内職と朝食
一応、目覚まし代わりにセットしておいたスマホのアラームが鳴る。朝七時。
相田はベッドの中で寝ぼけ眼をこする。一瞬、どこかホテルかペンションにでも泊まったのかと勘違いした。よく考えて、ああ、ネグローニさんのお宅に泊めてもらったのだったと思い出す。
窓のカーテンを開けて見下ろせば、網屋とネグローニが車の前で何か話し込んでいた。車は見覚えのないものだ。
ドアがノックされる音。はーい、なんて間の抜けた返事をすれば、顔を出したのは塩野だ。
「相田君おっはよーぅ! 眠れた?」
「ぐっすりです。先生はあれから寝たんですか?」
「うんにゃ、頑張ってお仕事してた。偉いでしょ、ほめてほめて」
「えらい。せんせいえらい。がんばった。すごい。とってもすごい」
「えへへえ! ほめられた! えへへへへえ!」
自分で要求しておきながら、いざ言われると満更でもない顔になるのだからこの人は。が、相田の賞賛はあながち冗談でもなかった。まさか一晩中働いていたとは。
「んでね、僕、ちょっと寝てもいい?」
「あ、はい、どうぞどうぞ」
慌ててベッドから降りる。塩野は上着を着たままネクタイを締めたまま、「うあぁー」などと呻きながらベッドに転がる。
「せんせ、上着脱いで脱いで。あとネクタイも取って」
「うあー、めんどーい」
「シワになっちゃいますよ!」
「相田君、お母さんみたぁーい」
「お母さんでもお父さんでもないっス! ほら脱ぐ!」
半ば無理矢理に上着を剥ぎ取り、ネクタイを解いて引き抜く。掛け布団の上に転がっていたので、下敷きになってしまったそれを引っ張り出すと上に掛けてやり、後から気付いて眼鏡も外した。
塩野は掛け布団にくるまり、ミノムシみたいな格好になる。
「あのねぇ、えっとー、一時間したら起こしてー……」
「了解です。おやすみなさい」
「ふぇーい」
この一言、いや、言葉にもならない呻きを最後に、塩野は動かなくなった。すうすうと寝息が聞こえる。
相田は音を極力音を立てないように部屋を出た。とりあえず一階に降りると、ネグローニと網屋が中に入ってくるところであった。
「おはようございます」
「おっ、おはようさん。ちったあ眠れたか、うるさくなかったか」
「いやあ、爆睡してたので」
「そっか、ならいいや」
外には誰か来ているらしく、ざわざわと声が聞こえる。然程時間も経たぬうちに、ざわめきは車の音とともに去っていった。
「相田君」
老人から低く通る声で名を呼ばれ、相田は思わず「はい!」と小学生のように応える。
「起きたばかりのところで申し訳ないが、少し手伝ってもらえないか」
「はい、俺にできることなら何でも」
「それはありがたい。ちょっとね、書類を清書してもらいたいのさ」
ネグローニが案内したのは、昨晩最初に入った仕立て部屋だった。部屋の隅からノートパソコンを取り出すと、横に手書きのメモを添える。結構な量だ。
「これをこの順番通りに清書しておくれ。私は間取り図を描かなければならないものだから」
彼の方は彼の方で、これまた部屋の隅にある古いデスクトップパソコンに火を入れた。
「間取り図、ですか」
「うむ。型紙作成用のCADでも何とかなるとは思うんだが……」
確かに、立ち上げたのはCADだった。しかも、前に作成していたと思わしきスラックスの型紙図案が残ったままだ。
「ま、何とかなるだろう。何か分からないことがあったらすぐに尋ねてくれればいい」
「はい、分かりました」
とまあ、気軽な気持ちで清書を始めたはいいが。
この内容が些か物騒な気がする。アジト、とやらの場所。首魁。その名前。家族構成に経歴、犯罪歴、性癖、所持する武器、組織の規模、部下の人数、一人ひとりの名前、さらにそいつらの家族構成に趣味趣向、最近雇った奴から古参まで、勿論年齢性別人種に髪と目と肌の色、利き手利き足訛りに出身地、アジトにどんな仕掛けがあるか、何を行っている組織なのか、主に使用する道路、行きつけの店、武器類の仕入先、さらには何を前日に食べたかまで……何かの組織と思わしき情報が、ぎっちりと山程。
