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2 二世 



 謹んで御前を退出して後、洪茶丘はようやく喜びを面に上せた。

 やはり大カーンは自分を信頼してくれているのだと。


 洪茶丘にとって、クビライは天とも父とも頼む存在であった。

 生みの父、洪福源は茶丘が14歳の時に亡くなっていた。が、彼はその時すでに、いやそれどころか物心ついた頃より、クビライに仕えていた。


 洪福源は、高麗からの降将であった。

 それでも大カーンの――当時は漠南漢地大総督、すなわち対宋国並びに高麗戦線の総責任者だが――クビライは彼を信用し、「管領帰付高麗軍民総管」(高麗からの亡命者を受け入れ再編・管理する総督のような地位)に任命し、最前線で使い続けた。


 「降将を、異民族よそものをここまで信頼してくださるなど、とても考えられぬことだ。大総督殿下への感謝を忘れてはならぬぞ、茶丘」

 幼い茶丘に、父の福源は常々そう説いていた。

 

 当然ながら洪福源は自らを高麗人だと思っていた。

 それゆえにこそ「とても考えられぬ」と感動を口にしていたのだ。

 

 しかし茶丘は、父と感動を共有できないでいた。

 降った者には寛容に接する、それは草原の掟ではないか。珍奇とするには足りぬと。


 許されるに留まらず、さらに優遇されることもまた然り。

 人口に乏しい草原の民……ことに急膨張を続けるモンゴルは、降人の出自になどこだわってはいられない。能ある者は必ず優遇される。

 父が喜ぶべきは、誇るべきは、己の能力のはず。恩を感じるのは当然としても、「異民族よそものなのに」という言葉には違和感を覚えざるを得なかったのだ。



 父子の意識の齟齬は、生まれ育った環境の違いに起因していた。


 茶丘が生まれたのは、父がモンゴルに降って後のこと。

 現代ふうに言うならば彼は「在蒙高麗人二世」いや「高麗系二世モンゴル人」であった。


 二世の自意識というものも、多岐にわたるであろう。

 自らが属する社会に違和感を抱き、故国に思いを致す者。現地の在外エスニックグループに居場所を見出す者。エスニックグループのあり方にも疑問を覚え、孤独を感じる者。

 だがその一方で、自らが育った社会に満足し、その価値観を受け入れる者がある。社会に一体化し溶け込んでゆく者や、溶け込もうと意識的に努力を重ねる者も。時として過剰適応する者もある。


 洪茶丘が、まさに後者であった。

 彼の自意識は「生まれながらのモンゴル人」であり、そうあろうと努力する男だった。

 「高麗人なのに、高麗人だから」という意識は、彼において皆無であった。

 


 なぜなら洪茶丘はモンゴルにあって何の不満もない青春を送っていたのだから。



 彼を寵愛するクビライは、モンゴル帝国の大カーン。世界の最高権力者である。

 そのクビライは洪俊奇のことを成人後もその小字(幼名)で、「茶丘」と呼んでいた。幼時より目をかけていたことの現れと言えよう。

 いわゆる侍従・小姓であった――日本に喩えるなら信長にとっての森蘭丸、家康にとっての井伊万千代(直政)のような存在――即ちモンゴルで言う「質子トルカク」・「親衛隊ケシク」に、あるいは属していた……と考えるのは、記録が無い以上行き過ぎかもしれない。

 だがそうであったとしても不思議は無いと思わせるぐらいに、洪茶丘への寵愛は彼とクビライの一生を通じて続くのである。 


 いずれにせよ、物心ついた時からクビライの側に仕えていた洪茶丘とは、多感な時期を「世界の支配者」の傍らで、あらゆる意味で恵まれた環境のもとで、英才教育を受けつつ過ごした青年であった。


 そのような俊英が辺境の半島に志を羈束されるであろうか。

 洪茶丘は高麗に対し、無関心であった。愛着も憎悪も持っていなかった。


 

 そしてその高い意識に、強い愛国心に支えられて、あるいは己の居場所を確保する生存競争の必要に駆り立てられるようにして、洪茶丘は研鑽を積み昇進を重ねていた。


 父・福源の地盤と官職(管領帰付高麗軍民総管)を継いだのは、茶丘が17歳の時。いくら寵愛深き少年とは言え、それだけで軍民を率いる総督的な地位を継がせてもらえるはずは無い。

 ここからも若くして優秀この上なく、将来を嘱望された存在であったことが窺い知れる。


 事実、洪俊奇(茶丘)は、年端もゆかぬうちから史書に「驍勇」と特筆されるほどに傑出した武人であった。

 「モンゴルの男」を自任する茶丘にとって、それは何よりも尊ぶべきこと。

 

 しかし世間はそう見ない。洪茶丘の扱いは「高麗の男」であった。

 モンゴル人、色目人の下にある……と、そこまで差別的な扱いを受けてはいなかったであろう、クビライ体制の下では。

 しかしチンギス・カーン以来のモンゴル人からは薄皮一枚隔てられた対応をされている、そんな気持ちを彼は拭えずにいた。


 己の存在に不確かさを感じる日々。その中にあって、ひとりクビライのみが、洪茶丘を常に身近に置き愛惜してきた。

 茶丘もよく期待に応えた。江北の平原で初陣を済ませて以来戦場では必ず手柄を立て、秘書業務に就いては遺漏無く、内にあっては大カーンの私生活に不快無きよう尽くしてきた。

 

 間近に接していた大カーン・クビライは、茶丘のその能力を、精励を、献身を見通していた。

 25歳になった洪茶丘に林衍の乱の鎮圧と「その後」についての一翼を託するにおいて、クビライは何ひとつ不安を覚えていなかったであろう。 




 「……私はモンゴル人だ」


 退出しつつ、茶丘は心中に呟いていた。

 身内でない者、モンゴル人でない者に、ここまでの寵愛と責務を与えてくださるはずがないと。


 「私はモンゴルの男だ。草原の子だ。モンゴルであること、それが大カーンへの、我が同胞(モンゴル)への、恩返しだ」


 自室に帰って後も、洪茶丘は己の決意を口に出していた。 





質子トルカク:諸王からの人質。

親衛隊ケシク:モンゴルの貴人に仕える親衛隊にして若手錬成機関。



 私が考えるところの在外二世の心理については、「異世界王朝物語」第二百四十五話「在○○二世 その2」に記してあります。

 それが全てだと言うつもりは、もちろんありませんけれども。



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