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オレンジの教室

作者: 飴本 鈍

 夏休みを目前に控えたある日の放課後。県立のとある高校の三階。木造の横に長い一棟の校舎がある。昇降口は一つ、下足入れは今の学校にあるような鉄製のものではなく、昔ながらの木で出来たもの。昇降口から上がると目の前に、やはり木で出来ている階段が見えてくる。横に長い校舎でも階段は一つしかない。階段を上って軋む廊下を歩いていくと、「三年一組」と手書きで書かれた、プラスチック製のプレートが掛けられているのが目に入る。「三年一組」の教室はオレンジ色に染められている。きちんと机と椅子が並べられているが、生徒が誰一人として座っていない。教室のドアと廊下側の窓は開け放たれている。非常に静かでがらんとしている教室と教室の奥の窓から入ってくる夕日の輝きが、私の目に飛び込んできた。私はそんな静かな教室の後ろから入り、一番近くに置かれたパイプ椅子を開き、それに座った。

 教室は夏の蒸し暑さで空気が満たされており、しばらく居れば軽く汗をかき、次第に自分の頬を汗が伝うだろう。それでも私は涼しそうな顔をして、教室の隅から教室全体を見渡している。かつてここには、まじめに授業を受け、休み時間になれば笑い声がし、青春時代特有のほのかな恋物語もあっただろう。しかし、今は閑散とした寂しい教室があるだけだ。

「こんなとこに居たのか」

 と私の横、丁度ドアの敷居のところに立つ男が声を掛けた。かつて、この教室で同じ時を過ごしていたクラスメイトだった沢渡君――沢渡英次(さわたりえいじ)――の姿があった。

「沢渡君も来てたんだ……」

 私は座りながら見上げて、沢渡君の目を見て言った。

「懐かしいな、この教室」

 沢渡君はそう言うと、教室に入り、ゆっくりと歩きながら綺麗に並べられている机の天板を撫でるように触る。沢渡君の顔はどこと無く嬉しそうな感じがした。口元が緩み微笑んでいるように見えた。

「沢渡君って、何処の席座ってたっけ?」

 私はそんな沢渡君にあまり関係の無いような質問をした。

「あそこだよ」

 と指を指して言う沢渡君。指は一番廊下側の列の一番前の席を指していた。私はその席を見て、

「あそこだったんだ……ねぇ、あそこの席って黒板見づらくなかった?」

 と沢渡君に言った。すると、沢渡君は「はははは」と豪快に笑って、

「あー、確かに見づらいな。外の光で黒板が反射しちまってよ。なおかつ、字が白いから全然見えねぇのな」

 と言った。私は沢渡君の笑っている姿を始めてみたかもしれない。

 沢渡君は背が大きくて、痩せている。ヒョロっとしていると言えば早いかもしれない。部活動は陸上部に所属していた。県の大会とかになるといつも大会新記録を打ち出して優勝をさらっていく。100メートル走や砲丸投げ、走り幅跳びなどさまざまな種目をこなしていた。別に、部員が少ないと言うわけではなく、沢渡君の陸上好きが高じて種目が増えていっただけだった。沢渡君の県大会での活躍ぶりは学校中の評判となった。同級生のみならず、上級生も下級生も「沢渡英次」という名前を知らない生徒は居なかった。上級生も弄るとかそういう接し方ではなく、敬意を表した接し方だった。同じ陸上部の先輩達が「おはようございます」とびしっと気を付けをして沢渡君に挨拶をしていたのを見たときは、思わず吹き出してしまった。

 それだけ人気もあるから、当然女の子からも人気があった。よくラブレターを貰っては「困ったな」と言う顔をして頭を掻きながら友達に相談していた。大体、ラブレターをもらった翌日には気を落としていることが多く、「告白してきた女の子をふったことによる自分への責めで気落ちしていたのだ」と、異様に沢渡君のことに詳しい同じクラスの子に聞いたことがある(それが本当かどうかは実際のところわからないけど)。

 そんな周りから人気のある沢渡君を私は好きになったことが無い……と言ったら嘘になる。実は、私も沢渡君に惚れていた事があった。三年生へ進級するときには既に沢渡君の評判は鰻登りになっていて、人気絶頂だった。そんな沢渡君と同じクラスに編入と分かったら女の子達は心躍るか、気を落とすかのどちらかだった。私は心躍ったほうだったけど。

 きっかけと言うのはそんな大したものじゃない。ある日私が次の授業が移動教室で視聴覚室に行かなければならなかったのを忘れていて、あわてて廊下を走ったら、トイレから出てきた男の子にぶつかってしまった。その弾みで私は教科書や筆箱を廊下に落としてしまい、急いで拾い始めた。すると、男の子は私の教科書を拾い、私に「ごめんね」と謝りながら渡してくれた。その男の子が沢渡君だった。

 ありがちな表現で非常につまらないかもしれないが、私の体の中を電気が駆け巡った。知らず知らずの内に私の顔が見る見る赤くなっていって、とても熱くなった。

 それが私の沢渡君に対する恋心が芽生えた瞬間だった。

 けど、私は卒業するまでずっと、沢渡君に「好きだ」という告白が出来なかった。

 その当時の私は、髪を三つ編みにし、丸い黒ぶちのメガネを掛けた、いかにもがり勉タイプな容姿だった。友達もあまり居なくて、休み時間はいつも同じ子ばかりと話していたし、放課後も何処へ出かけるわけでもなく、すぐに家に帰って宿題をして家族と過ごすだけ。部活にも所属していたけど、文芸部という地味な文科系の部活。部員数も少なく、部員自体盛り上げ役が居なくて、非常につまらない部活だった。そんな生活を送っていた、いわば地味っ子という雰囲気だった。

