二、
一月は行く、二月は逃げる、三月は去ると言うように、この頃の季節はあっという間に時が過ぎ去ってしまいます。
人里を離れた鬼が山の中のあばら家にやって来てから十日が経ちました。ひと月が短いこともあって、もう二月も中頃です。
さて、そのあばら家に住まう童女姿のあやかしから家を奪い取ると言い放った鬼でございましたが、はたしてそれを為すことは叶ったのでありましょうか。
「木苺が食いたい」
唐突に、童がそんなことを言い出しました。
またか、と鬼は眉を顰めます。
「まだ実を付ける時期ではないだろう」
「じゃが、わらわは木苺が食いたくなった。鬼っ子よ、探してきやれ」
鬼が吐いた息が、白い湯気になって消えてゆきました。
童は時折思い付いたように我侭を言いました。あれを取ってこい、これを取ってこいと言い付けては鬼を山へと向かわせます。
初めは突っぱねていましたが、近頃は文句の言葉もなくなりました。断れば、たちまち柄杓が飛んでくるからです。
「見付けるまで戻って来るでないぞ」
そのような調子ですので、当然のことながら鬼はまだ童から住処を奪えてはおりません。
雪は降っては止みを繰り返し、この日はお天道さまが空に昇っておりました。しかし空気は相変わらず刺すように冷たく、雪も溶け切らぬうちにまた降り積もることでしょう。
鬼は凍った地面を踏みしめ山へと分け入ります。日の光が木々に遮られ、進むほどに雪は深くなってゆきます。
このような雪の中、いくら探したところで木苺を見付けられるとは思っていません。しかしすぐに引き返してしまえば何を言われるか判ったものではありませんから、せめて探しているふりをして時間を潰します。
動物たちはまだ冬篭りの最中か、あるいは元からおらぬのか、山の中はしんとしています。
不意にかさりと茂みが動く気配を感じ、鬼はそちらの方へと足を向けました。
「ひゃあ! 食べないで、食べないで!」
覗きこんだ枯れ草の中には、猫ほどの大きさの獣がおりました。
「なんだ、狸か」
「狸じゃないよ、狢だよ」
「どちらも変わらん」
狢は大柄な鬼の姿に驚きこそしましたが、興味津々といった様子で愛想よく話しかけてきました。
「珍しいね、こんな山の中に鬼がいるなんて。ぼくを食べても美味しくないよ?」
「食いはせん。この辺りに木苺が生っている場所はないか?」
「木苺? 木苺かい? まだ花も咲いていないのに、実なんて生っていないよ」
予想通りの答えが返ってきました。山に住まう者ならあるいは、と思っただけで元より期待はしておりません。
「鬼さんはどこから来たの? 人里を離れてわざわざ山奥に来るなんて、すごく木苺が好きなんだね」
「今は近くのあばら家の屋根を借りている。木苺を食いたいと言ったのはそこに住み着いている小娘だ」
「ああ、あの古いお家に住んでいるあの女の子のことだね」
狢は納得したように前足で地面を弾きました。人間と同じ形をしている者であれば、手を打つ動作に当たるでしょう。
「そうかい、そうかい。鬼さんはあの子のために木苺を探しに来たんだね。仕方ないね、あの子はお家から離れることができないからね」
釈然とはいたしませんが、間違ってはいません。
童は家の守り神ですから、家の外に出ることができません。柄杓ら付喪の道具たちならば外に出ることもできるでしょうが、彼らは器用に動く手足を持ってはいません。童は自分で木苺を取りに行くことができないので、鬼を山へと向かわせるのです。
「鬼さんは優しいのだね、見かけによらないね」
「好きでしている訳ではない」
「そうなの? でも災いを招き入れるなんて、よほど寂しかったのだろうね。ちょっと昔まではおじいさんとおばあさんが住んでいたけれど、しばらくずっと独りぼっちだったからね」
道具たちを数に入れれば独りとも言い難いですが、家屋の傷み具合からして十年は話し相手もなく過ごしてきたのでしょう。
狢は独りぼっちの童を気に掛けて時折様子を見に行っていたようです。話し相手ができてよかったね、と狢は頷きくるりと振り返ります。
「木苺はないけれど、蕗の薹なら少しあるよ。それを持っていってあげるといい、ついておいでよ」
狢は案内をしてくれるようです。山菜で童が納得するとは思いませんが、手ぶらで帰るよりはいくらかましであろうと、鬼はふさふさとした尻尾の後ろについて行きました。
しばらくして鬼は一握りの蕗の薹を手に、来た道を戻って参りました。狢のお陰でわざわざ時間を潰す必要もなくなり、思ったよりも早い帰りとなりました。
獣道を抜けると、今はもうすっかりと見慣れたあばら家が見えてきます。
しかしその前には見慣れぬものの姿もありました。
庭であった枯れ野原、そこに見慣れぬ人間の姿があったのです。三人の男が大きな紙や平べったい機械を手に何事か話し合っています。
そのすぐ脇を、鬼は通り抜けます。丁度話し合いが終わる頃合であったのでしょうか、男たちは鬼の帰宅と入れ替わるように立ち去ってゆきました。
男たちが気付くことはありませんでしたが、家の戸口がわずかに開いていて、そこから赤い着物が覗いています。
「あいつらは何だ?」
土間から外の様子を伺っていた童に鬼は尋ねます。
「さてな」
童は素っ気なく答えました。少し怒っているように見えますが、何が気に食わぬのかは判りません。
「それよりも、随分と早かったではないか。木苺は見付かったのか?」
「これを」
鬼は狢に分けてもらった蕗の薹を差し出しました。
童はそれを受け取らず、怪訝な顔で緑色の山菜を見つめます。
「わらわは木苺が見付かるまで戻って来るなと言い付けたはずじゃが?」
「無茶を言うな、探しているうちに春になってしまうわ。それとも春まで戻って来るなという意味だったのか? 春まで待てず、早く出て行けと言いたかったのであればそう言えばよいものを」
「……そうは言うておらぬ」
童は唇を尖らせました。何か気に食わぬようですが、怒っているとするならば先程とは違う理由で怒っているのでしょう。
「もうよい……使いもまともに出来ぬとは使えぬ鬼っ子じゃ」
憎まれ口を叩いて童は居間に上がりました。蕗の薹は鬼の手に握られたままです。
「食わんのか」
「食わぬ。ぬしが食えばよい」
「我侭な娘っ子だ。選り好みをしていてはでかくなれんぞ」
柄杓が飛んできて、鬼の額に当たりました。