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言いかけたままに素早く鞄を持って扉へと向かう。
「ちょっ、逃げるのかヒーロー!」
「敵前逃亡はかっこ悪いぜまー君!」
「ティータイムに席を立つのはマナー違反だぜ!」
「ヒーローは忙しい。休憩時間は中断だ」
それにこっちは命がかかっている。玉子を落とすならまだしも、玉子のせいで命を落とすなんて冗談じゃない。
例え死ななくとも、父の好物である玉子を買い逃せば母の逆鱗に触れかねない。罰則が厳しすぎやしないか?とも思うが、晩飯を作ってくれるのは母だ。文句など言えない。
「おうおう!こんな時ばっかりヒーロー使うなんてズリィぞ!」
だがお前の文句は許さん。
「うるせぇ。カーカー文句言ってないでさっさと宿題終わらせとけよな。先生から大量に出されてただろ」
「それな」
「分かる、マジそれな!」
最後まで騒いだ鳥居には罰として大量プリントの山が渡されていた。とにかく山。期限は無いが険しい山だ。とばっちりで俺にも出されたのだが、まあ文句は言えない。俺も騒いだのだから。
俺の発言で存在すら忘れていたのか、たった今思い出したと言わんばかりに鳥居がマヌケ面を浮かべた。そんな鳥居を鹿島と馬場が両手で指を指して笑う。人に指を指すんじゃない。
「ヒーロー……頼みがある」
「断る」
「はええよっ!後生だから助けてくれっ」
「お前の物はお前の物。残念だが、俺にお前の物は救えない」
「「お、うまい!」」
暴君の揚げ足を取って返すと2人からは一層の笑い声があがり、鳥居はがくりと肩を落とした。……ったく。
「別に、俺が見なくてももう簡単だろ?」
「……そうだけどよ」
「なら問題は無い。励め、学年首位殿」
敢えてそう言うと、唸り声をあげて鳥居が口を引き結ぶ。
唸りを上げるし、馬鹿を言う犬コロだが鳥居は頭がいい。学年にはそれぞれ特進科があり学年テストの上位は決まっていつも彼等なのだが、いま現在、その頂点に君臨するのは鳥居である。
一時は見るに耐えられない様な点数だったが、勉強に付き合うとみるみると鳥居は順位を上げた。単に答えのポイントが分からなかっただけだったようだ。
未だ国語だけは苦手らしいが、今回大量の宿題をくれた先生の担当は国語。つまり、宿題と言って出されたプリントは単純に苦手と言う鳥居の為の克服用だ。なので、これは正真正銘“鳥居の物”。
そんな事もつゆ知らず、叫ぶ声にただただ笑いが絶えない。慰める鹿島と馬場を尻目に、今度こそ扉に手をかけると「ヒーロー!」と呼ばれた。
「じゃあな!また、明日遊ぼうな!」
くるりと振り返れば真っ赤な夕焼けを背に鳥居が大きく手を振った。優しい陽が少し眩しく感じる。
「――――おう、またな」
そうして、教室を後にした。
※※
学校の玄関を駆け、校門を抜け、いつもの帰り道から少し外れてスーパーへと行く。
夕方の帰りどきも相まって道には多くの人が行き交い、沈んでゆく陽を見つめながら、すれ違う人達のなんて事のない喧騒に耳を傾ける。
「これからどこに行く?」「今日のご飯は何?」「お母さん!向こうで風船貰えるよ!」「そう言えば昨日さー……」と。
その途中、電化製品のショップ前に差し掛かるとガラス張りの向こうで大量に陳列されたテレビが今日のニュースが流していた。内容は……言い方は悪いがよくあるイジメによる自殺の話だったり、どこぞの暴力団が抗争を繰り広げているなど、聞いていてあまり気分のいいものではなかった。
「……どうしてこういったニュースは無くならないんだろうな……」
それを掻き消すために、早足にその場を立ち去る事にした。
別に自分が綺麗だとか、俺が正しいだとは思わない。“正義”だなんて御大層な漢字を使ってはいるが、鳥居が言うようなヒーローでは決してないし、そもそも俺が思っている正義と鳥居の考えている正義には相違があるのだ。
