15 二世たちの一帯一路
1287年、ナヤンの乱が収まって後のこと。
東南アジア方面の外交政策について大元ウルスは穏健策に舵を切ったとの話が、茶丘のもとに漏れ聞こえてきた。
モンゴルは寛容である。逆らわぬならばその地の習俗には干渉しない。ともに利を分かち合う。
インドへ、ペルシャへと続く道ができた。
チンギスカーンのもと、モンゴルは大地を支配した。
いまクビライ大カーンのもと、モンゴルは水を支配し、ついに世界になったのだ。
茶丘の夢は、ついにかなえられた。
これで後は、話の分からぬ日本だけとなった。
使者を斬った日本だけは征伐せねばならぬ。博多から海路3日で半島へ、そこから海路5日とかからず大都へと通ずる日本だけは、押さえておかねばならぬ。
海戦の準備にますます精励する茶丘のもとに、伝令が飛び込んできた。
ナヤンの残党カダアンが、朝鮮半島北部に侵入したと。
カダアンの一党はナヤンよりもさらに小さい。絶対に勝てぬ。
なぜそれが見えないかと、いつまで同じ過ちを繰り返すのかと、茶丘は大いに憤った。
「日本征討は、しばらく延期となる見込みです」
茶丘の体から、力が抜けた。
そのまま茶丘は疾を得た。
そして引退した。時に1290年、46歳であった。
1291年。
猖獗するカダアンへの備えとして、地元遼陽の押さえを依頼された茶丘は、クビライから派遣されて来た重臣にただひと言を返した。
「お命じくだされば良いものを」
病をおして現場に出で、翌1292年。
力及ばなかったことを、中道に斃れることを大カーンに謝罪しながら卒した。
弟の君祥に看取られながら。
1292年、クビライは日本征討の軍を起こす決断を下した。
しかし洪君祥の顔を見て、取りやめた。
率いるべき人がいなかった。クビライの命の灯も尽きようとしていた。
バヤンを呼び返し、孫のテムルへの継承を磐石のものとしたクビライは、1294年に崩じた。
クビライが建て付けた一帯一路は、テムルの治世において結実した。
カイドゥを打倒し、ふたたび草原は平和を取り戻した。海路は栄え、経済活動は最高潮に達した。
やがて大元ウルスは江南を失った。
富を配分できず、「漢地での」軍事的優位を失っては、建て付けを維持できない。
農耕の民と、草原の民と。儒を奉ずる半島の民と、西に広がる啓典の民と。みなが納得できる理は、いまだ見つかっていなかった。
理が無くとも経済圏は成立し得た。あるいは利の「増殖・分配」が公正さという「理」にあたっていたゆえかもしれない。
だが理に加えて利と力とが失われ、一帯一路は分断された。
チンギスカーンに並び、超える業績を。
それは二世たち……ユーラシアの王者にとって、責務となった。
アレクサンドロスの弊は案の定、チンギスカーンの弊に名を変えてユーラシアを呪縛した。
性質の悪いことに、いや本来ならば幸いなことなのだが。見えぬところにクビライの建て付けが、クビライカーンの弊が生まれた。
ユーラシアはひとつの経済圏としてつながってしまっていた。政権が、政治的な支配者が分かれていることが、不合理不経済となっていた。
東の永楽帝は一路の再興を目指し西へ鄭和を派遣した。
西のティムールは一帯の支配を目指し、東へと駆けた。
帝政ロシアが手を伸ばした。
みな見果てぬ夢を追い、その途次に斃れた。
幸か不幸か、のちに一帯一路は不要に――断言を避けるならば――必要性が小さくなった。
ヨーロッパ主導で世界がひとつの経済圏となったから。
英米の海軍力、産業革命から金融資本主義が生み出す利、自由と民主の理によって。
ひとつの強い力と、利……富の増殖・分配と、みなを納得させ束ねる理と。
いまその建て付けは、揺らいでいるだろうか。
クビライ二世は、どこかに生まれているだろうか。




