていた。
言うことを聞かぬならば、では一国を挙げて意地を見せるのかと思いきや、武臣と文官が仲間割れ。
ついに今また内に林衍が乱を作し、北に崔担の分離独立、そして南に三別抄の乱。
まるで統制が取れていない。国家の方針というものが見えてこない。
合理性が欠片も感じられぬ、まさに理不尽ではないか。
おかげで我らモンゴルがどれだけ苦労しているかと、明晰な頭脳を持つ洪茶丘もついに頭を抱えざるを得なくなった。
高麗人とはよほどの愚か者なのか……と慨嘆して、伸ばした手の先にあった碗から立ち昇った香りに、茶丘は大カーンの帷幕を思い出した。
モンゴル人の将軍、色目人の経済閣僚、漢人の行政官。彼らに茶を出すのが茶丘の仕事であった。
モンゴル語で、ペルシャ語で、漢語で。みな自信に満ちた顔で激論を交わしていた。
しかしひとたび断が下れば一致団結、目標に向けて邁進し大いなる成果を勝ち取っていた。
「なに人だから賢いとか愚かとか、勇敢だとか臆病だとか、そういうものではないようだな」
制度だ。国の体制が高麗の混乱を招き当事者能力の喪失を招いているのだと、茶丘がそこに気づくのに時間はかからなかった。
当時の高麗は、100年続いた武臣政権が滅びたところであった。
外敵であった我らモンゴルに襲われ、馴染んでいた体制が崩壊すれば、それは混乱しても仕方無い。
しかし繰り返すが、モンゴルは降者に寛容なのだ。
「高麗王が腰を据えてモンゴルに服従を誓えば、無用の混乱は起きなかったはずだ」
「それができない体制だったのでしょう。この100年の間に、高麗の王は実権を失っていました」
「実権が無いのに、崔氏も林衍も三別抄も王を担がずにはいられなかった……」
それだけ高麗王の権威は大きいのかもしれない。
ならばモンゴルも、高麗王を利用すべきであろう。
軍事力の裏打ち、実効力は我らモンゴルが担当する。武臣は高麗王から引き離し……皆殺しにするか、それが効率的であろう……と目を上げて。茶丘は舌打ちをした。
「この後」を考えればそれはできない。徹底的に反抗を押さえ込んだ上で、利用する他はあるまい。
「なるほど、なればこそ『屯田(兵の駐屯)を行い事実上の直接統治を布きつつも高麗王は廃さない』とのご方針であるか。ならば私は大カーンのそのご意思を徹底的に遂行するのみ」
方針を口にして整理された茶丘の頭脳に、またひとつ疑問が浮かんだ。
政情の安定化、屯田制(駐屯)の施行、敗残兵の掃討。
茶丘にしてみれば簡単な仕事であった。
この程度のことで大カーンが自分をお遣わしになるわけがない、そのこと確信していた。
「西の内憂よりも南の外患、それがカーンのお心であることも間違いない」
大モンゴル帝国内での主導権争い、その本質は戦では決まらない。「モンゴルはモンゴルを殺さない」のだから。
彼らの主敵は宋(いわゆる南宋)と決まっているのだ。
「ええ、兄上。ひと段落したら私も対宋戦線に回るようにと、内々に」
我らモンゴルの主戦場ではないか、羨ましい……と、その気持ちを顔にのぼせてしまったか。君祥が困ったような笑顔を返してきた。
双叔(君祥の幼名)の前だとつい気が緩んでしまうと、茶丘もこればかりは弟によく似た苦笑を浮かべていた。
「兄上は来年にもヒンド様の右丞(副官)に任ぜられるともっぱらの噂。高麗行政の次席ではありませんか。ヒンド様は上に座るのがお仕事、実務を取り仕切るという意味では事実上の長ですよ?」
「代わってみたいか? お前は学問を仕込まれているからなあ。俺は戦場で暴れ回るのが本領さ」
数年前、君祥を連れて上京しお目通りさせた日のことを茶丘は思い出していた。
13歳の君祥を見た大カーンは大いにお喜びになり、片腕と頼みにされている劉大夫(光禄大夫の劉秉忠)にその相を観るようお命じになったものであった。
「この少年の目つきは非凡です。将来必ず功名を挙げることでしょう。ただし学問に力を入れさせなければなりません」
師たる儒者を選んでいただいたのは良いのだが、なにせ大カーン直々のお声がかりであるゆえ、師も必死で教誨を加える。
「ええ、それはもう絞られております」
まるい頬を緩めて苦笑するその様子、取りようによっては不敬・不謹慎にあたるのだが……咎め立てする気になれなかった。
洪君祥には、怜悧にして剛毅な兄の茶丘が持ち合わせていない愛嬌があった。
「なるほど、笑ってごまかすことを覚えてはならぬゆえ、学問に励み身を修めよと。さすがは劉大夫だ」
……我ら兄弟、大カーンに愛されている。
その喜びを爆発させた茶丘の笑声が、窓の外へ、蒼穹へと消えて行った。
それは父の地位を継ぎ、若くして重責を背負った日から封印されていた姿で。
兄のあけすけな笑顔を久々に目にした嬉しさに、君祥も日頃うるさく仕込まれた礼法をかなぐり捨てた。
大口を開け、兄に負けじと哄笑を響かせたものであった。
開京: 高麗の首都。現在の北朝鮮・開城。
江華島: 臨津江(現在韓国・北朝鮮の境)の河口にある島。現在も同名、韓国領。
珍島: 現在も同名。朝鮮半島南西部、陸地から数百mのところに浮かぶ。
鳳州: 朝鮮半島北部の南端、内陸部に存在した都市。
光禄大夫: ブレーン、スタッフに与えられる名誉の官職。
劉秉忠: チンギス・カーン以来の宿老。クビライの政策構想を支えていた。