竹取物語
いかなる事物にも歴史がある。数学、経済、経営、天文学、こういったものには歴史がある。そしてそれは芸術にも当てはまる。音楽には音楽の歴史が、絵画には絵画の歴史が、哲学には哲学の歴史が、そして当然ながら文学には文学の歴史がある。ではその歴史の意義とは何なのか。その歴史自体は、芸術においてどのような役割を果たしているのか。
文学を執筆するにあたって、その核となる部分は作者の空想・文体・気質、一言で換言するのならばすなわち才能にかかっている(無論これは文学だけではなく芸術全般に当て嵌まるものだが)。だが全く作者の才能自体に帰するわけではない。作者はその才能において外界から影響を受ける。すなわち世界というものを把握し、それを才能というフィルターを通して、創作にあたるわけである。その世界の把握において一つの重要なファクターが作品である。わかりやすくいえば、文学を書く者は他の文学の影響を受けるのである。おそらくだが、文学的才能が優れていればいるほど、作者のその眼差しは同時代のものから過去のものへと移る。すなわち古典から影響を受けることになる。文学を書く者は十中八九文学を読むのが好きなはずだ。優れた観察眼を持っていれば自然と古典に手を出す。そしてその古典から意識的にしろ、無意識的にしろ影響を受ける。無論、独創的・価値ある作品を産み出す場合必要なものは作者による唯一無二の作品である。それは他の作品の影響というものを超越している。しかしその一方、「影響」というものもあるのもまた事実である。この「影響」というものが文学史を紡ぎ出し、文学作品を同じ列に各個バラバラに飾る展示会ではなく、一連と繋がっている連鎖的なものである。もっともそこには判然とした連鎖があるわけではない。その連鎖の鎖は朧気なものであり、一読しただけではわからないであろう。その鎖を少しでも浮かび上がらせるのが「文学者」と呼ばれる者の仕事の一つである。
さて、文学作品が連鎖するものであり過去のものに影響を受けているものであるとしたならば、もっとも初期の作品はどうだろうか。言うまでもないことだが、一番最初の作品にはその前の作品というものがない。ということは少なくとも文学作品というものに影響を受けていないことになる。そこには過去の作品からの捻りというものがなく、全くの無からつくりださなければならない。ならば、その「最古の作品」は独創的なものである、と見なしても差し支えないのではないか。その作品の「独創性」というものは後の世に見られる作品における「独創性」とは違う。後の世においてみられる作品の「独創性」というものは他の作品と比べての独創性である。その独創性を知るにあたってはとにもかくにも他の作品と比べなければなるまい。しかしながら、その「最古の物語」における「独創性」というものは違う。書かれたものは比べることができない。無論その作品が書かれた後の世代、すなわち我々がその作品よりも後の作品と比べることはできはする。だが我々が最古の作品を読み当たる場合、それが「始原」の作品であることを考慮にいれて接する、すなわち他の作品との「独創性」だけでなくその作品自体の「独創性」もまた考慮しなければならない。わかりやすく言うと、後の作品では当たり前になっていることも、その「始原」の作品では独創的なものと見なすことができる、ということである。
では抽象的な理論はここまでとして、この「竹取物語」という作品を見ることとしよう。この作品は日本最古の物語とするものであり、それゆえ「始原」の作品である、と言える。この物語の独創性とはどこにあるのか。それは繰り返すが、他の作品と比べての「独創性」だけではなく、始原の作品としての「独創性」もある。しかしともかくこの作品に関する私の感想を述べたい。
この作品は純然たる物語といってよい作品である。起承転結は非常に明確である。何か教訓的な話があるわけでもない、作者が何か思想を紹介したいわけではない。善悪もないではないが、特段作者が主張したいとは思えない。複雑な要素はなく、簡潔である。この作品の肝は物語それ自体である。読み手はただ物語を楽しむ。作品内においては色々な感情を読み手に対して催させる。かぐや姫に対して求婚するため色々と策をめぐらえては結局その策が裏目にでるのには笑いを読み手に抱かせ、かぐや姫と別れることになることは悲しみを、翁が不死の薬を割る場面においては哀愁の念を読み手に対して抱かせる。それらの箇所は無駄な部分がなく単刀直入に描かれる。良くも悪くも今の時代からみれば捻りというものがない。読み手はすっと物語に入っていくことができる。そのため、こうも言えるだろう、この作品は「王道」的な作品である、と。
結局のところこうはいってもいいのではあるまいか。「始原」の作品としての「独創性」というのは俗に言う「王道」的なものだと。「王道」とは何か。その定義は色々と考えられるが、結局は万人が親しめる要素ということではないだろうか。思えば文学史(およびその他の芸術史)というものはこの王道に対して捻っていくものであるといってもいいのではないか。芸術の始原に位置される作品は全て王道、少なくとも王道的な要素を持っている。現代の芸術は前衛的なものが多い。それはこの王道に対する挑戦であるとも言えるだろう。逆に時代を遡れば遡る程、作品がより洗練されているかどうかは別として、わかりやすいものだ。
物語とは何か、と聞かれれば色々な答えが出てくるであろう。だがやはり物語とは人間関係である。そこから考え、さらにいうならば「王道」の物語とはすなわち「王道」の人間関係を描いたものである、といえよう。では「王道」の人間関係とは何か、と聞けばこれまた色々な答えが考えられ、私もまた判然とした答えが思い浮かばないが、ともかくそれは感情表現がストレートで屈折した要素(あるいは変則的な感情)というものがない、ことを指すのではないだろうか。この「竹取物語」は登場人物の感情が非常に読みやすい。喜怒哀楽の感情が直接的に表出され、それが読み手を問題なく物語へと没入することができる。要するに人間関係がわかりやすいのだ。そういうのもまた「王道」である、と言えるのではなかろうか。
王道、すなわち親しみやすさ・わかりやすさ、というものは芸術作品において重要な要素であることは疑いがない。それを知りたければ、その一手段として我々は「古典」というものに手を出すといいだろう。その中でも「始原」の作品であるのならばのなおさらだ。「竹取物語」もまたそのような作品の内の一つである。