1 クビライと洪茶丘
厳かな声がかかった。
「洪俊奇はトレンカに従い、兵三千をもって林衍を討滅せよ」
続いて正面から、優しげな声が。
「茶丘よ、任せたぞ。しばらくお前の顔を見られないのは寂しいが」
茶丘とは、洪俊奇の小字(幼名)である。
しかし賢明を以て名高い大カーンは、20代も半ばを過ぎた俊奇のことをいまだに「茶丘」と呼んでいた。
そしてその寵愛ぶりを、惜別の思いを、並居る顕官も自然に受け入れてしまうぐらいには洪茶丘の容姿は端正であり、その挙措には嫌味が無かった。
だが恭しく命を受けた青年の後ろ姿が消えるや、重臣のひとりが大カーンに懸念を口にした。
「彼は高麗人です。高麗に手心を加える、あるいは結託して乱を起こす。そうした危険がありはしないでしょうか?」
懸念があるなら、遠慮せず口にするのが彼らの仕事である。
任を怠らぬその謹直に満足を覚えつつ、大カーン・クビライはしかし、即答した。
「茶丘に限って、それはありえぬ」
口にしながらも、クビライの切れ長な目は視界の片隅に動くものを逃さなかった。
ひとりの近侍が分不相応にも何か言いたげに体をもぞつかせていたのだ。
近侍はモンゴルの名家に属する青年であった。
大カーンの権力は絶大だが、それでも同族に対しては遠慮もある。その遠慮と同じだけ、同族の側でも大カーンに甘えを見せるようなところがある。
心に小さな波立ちを覚えつつ、クビライはそちらに首を傾けていた。
若い近侍が、不躾を咎められぬよう慌てて目を伏せる。
その恭謙を見せるならば、目くじら立てることはない。
数少ない同胞はクビライの権力を支える基盤でもあるのだから。
アリクブケの残党、カイドゥの輩。同族でありながら大カーンの権威を認めぬ者は後を断たぬ。
統一クリルタイを開く計画も、西方ウルスのカーンたちが立て続けに病没したせいで流れてしまった。
権威を確立しきれていないこの状況でクビライがあまり強硬な態度を示しては、モンゴルの同胞は抵抗勢力に身を寄せてしまう。
とは言えクビライも世界帝国モンゴルの大カーン位を勝ち取った男。その現状を放置するほど甘くはない。同族を引き付けるための方針はすでに決定済みであった。
……だがその方針には手をつけたばかり。効果は十全に発揮されていない。
不快の思いはすべて飲み込まざるを得ないのだ。今は、まだ。
ゆえにクビライはその絶大な権力にそぐわぬ物柔らかな声をかけていた。
「許す。申してみよ」
「はっ。茶丘、いえ洪総管の父は、高麗人の讒言によって死を賜ったとのこと。彼が高麗人に恨みを抱き、必要以上に過酷な仕打ちをすることはないかと、それを恐れます」
若いのによく気がつく男だ。まるで漢人だ。
大カーンはそのことに満足を覚えた。
子が親に抱く情愛……それを漢語で「孝」と言うこと、高麗人も重視していることはクビライも知っていた。
書物には、単に情誼であるにとどまらぬとあった。父母の仇は「不倶戴天」……「相手を殺さずには蒼天の下を歩めない」、それほどの行為規範であるとか。
我らと何ら変わるところが無い、その事実に当然の思いと小さな不思議を感じつつ、再びクビライは断言した。
「茶丘に限って、それはありえぬ」
眠そうに細められた目。そこに感情を映すような不用意を犯すはずもなく、しかしそれでもクビライは心中で苦虫を噛み潰していた。
よく気がつく若者だが、発想がまるで漢人ではないか。この侍従はせがれのチンキムと同世代、同じように漢籍にかぶれたかと。
クビライは洪茶丘に不快を覚えたことが無い。
だから身近に置き、寵愛を加えてきた。その人となりを情動の襞にいたるまで知悉していた。
茶丘に限って、それはありえぬのだ。
トレンカ:モンゴルのいち地方王
アリクブケ:クビライの弟。大カーンの位を争った。
カイドゥ:オゴデイ家の男。クビライに反抗的で、モンゴル帝国内で勢力争いを繰り広げていた。
統一クリルタイ:モンゴルのカーン(≒諸王)たちが集まって為す、総会議。
西方ウルス:いわゆるキプチャク汗国、チャガタイ汗国、イル汗国。