そして、どの時期に、どんな事をやったのか。麻薬を流す、人を脅す、殺す。目障りな自警団は潰す。
清書してゆくごとに恐ろしくなってくる。そんなことをする奴らが、ここにはいる。
だが、と、相田は考えを改めた。やっていることが露見しやすいかしやすくないか程度の差であって、ルツボもこちらもそんなに差なんてないんじゃなかろうか。交通事情だってそうだ。酷いところはやっぱり酷い、どの県であっても。
目立つか、目立たないか。露呈するか、しないか。それだけでしかない。
相田の清書したメモと、ネグローニが描いた間取り図を印刷して任務完了。気がつけば一時間経っている。
「ああ、いっけね、塩野先生起こしてきます」
「よろしく頼む。朝食も出来たようだね」
そう、網屋の姿がないなと、相田も思っていたのだ。で、清書している最中に鼻孔をくすぐるごはんのにおい。結論はただ一つ。網屋が台所で何か作っている。この相田雅之、どんな小さなレストランの文字も見逃さないし微かなメシの匂いだって捕まえる。
こいつは……卵の匂いだッ!!!!!
案の定、網屋が顔だけだして告げた言葉は「朝飯できた」だった。
台所を借りて網屋が作った朝食は、やたら重量感のあるスパニッシュオムレツとトーストにサラダ、野菜が大量に入ったコンソメスープ。
一皿だけ、スパニッシュオムレツがパンケーキの如く積み重ねられていた。カットすらしていない。
「相田はそれな、見りゃ分かるか」
「あざぁぁぁあぁっす!」
スパニッシュオムレツの中にはこれでもかと根菜が入っていた。相田の腹を強引になんとかしようという揺るがない意思が見て取れる。スープすら具材を盛りすぎて水面より上に飛び出している。
眠い目をこすって降りてきた塩野も、あまりの大盛りぶりに目が覚めた。目をゴシゴシとこすって眼鏡を掛け直し、「ああ、そうか相田君のか、そっか」と無理矢理に納得する。
呑気に始まった朝食。やらなければならない仕事の大半が終わったので、全体的に気が抜けたような空気が漂っている。
「あとはまとめたのを依頼人に届けて終わりかな?」
「そうなるな。すまないね、私は本業の方が押しているものだから」
ネグローニの言うことは分かる。仕立て部屋に置いてあった布と型紙と裁断バサミを見れば、嫌でも分かる。
「何か細かいことを聞かれたら僕が答えなきゃだしね。多分だいじょぶだろうけど」
「相手にドクターを紹介したいのもある。この界隈では腕利きだ、顔を合わせておいて損はない」
「この界隈で! 腕利き! こわぁい!」
「……厳密に言うと、依頼主自体はもっと別の人物なんだ。小さい女の子だ。九歳だったか」
「ありゃ、うちの娘と同い年」
黙って朝食を食べていた網屋が一瞬動きを止め、再び何食わぬ顔で食事に戻る。そんな幼い子供がこんな世界に首を突っ込むなど、理由なんてそんなに多くはない。
しかし詮索はしない。理由の見当がつくから。
「私の孫もそれくらいだ。可愛らしいお嬢さんだよ。どうか、力になってやっておくれ」
「だいじょーぶ! まぁかせて! そう言えばね、娘で思い出したんだけど、今日ね、授業参観があるの。一回くらいは見に行きたいよねぇーいっつもタイミング合わなくってさあーもう困っちゃうぅ……あれ……もしかして……間に合う……? あれ? 間に合う? 間に合っちゃう?」
「何時からですかそれって」
「午後の二時」
「行けなくはない時間ですね」
「まことにー?! ええ、んじゃあ、ええっとどうしよう、ああうあうあうあうあう」
「受け渡しの時間、早めようか」
「えっ、えっ、大丈夫ならお願いしますぅ」
「確かあそこは午前中から開いていたと思うから」
素早くネグローニが電話で時間変更を打診する。あっさりとそれは受け入れられ、昼過ぎの受渡し時間が少し早まる運びとなった。