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トニオ・クレーゲル

芸術家は孤独である。少なくとも孤独な要素を人一倍持っている。それも才能があればあるほど。彼は美を感じる。その美が彼を夢中にさせ、それ故、世界からどこか孤立したものとなる。これは何も嘆くようなことではない。彼は美を観ることに喜びを感じ、それによって慰められる。この慰めというのは平常人には許されないものなのだ。


ドリアングレイ


孤独な彼の人生とはどのようなものなのだろうか。それはやはり幼少の頃から孤独なものであったのだろうか。あの青春の日々。エデンの楽園の如き、楽しき日々。誤謬の中にはいるが、その日々は甘い泉のようである。だが、そんな幼少、青春時代においてもやはり彼はどこか世界との壁を感じていたのだろうか。

 トニオは、その壁を二回感じる。親友だと感じている男と恋慕している女に彼は壁を感じざるを得なかった。彼は本に文学作品である『ドン・カルロス』と『みずうみ』を手に取り、その孤独を慰めた。そのどこか陰鬱でもあるような彼を我々は同情するべきであろうか。人との交わりをどこか断たれた彼に対して、いや彼だけではない、孤独な芸術家全てに我々は憐憫の念を感じるべきであろうか。

 私もまた芸術家の一人であると自負している。私もまたどこか孤独な人生を送ってきた。だが私は決してそのことを嘆かないだろう。我々は究極的には独りなのだ。壁を感じているのは芸術家だけに限ったことではない。平常人だって結局は何かしらの壁を感じているだろう。成人した人間は薄々と感じているだろう。我々は結局独りなのだと。結婚して子供が出来ても、結局のところ他人なのだと我々は多かれ少なかれ感じるのではないか。若かりしころ抱いた友情や仲間との団結も、愛を誓い合った妻とも、究極的には赤の他人であることを我々はいつか痛感せざるを得ないのではなかろうか。

 だとすればトニオの青春時代に感じた孤独も決して、悲嘆なものではない。彼は人よりも早く孤独を感じたに過ぎないのだ。彼の友情も恋愛も結局は幻想にしか過ぎなかった。それに壁を感じたからといって何ほどのものがあろう。

 芸術家はいかなる生き物だろうか。彼は創作にあたって霊感を感じる。この世のものではない、彼岸にある何かを感じ、それを楽譜なり、原稿なり、キャンバスなりにその彼岸のものを反映させる。だが、前にもいったように、その霊感により感じる美というものは善悪の彼岸にあるのだ。彼はその美に善悪というものをつけない。才能があればあるほど。だから栗化すことになるが、芸樹家というのは道徳家ではないのだ。優れた作品を産み出す芸術家を称える者よ、気を付けるがよい。その賞賛は作品に向けられるべきであり、創作家に向けられるべきではないかもしれぬ。

 その横溢する生命力は彼の市民としての人生をどこか拒否する。彼は市民としては生きられない。成長するにつれ、壁を感じるようになるのは何も周りの人間とだけではない。成長するにつれ、街と国家と世界ともどこか壁を感じる。そして彼はどこか放浪した気分になる。自分は何者なのか、自分置かれるべき場所はどこなのだろうか。苦悶を感じる彼は癒されるのであろうか。


 人間的な


 トニオもまた苦悶を感じる人間の一人である。彼は居場所を見つけて、故郷やデンマークを放浪する。だが結局見つけたものは?それはやはりどこか疎外された自分を見つけるに過ぎなかった。芸術の霊感に導かれながらも彼は生粋の芸術家にはなれない。さりとて俗人になることもできない。その感じる壁を彼は「迷える俗人」であるというわけだ。

 しかし、壁を感じるのは何も芸術家だけではない。市民側の方も壁を感じる。いや、判然と感じるわけではないが、そこには確かに壁がある。歴史上に名を残す不朽の名作群、シェイクスピアの『ハムレット』、ラファエロの『アテネの聖堂』、バッハの『マタイ受難曲』、ヘーゲルの『精神現象学』こういったものが市民の人々はいかなる感情を向けるだろうか。大半の市民は何事もなく通り過ぎてゆく。一部の「教養人」だけが関心を払う。これらの名作群はなるほど確かに人類の宝かもしれないが、さりとて無かったところで世の中にどれほどの変化をもたらしただろうか。世界は結局今と何も変わらないのではなかろうか。 

 しかしながらいかに天分を持った芸術家といえども、いかに周りとの壁を感じようとも、それでも彼は世界に生きる一人であることもまた疑いのない事実である。芸術家に限ったことではない、隠遁した隠者も、病人も、学者も、生きている人間は皆世界に属している。それは物理的な意味では勿論だが、精神的な意味でもそうである。世界と完全に断絶することは出来ないことであり、許されないことである。世界が嫌いだ、と隠者は述べる。だが、その嫌いという感情も結局は世界と関係を有していることを証明しているに過ぎないのではないか。

 いかに芸術を味わう人がそれほど多くない、むしろ少ないとはいえ、それでも味わう人間がいることもまた紛れもない事実である。自分の作った作品は世界へと発せられる。だから芸術家もやはり世界とは関わりないではいられない。そうだとも。芸術家もまた世界の一員なのだ。壁があるとはいえ、彼はその眼差しを世界へと向けなければならないのだ。

 街へと出かけるがよい。そこにはやはり人がいる。カフェに入る。そこにもやはり人がいる。デパートに出かけるそこにもやはり人がいる。居酒屋で食べる。当然ながらやはり人がいる。なるほど、芸術家は彼らとは関わらないであろう。依然として壁を感じ、どこかよそよそしい眼差しを向けることだろう。だが、それでも心の中のどこかに安堵も気持ちがあるのではないか。いかに孤立しているとはいえ、自分また世界の一員であることをうっすらとだが感じさてくれるものではないだろうか。

 芸術作品、それが文学、音楽、美術、哲学なんであろうと、それらは何らかの形で世界を反映する。それは概念から、つまり埃被った小難しい本を読むことによって得られるものではない。世界に関しての直観から得られるものである。それは世界の何らかの映し絵である。その作品は無論創作である。世界それ自体というより、作者の理想、イデアを表現したものといった方が正しい。だが空想上のものとはいえ、現実世界を下地にしているのを否定することはできない。芸術作品は世界の像であり、それを描く芸術家もまたやはり世界の一員なのだ。

 芸術家である私もまた、世界に孤立すると同時に、やはり世界の一員なのだ。私は日々においてやはり世界と接する。ネット上の人意見、街中での人々の雑踏、本屋やカフェでの店員、居酒屋で俗物的な団欒を過ごす人々、それらは私には壁があると同時に確かに同じ世界にいる一員である。私は彼らに対して眼差しを背けず、人知れず心の中で眼差しを向けよう。憧れと、憂鬱な羨望と、少しばかりの軽蔑と、あふれるばかりの清らかな幸福感を感じながら。

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