 私はそんな自分に自信がもてなくて、好きな男の子に告白しようかどうしようかとウジウジしていた。時は流れて就職が決まって、それからの時の流れはすごく速くて、あっという間に卒業してしまった。

姫野(ひめの)さんさ……」

 と、私が昔のことを思い出していると、急に沢渡君が声を掛けた。私はハッとした。

「な、何?」

 何故か私の心臓はドキドキと速く鼓動を打っていた。痛くなるほどに速い。

「同じクラスになったことあったけど、あまり喋ってなかったよね」

「うん……私、喋るのが苦手であまりうまく物事を伝えられなかったんだよね」

「そっか。姫野さんまじめでさ、授業もちゃんと聞いてて、ノートも綺麗にまとめてたじゃん。いつも成績トップだったろ? だから、部活一直線だった俺にとっては凄いなって思ってたんだ。尊敬してたんだよ」

 その沢渡君の言葉に、私は正直驚いた。あの沢渡君に尊敬されていたなんて。一瞬、私は夢でも見てるんじゃないかと思った。でも、本当に沢渡君がそういってくれたことに、凄く感激した。

「一回さ、廊下でぶつかったことあったろ?」

 丁度、さっき私が思い出していたことを沢渡君が言う。沢渡君も覚えてたんだ。

「あったよね……。覚えてたんだ」

「もちろん、だって。あん時だもん。初めて姫野さんの眼鏡を外した姿を見たの」

「え?」

 何故か、私の顔が急に熱くなる。そういえば、ぶつかった拍子で眼鏡が外れて床に落ちたんだ。眼鏡が無くて一瞬、誰にぶつかったのか分からなかったんだ。顔を見たけど誰だかわからなくて。眼鏡をかけて初めて、ぶつかったのが沢渡君だって分かったんだ。

「姫野さん、目がクリッとして可愛かったんだよな……実はさ……」

 途中で言いかけて沢渡君は口をもごもごさせた。

「俺、姫野さんのこと好きだったんだよ」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。私は頭の中と心が動転してしまって、

「え?」

 としか言えなかった。

「俺、いろんな子に告白とかされたけど、皆、ただ自分の彼氏が有名人だって言うのを自慢したいだけだと思ってて、ずっと断ってたんだ。断った次の日って、なんだか辛くなるんだよね。好きになってくれるのは嬉しいけど、心の底から好きになってくれる人って少ないんだな……って思っちゃって。そういう人って、俺も心の底から好きになれないなって思っちゃったんだ。今思うと、凄い自意識過剰だったんだなって思うけど。」

 沢渡君ははにかみながら、頬をポリポリと人差し指で掻いて言った。

「姫野さんはさ、純粋な感じがしてとても綺麗に見えたんだ。俺の友達とか地味だとか言ってたけど、俺はそんな風には思わなかった。目が凄く輝いてて……この子だったら心の底から好きになれる。そう思った……でも、告白できなかった」

 私は何も言えないまま、相槌だけを打つしか出来なかった。

「時期的にタイミングが悪すぎた。就活とか受験とかで丁度忙しくなってて、姫野さんに告白したかったけど、出来なかった……卒業した後、凄く後悔した」

 沢渡君はしんみりと、それでいて熱く言った。

「高校を卒業した後は、大学に行って勉強した。忘れたくても忘れられなかった」

 沢渡君は教室の後ろ側の窓際にゆっくりと歩いて行き、窓を背にして私のほうを向いた。そして、少し残念そうな顔をして、

「いつ……結婚したの?」

 と聞いた。私は自分の左手の薬指にはめられた指輪を見て、

「三年前……」

 と言った。

「同じ会社の人?」

「うん。会社の先輩」

「そっか……おめでとう」

「ありがとう……」

 しばらく沈黙が続いた。私は沢渡君の顔が見れなかった。沢渡君も下をうつむいた後、窓のほうを向いて外の景色を見始めた。すると、廊下のほうで

「沢渡くーん! 姫野さーん! もう少しで同窓会始まるよー!」

 と同じクラスだった子の声がした。

 その声に沢渡君は、くるっと振り返った。そして私のほうへと歩いてきた。

「じゃあ、行こっか」

 と沢渡君は言った。けど、

「悪いけど……先に行っててくれる?」

 と私は言った。

「分かった……あまり、遅れるなよ?」

 沢渡君は苦笑いでそう言うと、教室を出て行った。

 沢渡君の足音が遠ざかり、教室に一人だけになった私、ずっと左手の薬指にはめている指輪を見た。その指輪を液体が濡らす。

 私の目から落ちた涙だった。何故だろう。涙が止まらない。

 私はしばらくの間、泣いていた。

 それでも、相変わらず教室はオレンジ色に染められていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 短編ながら、うまくまとまっている作品だと感じました。 描写がとても美しいですね。
2009/01/03 15:52 退会済み
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