誓約書とルツボ走り
夕飯を食べ、そのまま出発する羽目になった塩野達。網屋は可能な限りの武装を相田の車に積み込んだ。網屋の乗るジープの方が積載量があるが、今回は速度を重視。四の五の言ってはいられない。
まあ、ここ埼玉県から新東名経由で旧愛知県付近までは良かった。何の問題もなかった。少々飛ばし気味の速度で走った結果、日付が変わる前に辿り着けそうだ。
しかし、ルツボと外界を隔てる『壁』が見えてくると、三人の緊張は否応なしに膨れ上がった。
一見すれば小さな高速道路の料金所のようにも思える。だが、そこは『関所』なのだ。そもそも、そこに近付く車両自体が無い。がらんとした空間に、それほど仰々しくはない壁があり、その向こうはどうなっているのか分からない。料金所のようなブースにだけ光が灯り、やけに寂れた景色に見えた。
「……着きました」
相田が小さく告げる。関所の前で停車して、振り向く。塩野は黙ったまま頷いて、中に入るよう促した。隣を見れば、先程まで呑気にドライブ気分であった網屋がホルスターから銃を取り出して、薬室内の銃弾を確認している。
相田は腹を括った。ニュースで名前を聞く程度の知識しかない場所へ、入り込む覚悟。
ゆっくりと近付くと、小さなブースの中にいる係員がこちらを見つめた。慌てて窓を開ける。
「この先がどんな所か、分かってて来たのかい?」
くたびれた制服を着て、制帽を斜めに被った老人だ。片手にはカップ酒。
「え、ええ、まあ。……ルツボ、ですよね」
しどろもどろで答える相田の横から、網屋が黙って己の銃を見せる。
「準備はできてる」
「そうかそうか、分かってんならいいのさ。ええと、三人か。こいつに一筆書いとくれ」
差し出された三枚の紙。親切にボールペンも三本。紙にはこんなことが書いてある。
『 私は、愛知県に入県します。
滞在中、危険な地域の訪問や、危険を伴う行為を実施するにあたり、以下のことを誓います。
1. 原則事項
私は、今回の滞在に於ける怪我や事故などのいかなる不測の事態についても、何人にも一切の責任を言及せず、自己責任の範疇とすること。
2. 自己管理責任
私は、愛知県の土地性及び特殊性を理解した上で、私個人の責任において安全管理、健康管理に十分注意をはらい滞在し、万一、体調・気象状況など異常が生じ安全な滞在の実施が困難となった場合は、速やかに滞在を中止すること。
3. 滞在中止勧告の受諾
私は、愛知県管理局、愛知県内の自警団などから滞在に支障があると判断された場合、滞在中止勧告を受け入れること。
4. 親族の滞在参加同意
私の家族、親族または保護者が、愛知県の土地性及び特殊性を理解すると同時に、私の自己責任による危険行為の可能性も承知した上で私の愛知県滞在に同意していること。
以上』
とんでもない内容だ。相田は思わず網屋と塩野の顔を交互に見た。
「えへへぇ、ごめんね、諦めて」
塩野のへにゃへにゃした笑顔を真正面から喰らう。網屋は溜息を付きながら書類にサインをしていた。
「諦めろ。五体満足で帰れるように俺も頑張るからさ」
網屋もこう言うが、その隙間隙間に何度も溜息を挟まれては説得力がない。だが諦めるしか他に道はなく、相田は恐る恐るサインを書いた。
中に入ると、広がる風景は意外と普通だった。自分達が住んでいる埼玉県なんかより余程開けている。抱いた感想は拍子抜け、と言っても差し支えなかろう。なんだ、やっぱり日本国内は日本国内じゃないか。必要以上にビビることなんてなかったんだ……
と考えていられたのは最初の数分であった。ごく普通に走行していたはずなのに、気が付いたら数台の車がやけに車間を詰めて煽ってくるようになったのだ。
「え、え、なんか近い近い」
そして怒涛のようなクラクションとパッシング。
「いやぶつかるってそれは、待って、え、ちょっと」
速度を上げる。が、それでもまだ相手は煽ってくる。そこそこの速度を出しても、だ。
「相田、後ろの奴ら、コレで黙らそうか?」
「いやいやいや先輩、マズイっすよ物理的に黙らせるのは」
「お前なぁ、ここはどこだかもう忘れたのか? ルツボだぞ? 法律もモラルも関係ないトコなんだぞ?」
