地獄変
芸術家、と聞けば諸君らは何を思い浮かぶだろうか。どのような存在を連想するだろうか。それは創作のために身を捧げたどこか高貴な存在であることを連想するだろうか。それとも日常生活に役にも立たぬものを作っている存在であることを思い浮かぶであろうか。まあ連想することは人様々であろう(ついでに言っておくと芸術家というものはピンキリで、その定義も人によって変わる。愚にもつかぬ作品を作るものもまた芸術家であるともできるし、大衆的な娯楽、すなわち漫画・ゲーム・アニメもまた芸術的要素がないなどとは言えまい)。しかしながら芸術家について、私が一言述べるとすれば、芸術化というものは道徳家ではないということである。無論、芸術家であり、なおかつ道徳家な人間もいるであろう。しかしそれ以上に芸術家ではありながら道徳的に並、それだけならまだしもよろしくない人も大勢いるだろう。これは歴史を紐解けば明らかではないか。不滅の作品を作り上げた人物、音楽にしろ文学にしろ美術にしろ、の伝記を簡単に読んでみれば、少なく見積もって半分はお近づきにならない方がましな人物ではないか。だから芸術的天分があるからといって、道徳的に比例するわけではない。ちょうど頭脳が優れているからといって必ずしも友好的な関係が築けるわけではないように。むしろ、優れた芸術作品を創りあげるのならば、道徳的にどこか外れた部分が必要なのかもしれない。
芸術というものは個性である。それが優れたものであればあるほど、個性というものが刻印される。もしも芸術作品とその創作家が連動しているとするのならば(意外と連動していないという説もちらほら見受けられる)創作家それ自体もやはり個性を持っている必要があるのではないか。そして個性的といえば聞こえはいいが、それが正の方向へといったり負の方向へと行ったりする。だから彼らを毛嫌いする人もでてくるであろう。だが、少なくとも私は芸術家の個性というものに理解は示すつもりだ。たとえ、関係を結びたいとは思わなくとも、彼の作品が非常に興味深いものならば、私は彼の個性を遠くから微笑みながら黙認しよう。
月と六ペンス
芸術家にとっては美というものを求めるものである。その筈である。才能が有無は別として、彼は己の感じる美というものを体全身に受け止め、それを作品に具現化する。このことに喜びを感じない人間は芸術家を名乗る資格があるのだろうか。私には無いと思われる。その美は人様々であり、低俗なものから高貴なものへと無数の段階があることだろう。だがとにもかくにも彼は美を感じそれを作品に注入するのだ。人文系の作品でもそうだ。ライトノベルから文学までそこに描かれているのは作者の理想である。望んだものである。時代潮流や金銭のためという目的もあるにはあるだろうが、かといって作者の理想が全く反映されていないことがあろうか。主人公の性格、そして彼の出会う出来事、これらはどこか作者の夢見たものが描かれているのではなかろうか。ならばこうも考えられるのではないか。彼は己の理想・イデア・美を媒体に刻印することができた。それで十分なのではないのか、と。他人がそれに対して下す評価など、知れたものではないか。才能というのは自分の力ではどうすることも出来ないものなのだ。人は創作ものに対してある程度は寛容になるべきではないのだろうか。(こっちは金を払っているから批判する自由がある、と言われればごもっともだが)
もし芸術家というものが美を第一に求めるものとした場合、その美というのは善悪の彼岸にあるはずである。彼はその美に善も悪も感じない。ただ美を感じるから美を感じるのだ。美が成熟すればするほど善悪の区別が希薄なものになる、私は最近そのように考えるようになった。人文系の作品、すなわち物語を描く類の作品(漫画・小説等)ですらそうだ。それが成熟したものであればあるほど、善と悪は判然としなくなる。
美を獲得するために他を犠牲にするもの、我々はそれを批判できるだろうか。悪の美を体現するものを美ではないと、どうして言えようか。現実世界においては当然ながら悪というものは批判される。だが、空想世界においての悪は必ずしも批判されてはいない。名悪役という言葉があるように、我々は空想上の悪に対してもどこか喜びを感じる。このことが悪にも美があることが明らかではないか。正義が負け悪が勝利するという結末を必ずしも我々は否定しない。それを名作であるとすることすらある。このことは我々はどこか心の中で悪を望んでいるのかもしれない、ということが演繹されなくもない。
自分の愛する娘を焼き殺したその代償に、彼は偉大な作品を手にした。我々は彼のその行為を批判すべきであろうか。いや、彼に現実世界においてそのことがあったのなら、やはり我々はその者を批判するであろう。そして法の下で裁かれるだろう。だが、彼の姿勢はやはり芸術家にとっての目指すべき極点の一つではないか。私はこのことを断定的に肯定することは出来ないが、かといって、完全に否定することも出来ない。自分の芸術作品を完成させるための、善悪の彼岸にある行為をとる。美を追い求めるため、彼は善の行為にしろ、悪の行為にしろ、厭わない。自分すらも他人すらも犠牲にする。この姿勢が芸術家として正しくないものである、とどうして言えよう。
およそ、芸術家はなぜ創作するのか。何のために作品に己の感じる美を刻印するのか。それは自分のためか、それとも他人のためか。一面からすれば他人を楽しませるため、というのは言うまでもなくあるであろう。また金銭的なものもやはりあるだろう(私は綺麗ごとを言うつもりはない)。だが、実は芸術家はわかっていないのではないか。自分はなぜ創作するのか。なぜ芸術の道を歩み、そこで創作をするのか、判然としていないのではないか。それは何も芸術家に限ったことではない。会社に勤める最大多数の人々は、自分がなぜかわからないままに出勤しているのではないか。そこには金という明確な目的すらない。人間は自分がなぜ行動するのか自分ではよくわかっていない。自分は自分から見てよくわからない存在なのだ。
地獄の絵師もまさしくそうではないか。彼はなぜ絵を描くのかわからない。自分でもよくわからないまま芸術に取りつかれ絵を描いた。そして彼は最終的に究極の美を見ることができ、死んでいった。この彼の人生は悲しむべきものか。この作品は悲劇であるといえようか。だが彼は究極の美をとにもかくにも見ることができたのだ。彼が死んだのはその喜び故か、それとも美に魂を売った代償なのかは定かではないが、そこには単なる悲劇としては片付けられないものがある。芸術家が目指すべき理想の「芸術の」道を彼は示した
といえるでないか。だが「人生の」道ではなかったことも確かであるが。