鳥居のいうヒーローとは真っ直ぐで真面目で、人の為に悪に立ち向かう勇気ある人を指すのだろう。けれど、俺の正義は『人が従うべき正しい道理』とか『人の道にかなっている正しい行い』とかでもなく、あくまで『当たり前で、模範的で、基本的な評価基準の中での正しい考え』だ。
子供でも出来るただの当たり前。ただ、それだけ。
だからこういったニュースを観て「どうして……」と思おうと、それを無くす手段の無い俺はヒーローでも正義でも無く、勝手に胸糞悪く思う偽善であり身勝手な悪なのだ。だから。
(だからせめて、お使いくらいちゃんとやってやるさ)
当たり前の事だけど、それを嬉しく思ってくれる人がいる。なら、せめてそれくらいの手助けはしたい。鳥居の勉強を見るのも、鹿島の髪を作るのも、馬場の菓子に感想を述べるのもその内だ。
小さな積み重ねは大きな一歩。“爾に出ずるものは爾に反る”。
「これがいつかでっかい幸せになる事を願うか……」
喧騒に埋もれる声量で独りごちて、顔を前に向け直す。視線をあげるとチカチカと点滅を始めた信号が見えた。これを渡ればスーパーは目と鼻の先。歩を緩めてゆっくり歩く。無理に渡らずゆっくり歩く事で待つこと無くちょうどよく青に変える作戦だ。地味だけど嬉しい幸せを願う。
そう考えていると、突然後ろから大きな風が吹いた。それと共に「あっ」と可愛らしい声が聞こえ、俺の脇をバルーンウエイトのついた風船が飛び、同時に小さな女の子が後を追って駆け抜けた。
風に耐えきれず小さく浮いたままの風船が少女の先を行く――――未だ点滅を繰り返す信号に向かって。
弾かれたように駆けだす。風はやまない。届いて欲しいのか欲しくないのか、止まない風が俺の背中を、そして風船をひたすらに押してくる。
一度、風船が地面に落ちる。落ちた事で失速した風船を少女が掴んだところで――――信号が赤色に染まった。
「――――っせえぇぇぇぇぇぇーーーーふ……」
少女を腕の中に納めて、思い切り息を吐き出す。赤信号に一歩踏み出した少女が風船を掴むのと、俺が背中を捕まえて後ろに引き転ぶのは同時だった。間一髪の危機一髪。
その少女はと言うと不思議そうな、また、不審そうな顔で俺を見上げていた。……やめてくれ。
そっと視線を逸らすと少女の親御さんらしき女性がそばまで駆けてきた。息を切らして「うちの子に何してんですか!?」……などといった勘違いをされる事はなく、感謝の言葉に何度も例を繰り返してくれた。世界は優しい。
「ほんっっとうにすみませんでしたっ!ほら、あなたも謝りなさい!」
「目の怖いお兄ちゃんありがとー」
「おう、いい女になるな。お前」
こんな状況化でよく言えたもんだと笑えば重ねて謝られた。
ようやく落ち着き手を振って親子に別れを告げると遠巻きに見ていた人達も何事もなかったように過ぎ去っていく。再び信号に目を向け渡ろうと思うと数回の点滅が始まり、今まさに赤に切り替わらんとするところだった。諸行無常である。
「まぁ、これも人助けの結果だ」
満たされた気持ちに気分はすっかり晴れる。運が良かったのもあるが、ヒーローでなくともこのくらいの事は出来るのだと。
それにその運だって、日頃の行いのおかげと思えば儲けものだ。未来の大物、つわもの少女の命が救われたのだからこれ以上の得はない。
明日はきっといい日になるだろうと胸を張れば、信号が青へと切り換わる。トラブルはあったものの早期帰宅者という母の願いも無事に叶えられそうだ。それを確信し歩道へと一歩踏み出した。
――――それが人生最大の損となるとは知らずに。
突如盛大なクラクションが鳴り響く。けたたましい音に素早く目を向ければ、それは紛れもなく俺に向けらたもので、弾丸のような勢いで真っ黒な乗用車が向かってくるのが見えた。
……見えた、と表現するが決して俺の動体視力が良い訳じゃない。そもそも音というのは約340m/秒で伝わるもの。実際に車を見つめてから一秒だの測れるわけがないので正確には分からないが、とりあえず340mの余裕のある距離には見えなかった。おまけに相手も走っているので聞こえてから振り返るのわずかなコンマでも多大な差異は出る。では何故見えるのか?
