城崎にて
統計によれば、日本において年に100万人の人が病気なり事故なりで亡くなっているみたいだ。そう考えると死というものは決して遠いものにあるのではなく、身近な存在、極めて身近な存在であるといわなければならない。
動物は人間よりももっと短いスパンで死んでいく。数年だけ生きるものもあれば、数日しか生きれない動物もいる。また多くの動物は人間の食物にされるためだけに生まれ、屠殺されるものもいる。(私はそれを道徳的に悪だと偽善者めいたことを言うつもりはない。私もまた食事を楽しむものの一人であるのだから)動物というものの生命は実に儚いものだ。では人間は?人間の命というものは儚いのか?脆弱なのか?現代日本において、医療技術や衛生の発達したこの国において、こういうと変かもしれないが、人は中々に死なない。見てみたまえ、多くの人間がいかに日々の仕事で精神を消耗させているかを。朝から晩まで仕事に追われ、そして人間関係に追われる。家庭でもまた精神を消耗させることだろう。だが、自殺しているものもいるが、それでも人は中々に死なない。たとえ嫌なことがあろうと、会社へと出勤する。人間というものは意外にもタフなものかもしれない。しかしながら、戦争において攻撃されればあっさり死んでいくだろう。また伝染病が流行ればやはりあっさり死んでいくことだろう。そんなことは歴史を紐解くまでもなく明らかなことだ。そういう風に考えていると、結局人間というものはタフなものなのか、脆弱なものなのか、私にはわからなくなってきた。精神がタフで肉体が脆弱なのか。それともその反対?
私は生きている。それは間違いのないことだ。そして私は、今までに死に近づいたことはない。精神が追いやられることがあったが、それでも生死の境を彷徨ったとか、死線を乗り越えたとかいうほどのものでもない。そんな私の健全なる生命も、必ずしも必然なものであるとはいえまい。すなわち偶然によって支えられている部分が大いにある。出産のとき何か支障が生じたら?何か食中毒にあたったら?小さい頃に車に轢かれたら?違う時代に生まれて戦争に否が応に参加させられたら?私の生は決して死から遠かったものであるともいえまい。見方によっては偶然が私を生き永らえさせているものともとれるのだ。そしてそれは何も私だけに限ったことではあるまい。ほぼすべての人間の生命は偶然によって支えられているものと考えていいだろう。そのように生命を捉えれば、やはり我々の生命というのは儚いものであると肯定してもいいのではなかろうか。
言うまでもなく、動物の生命は人間以上に偶然によって支えられている。人間によって屠られる機会が多いためだ。では我々人間もまた屠られることがあるのではなかろうか。人間によって?それとも人間を超えた存在によって?いや現にあるではないか。大量虐殺においてあたかも動物を屠殺するかのように人間を殺すことが。今世紀に入ってすでに何件もみられる。文明国とされた国にすら起きている。ならば日本においても大量虐殺が今後起きないと、どうして断言できよう。しかし私はそのような大量虐殺をネットや本でみても以前ほどは道義的な憤りを感じることはなくなった。どこか心の中で人間というのはそういうものだ、という悟りを完全にではないとはいえ、開くようになった。それが起こるのなら、ありのままに起こらせよう。いや別に大量虐殺を望んでいるわけではない。だが賢者たちは常に言っている。「なんと無限の時の中で人間というものはちっぽけなものなのか」そういった趣旨の言葉を私は何度も聞いてきた。悟りを開いたのは結局のところこういうことだろう。すなわち年齢を重ねるにつれ、私は人間というものが儚いものであることを多かれ少なかれ、或は意識的にしろ無意識的にしろ、直感するようになったのだ、ということを。
儚い我々はどうすればいいのか。いや、別にどうすることはない。儚かろうが何だろうが、我々の人生は続いていく。私もまた「偶然によって終わらない限り」私の人生もまた続いていくのだ。私は私の親しい人と交際すれば喜びを感じるだろう。私に対して侮辱の言葉がかけられればやはり怒りを発するだろう。儚かろうがなんだろうが、私は生活し、それに応じて感情を抱いていく。やはりこれが生なのか。私は生き続けなければならないのか。(だが、それでも 最近はやはり喜よりも憂の方の感情を抱くことが多くなった。年を重ねるとはこういうことなのか)私だけではない。みんなもやはり生きなければならない。その生き方には多様な生き方があるであろう。高貴な聖のような生き方から、俗極まりない生き方があるだろう。だがとかく生きなければならないのだ。我々は儚い。だが生きなければならないのだ。
生きなければならない私ではあるが、その反面それが終わることもやってくる。その意味で生も必然であり、死もまた必然なのだ。死ねば私はどうなるのか。まず確実なのは私の肉体は燃やされ、煙となるのであろう。そのことを考えれば私はやはり一抹の恐怖を感じるものだ。しかしながらどこかそれを歓迎する心もあるのもまた事実である。私は「静」を愛する。若い時は若気の至りで色々と騒いでいたが、幸いな事に今私は「静」を愛する。自分で言うのもなんだが、今の私の生活は静かなものだ。私は誰とも騒がず、ひたすらに読書と勉強をする。そして空いた時間は散歩をしたりして過ごす。親しい人間と会合することもあるが、それは決して騒がしいものではない。友情を心密かに噛み締める、むしろ静かなものなのだ。
Far from the madding crowd's ignoble strife,
Their sober wishes never learned to stray;
Along the cool sequestered vale of life
They kept the noiseless tenor of their way.
年齢の蓄積によってこの静の境地に達成されるのなら、私は年齢というものに感謝しなければならない。そしてどうかこのまま静かな、瞑想に溢れた人生を送れるように!そして死というものは静の究極形態なのは明らかだ。ならばそれを歓迎しない理由が一体どこにあろうか。私の精神が亡び、更に肉体が亡びるのならば、それは「静」の境地に完全に達してことに他ならないものではないか。
生と死は表裏一体であるものとされる。少なくともそこに平常人が思っているほどの違いがないことは事実である。我々の年齢が重なれば重なるほど、「静」の境地に達すれば達するほど、その表裏一体性というものは感じられる。そしてそれが表裏一体である、というより正しく一体であることを我々が完全に悟るまで、その時まで、我々は生きようではないか。