そういえばそうだった。ここはもう常識が通用しない街。網屋の「黙らせる」も、この場所では当たり前の方法なのかもしれない。
「あのね、相田君ね、ここは公道だと思っちゃダメ。サーキットだと思った方がいいよ」
さらに後部座席から援護射撃。塩野の言葉の色は結構真剣で、相田はひやりとする。
「車線も信号も速度も、全部無視しちゃっていいの。あと、できれば、煽ってくるあの人達を色んな意味で黙らせておいた方がいいと思うの」
「黙らせる、ですかぁ」
「うん。相田君がダメだったら、その時は網屋くんに頼もう。ね?」
「俺はいつでもいいぞ!」
全力でガッツポーズ決める網屋。
「と、いうことで相田。いいぞ、飛ばせ。あいつらを黙らせろ。誰に喧嘩売ったのか、思い知らせてやれ」
クラクションが、大瀑布のように騒々しく鳴り響く。ルツボに入って十分未満でこれだ。ここはそういう土地なのだ。
「……先輩、塩野先生、シートベルト大丈夫ですか」
「おうさ」
「だいじょぶ!」
切り替えた。ここは公道じゃない。ここは日本じゃない。ここは道路交通法が通用しない。
「んじゃ、行きます」
網屋と塩野が身構えた。ほぼ同時に、体がシートに押し付けられるような感覚。バカみたいな急加速。これでも相田としては「急加速には向かない車だし、まだ十二分に性能を発揮していない」のだが。
瞬時に背後の車両を引きちぎる。だが相手も追いすがる。県外、しかも埼玉ナンバーの野郎が生意気にもスピードアクセラなんぞ乗ってルツボへやってきたのだ、丁重に出迎えねば気が済まないのだろう。
だが、いかに天下の無法地帯・ルツボと言えどもそれなりに交通ルールを守って走行している車両もある。皆が皆、トンデモルツボ走りをしているわけではないのだ。それはただ単に、ルツボの住人全員が速度に伴うだけの運転技術を持っているわけではないというだけなのだが。
要するに、普通に走っている車が障害物になる、ということだ。
とんでもないスピードで交差点に突っ込む相田。信号は黄色だ。というよりすぐさま赤になってしまったので実質赤信号。そこに躊躇わず突入し、網屋も塩野も思わず体を強張らせた。
だが、相田はハンドルを切らない。そのまま真っ直ぐ。左右からやってくる車両がそのまま走ってきてもギリギリすり抜けられる、その計算の上に成り立った吶喊。
「……こっわ! ねええ、滅茶苦茶怖いんだけどォ!」
「諦めて下さい先生! 俺も怖い!!」
後部座席で悲鳴を上げる塩野に、振り向くことも出来ず網屋が叫ぶ。
相田の方はと言えば、ほぼ無表情で運転に集中しきっていた。
一応、カーナビゲーションはルツボの地図を示している。もしかしたら旧愛知県時代のデータかも知れないが、大まかにでも分かれば良い。どこにどんな道があって、どこに信号があるのか、それさえ分かれば十分。あとはその場で見ればいい。
大きな交差点がもう一度。今度は車通りが激しい。右から三台、左から四台、うち右折車一台、前から二番目。
その、左から来る二番目の車両が右折するのとタイミングを合わせて、相田は滑り込むように左折した。入る隙間さえあればいい、そういう走り方だ。相田の走るその背後では車線が混乱を起こし、衝撃音とクラクションがやかましくオーケストラを奏でていた。
「あれ……後続、来ませんね」
「そりゃあお前、お前さ、あんな突っ込み方したらさ、着いてく気力以前の問題だろうがよ! 物理的に! 遮断されたの!」
「じゃあもう少ししたら来ますかね……」
「まあ、否定はできないな」
網屋は体を捻って後ろを見るが、展開する混沌はもう遥か彼方。小さな点がごちゃごちゃと交差点を埋めているだけだ。
「……多分、来ねぇな。こりゃあ」
「ならいいんですけどォ」
「ついでに、埼玉ナンバーはしばらく、ルツボ内で安全に運転できるかもしれないね。もしくは、めっちゃケンカ売られるか」
にゃはははは、なんて呑気に笑いながら塩野が言い放つ。とにかく今この瞬間、いや、ルツボから離れるまでの期間だけでも安全ならばいいのであって、二度も三度もここに来る予定はない。であるから、相田は塩野の言葉にピンとこないまま速度を一般的なところまで落としたのであった。