どこかで見た情報だが脳は命の危険を本気で感じるとなんとか回避する方法が無いかとこれまでの生きてきた中での知識や記憶、経験をフル回転で検索し始めそれによってゆっくりに見えるそうだ。
普段使われていない部分やとっくに忘れているような記憶まで引き出す、いわゆる「火事場の馬鹿力」。自分が死なない為に、一生懸命に脳がフル回転する為に起きる現象らしい。
因みに蠅も叩きつぶされる瞬間に同じような現象が起きており、これによって瞬時に判断して回避しているそうだ。「蠅ははえぇ」とはこの理由から。笑止。
なのでこんな風に音の伝わり方について無駄に考える事が出来、忘れていたような内容を悠長に思い出して現実逃避に成功しているのもそのフル回転する脳のおかげ。本来ならば必死に回避を考えるべきなのだろうが……詰んでいる以外に言葉が出ないのだから仕方があるまい。
現実問題、車のスピードは変わっていないのだから俺がどんなに蠅と同じ立場に立とうと、その潜在的身体能力は蠅ほど備わっていないのだから回避など不可能だ。良く言って人間の手を避けきれなかった蠅と同等だろう。
せめてもの救いはこの歩道を渡ろうとしていたのは俺だけだった事。信号を待っていた時、周りには誰もいなかった事を思い出して一句をひとつ。
“青信号 皆は渡らず 俺一人”……誤用になるが、おあとがよろしいようで。
ここまで考えて、乗用車との距離がスローモーション開始時よりも狭まっていた。逃げも隠れも出来ないのだから、後は心残りを考えるだけ。
鞄の中に仕舞われた宿題。母に頼まれた卵の買い出し。そして――――また遊ぼうと言った鳥居の顔。
(悪い事をしたな……)
せめて次に生まれ変わったら、約束を守れる人になろうと誓う。そしてグッと身体に力を込めれば時間は本来の流れを思い出したかのように動き出した。
見るだけで風圧を感じるように車はつっこんでくる――――見事なドリフトを決めて。
…………。
………………。
…………………………。
お見事。
素直に拍手を送りたかった。ギャリギャリギャリッ、と地面とタイヤの擦れる音と砂を舞わせて綺麗に弧を描いて車は俺を避けた。避けきった先で再びアクセルを踏みならすと爆音と共に角を曲がって姿を消す。
ここまで綺麗に避けられると言葉など最早賛辞の言葉以外に出てこない。助かったと腰を抜かしてでも安堵すべきだろう。
しかし、不運というのはまったくもって非道であり実のところ助かってなどいないのだ。
話は変わるが、最近読んでいる本の中に異世界に転生する小説がある。リリィの本もそうだ。その話では主人公達が転生した異世界の中で活躍したり奮闘し世界を変えてゆくのだ。
では、どうやって転生するのか?
大半は――――死ぬ。主に事故死。
中でも車、主にトラックの死亡が多い。これを“トラック転生”という。
何故トラックが多いのかと考えれば理由は様々だろうが、字面からの死亡率の高さだろう。トラックに撥ねられたら大体の人はその人物は死んだと思うだろう。俺も思う。
さて……色々考えた所でどうしてそんな話をするのかをまとめよう。例えばもしこれがお話の中なら、先程までの俺はきっと死ななかった。大事故は間違いなさそうだがもしかしたら生きていた。その可能性があったと信じたい。
だがしかし――――いまなお目前に迫るトラックを眺めれば、確実に死ぬだろうと思えたからだ。
迫る乗用車にしか目を向けていなかったせいで後ろを走っていたトラックに気がつかなかった。気付けなかったせいで、二度目の現実逃避を迎えていた。トラック転生の死亡率の高さは確実だろう。
そしておまけとは言わないが、もうひとつ言おう。トラック転生や事故に当たって、そのトラック運転手や殺人者の描写は基本的にない。
不運なのは確実なのだからそれ以上に書く必要はないだろうし、運転手の驚く顔が見えたとか書かれたら主人公が転生したのち「……あの運転手は主人公の物語の犠牲の一部となったのだ……」などと罪悪感と同情に涙しないといけないからだろう。だがスローモーションとなった今の俺の世界に、それがどれだけ不運の重なりなのかが良く分かった。
だからはっきりと伝えたい。
歩行者側が青にも関わらず突っ込んできた黒塗り乗用車。畳みかけるように更に突っ込んでくるトラック。先程の電化製品前で聞いたニュース。
――――トラック運転手はスキンヘッドに黒スーツとサングラスだった。
「……そんな事もあるか……」
※※
前話の後半1部をこちらに付けさせて頂きました。変更大変申し訳ございません。